第苦夜

12月10日

 世界は俺だけを取り残して刻々と変化していく。

 期末試験が目前に迫ったその日、一日の課程を終えた俺は早々に学校を後にした。

 試験前のせいか、まだ早い時間だというのに多くの生徒が校門を潜っていく。

 そのままの流れで列を形成し、スクールバスのターミナルに並ぶ。

 本数を増やしているのか、すぐに連なって二台バスが来た。

 順々に前から乗り込んで行けば、丁度俺の三人前で一台目が収容人数を満たした。

 結果まんまと座る事に成功する。

 バスの最後尾、窓際の席を陣取った。

 隣には二人組の女子が座り、直ぐに携帯片手にお喋りを始める。

 それをいいことに俺は鞄から本を取り出す。市販のブックカバーを被せたハードカバーの本。

 端から見れば参考書でも見てるようにしか見えない。それにこの位置なら、後ろから覗きこまれる心配もない。

 それは、本当の怪談話が不思議な字体で綴られている、世界に一つしかない本。

 俺の命運を握る本だ。

 ――――――――世界が勝手に忘れていく内に、また新に二頁、済の印が付いた。

 俺が欠けた頁を埋める事が出来たのは、今までと違い『体験者』から記憶を失なうまでの間に詳しい話を聞く事が出来たからだった。

 あの日意識を失っていた羽山は、龍臣の介抱を受け、救急車が来る頃には目を覚ましていた。

 羽山は、精神が保たずに気絶しただけで、身体に異常は無かったため、病院に運ばれた後も簡単な検査を受けただけで二日後には退院した。

 そのため、佐川の時と違って記憶を失う前に俺は話を聞く事が出来た。

 本来こうやって記録を進めるのだろうと今更に理解した。確かに観察するだけで解る事などたかがしれている。今までは偶然の積み重ねで書き込めていただけなのだ。

 羽山の話では、顔の溶けたあの女と目があった瞬間、あの女の記憶と思しき映像が頭の中に流れ込んできたという事だった。

 舞台で大勢の拍手を浴びる光景や、相手役を演じる男に胸を弾ませる様、硫酸の瓶が落ちてくるその瞬間に、恋人が自分から離れていき、部の後輩と密会するのを陰から見ている景色まで――――――。

 羽山からの話を聞いて、俺は『その肆』の裏のタイトルを『裏切りへの憎悪』から『裏切られたヒロイン』に書き換えた。

 確かにあの女の姿を目にした俺達は恐ろしいと思った。気味が悪いと思ってしまった。けれど、羽山からの話を聞き、彼女の心が本来とても純粋で清く熱意に溢れ、だからこそあんなにも憎まずにはいられなかったのだと思うと『裏切りへの憎悪』というタイトルはあまりにも不憫に思えたのだ。

 それが本来の『体験者』の役目なのだろう。

 それ以上頁を捲るのは止め、本を閉じた。

 動き出したバスは、収容人数限界のためかいつもよりゆっくりとカーブを曲がる。

 大通りに出れば、バスの中だけでなく外も人通りが増えてくる。

 駅が見えてきたところで周囲に謝りながら席を立つ。

 いつもより三つ程前の停留場。

 電車に乗り換えるのであろう人達の流れに乗って下車した。

 丁度バスを降りたところで携帯が着信を告げる。

 常日頃からマナーモードに設定されている事のほうが多い携帯は、自己を主張するようにポケットの中で暴れまわる。


「……もしもし?」


『あっ?心?俺だけど……』


 少し前に教室で手を振ったはずの相手からの電話――――――龍臣はまるで見ているかのようにいつもタイミングがいい。


「……ん?どうした?」


 ここ最近龍臣と話すたびに正直戸惑いを感じる。

 二度も記憶を失ったというのに、龍臣は入学当初と変わらない。

 一度目は、体育館に近づくことに怯え、バスケ部を退部することさえ本気で考えていた。二度目は毎日付きっきりで羽山の事を気遣って、心身共に磨り減らしたというのに。


『今どこいる?まだ学校?』


「いや……もう帰ってる。今バス降りたところ」


 なんとなく、ドキリと心臓が跳ねる。

 龍臣は七不思議『その参』と『その肆』にまつわる記憶を忘れている。記憶は失われた上に塗り替えられているが、それ以外はそのまま。

 俺が七不思議について聞き込んで欲しいと頼んだ事はしっかりと残っている。

 二度も発生現場に立ち会わせ、もう巻き込みたくないと思っているのに。

 そのため、龍臣から話があると言われるとまた同じ轍を踏んでしまうんじゃないかと思ってしまう。


『……そっか。夜って時間空いてるか?』


「夜??」


『うん。一緒に飯食いに行かないか?』


「ん?なんでまた突然?」


 良いとも駄目とも言わずに訊ね返す。


『いやぁ……あのさ、』


 龍臣は歯切れ悪く言葉を濁した。


『美織がさ…………あの時のお礼をちゃんとしたいからって……あ!試験前だし、無理だったら断ってくれて全然構わないからっ!ほらっ、あいつちょっと強引なとこあるし』


 些細だが、これも変化の一つだ。

 数日前から、龍臣と羽山は付き合い始めた。

 龍臣は以前から羽山に気があったらしい。

 対して羽山は、友達以上には思っていなかったみたいだが、甲斐甲斐しく気にかけてくれる龍臣に心を許したようだ。


「別に構わないよ。奢ってもらえるっていうなら喜んで行く」


『マジで!?まさかオッケーしてくれるとは思わなかったわ』


「んだそれ?龍臣、お前は俺がそんなに付き合い悪い奴だと思ってるってことか?」


『いやっ!違うって!!……ほら、親父さんの件とか……色々あって成績下がったって言ってたからさ……』


 二人ともあの晩の事は覚えていない。

 書き換えられたシナリオ上では、羽山はプールに忘れ物をし、足を滑らせ転落したところを駆け付けた俺達が助けた事になっている。

 気味が悪いほど実際に起きた事と差があるのに、龍臣の想いが書き換えられてしまわなかった事は俺にとって救いだった。

 全部総て何もかもが怪奇現象に振り回されているわけではないのだ。


「んー、まぁ、それは確かに。……だったらさ、いっその事勉強もするってのはどうだ?」


『いいの!?俺達邪魔なだけじゃねぇ?』


「いや、人に教えるのって手っ取り早く学習出来るもんなんだ……とゆーか、寧ろ俺のほうが邪魔なんじゃないか?」


『んなことないって!超絶助かります!先生!』


「じゃあ、七時に駅で」


 電話中も動き続けていた足は、バス停を離れ、駅の構内へと入っている。

 切符は買わずにICカードで改札を抜ける。行って帰って来るくらいの残高は残っていたはず……


「あれ?和希くん、かい?」


 ホームへと向かう途中、またしても足止めを食らった。


「……柳瀬先輩」


 先日のもう一人の被害者、柳瀬司。

 彼は、今回の件において一番被害を被っていた。

 あの晩放送室に燃え上がった炎は、煙こそ発していなかったが、しっかりと焦げ跡を残していた。何かがその場で燃焼したのは一目瞭然だった。

 そして、『体験者』としてその場に居合わせた柳瀬先輩は、事件後そこで火種を作ったのではないかと疑われた。


「……そうか、もうすぐ期末試験期間だったね……和希くんは、電車通学かな?」


 以前とは異なり、どこかおどおどとした調子で、柳瀬先輩は話し掛けてくる。眼鏡の下にある僅かな笑みが痛々しく見えた。


「いえ、用があって」


「……そぅ…………本当ならお礼も兼ねてお茶にでも誘いたいところだけど……いや、僕になんか誘われたら迷惑か……」


 俺は勿論、異変に気付いて救助に駆け付けた立場として、柳瀬先輩の無実を学校側に主張した。

 だが、面倒事を早々に片付けたい学校側はあくまでも火元を確認したわけじゃないのだからと、俺の証言を考慮することはせず、柳瀬先輩を停学処分にし、彼の加入していた放送部も一ヶ月間の活動停止処分にした。

 二年である柳瀬先輩と三年である宮城先輩のたった二人での活動だった放送部は、結果ほぼ廃部に近い状態となってしまった。


「そんな風に言わないで下さい。俺は柳瀬先輩がやったんじゃないって思ってますから」


 自虐的な言葉を吐く彼に俺はそう言った。

 すると無意識の内に俺の頭は深々と下がっていた。

 正直、俺は彼に申し訳ない事をしたと思っていた。

 いくら怪奇現象云々を言えないからと言っても、俺の言い方、言葉によっては彼を養護する事が出来たんじゃないかと思う。それを俺は、保身のために大した証言をしなかった。


「…………ありがとう」


「いえ…………あっ、今度良かったら勉強教えて下さい」


「あぁ、僕で良かったら」


「勿論。………………あっ、それじゃ俺はこれで」


 駅の電子掲示板があと2分で乗るべき電車が来ることを示しているのにふと気付いた。

 夕方には龍臣と約束しているというのもあって、あまりのんびりしているわけにもいかない。

 柳瀬先輩はまだ名残惜しげにしていたし、俺としても無下にするのは気がひけたが頭を下げ別れを切り出す。

 柳瀬先輩はそれ以上引き止めたりはせず、片手を振り見送ってくれる。

 軽くこちらに見せられた掌は、まだ生々しい火傷の痕が残っていた。

 火傷…………火、硫酸。

 あの晩に起きた二つの怪異は、まるで何かを示し合わせたかのようだった。

 要因はともかく、どちらも悲惨で壮絶で、直視するのが耐え難いものだった。

 柳瀬先輩や龍臣、羽山…………皆記憶が無くなって、やはり良かったのかもしれない。そうでなければ、正気を保ち続ける事だって難しかったのかもしれない。

 ――――でも、だとするならば俺はもう狂っているのだろうか?

 いや、正常だと言える自信はない。

 あれだけの光景を目の当たりにしながら、それでもまだ自分が生きるために足掻いているんだから。

 階段を駆け上がり、丁度ホームに入って来た電車に駆け込んだ。

 車内は時間が中途半端なせいか人が疎らで、席も空いていたが座らなかった。

 下りる駅はたった二駅先、いくら俺が体力不足とは言え、たかが駅の階段を駆け上がったくらいで疲れたりはしない。

 先程会った柳瀬先輩もすっかりあの晩の事は忘れていた。

 けれど彼も羽山同様、怪異に遭った直後にはまるでそれが当たり前の事のように、『記録者』である俺に、『記録者』なんていう存在があることを知らずに、流れ込んできたという怪異の記憶を話してくれた。

 その情報を元に俺は頁を埋めた訳なのだが―――――――――――――柳瀬先輩の話してくれたのはそれだけではなかった。





「和希くん、実はね過去にも僕と同じように学校の七不思議に遭遇した人物がいたんだ」

 俺が見舞った際、柳瀬先輩は一通り『体験者』としての情報を俺に話し終えると、疲れたように息を吐いてそう切り出した。

 一酸化炭素中毒になりかけていた彼は羽山よりも重傷で、面会が許されたのはリミットである一週間が経過する一日前の事だった。

 その時はまだ彼に学校から停学処分は下されてはいなかったものの、死にかけたという事もあって、彼の両親は面会に難色を示した。

 それでも彼から話を聞く事が出来たのは、彼自身が命を救ってくれた俺に一言礼を云いたいと希望してくれたからだった。


「僕はね、机におかしな言葉が出るようになってから七不思議の事を調べていたんだ」


 病室のベッドで半身を起こし、掌に巻かれた包帯を見詰めながら柳瀬先輩は話していた。


「君も調べてるんだろ?…………古谷さんと話している時にそう言ってたから」


「…………はい。七月に亡くなった友人から相談を受けていたのをきっかけに」


「…………うん、聞いてたよ。だからね、僕はあの時君が来てくれるんじゃないかって期待していた。いや、正確には君なら来てくれると信じて机に書かれていた言葉を伝えたんだけどね」


 たった数日なのに彼は随分痩せたように見えた。火事の際に眼鏡を壊してしまってかけていないのでそう見えるのかもしれなかった。


「机に言葉を見つけた時は正直くだらないと思ってた。でもあまりにも執拗だから、流石にね…………怖かったんだ」


 初めて会った時、柳瀬先輩は聡明で、繊細そうではあったが自信に満ちていた。でもあの時既に彼は『体験者』に選ばれていた。

 もしかしたら、柳瀬先輩はあの時点ではまだ半信半疑だったのかもしれない。少しづつ恐怖に蝕まれ調べ始めたものの、まだまさかという気持ちのほうが強かったのではないだろうか。

 けれど、俺と古谷先輩の話を聞いてしまったことで柳瀬先輩の恐怖は加速してしまった。


「僕はもう…………平気なのかな?」


「はい、俺が調べた限りでは」


「……そうか……」


 柳瀬先輩は、深く深く息を吐いた。


「……話が変わってしまっていたね」


「以前にも七不思議の被害に遭った人が?」


「あぁ、僕が調べた上では被害に遭って生きている人はたった一人だった。後は皆亡くなっていた。もしかしたら和希くんは他にも誰か見つけているかもしれないけど……」


「いえ、俺はそういった方を見つけられていません」


「そう…………なら良かった。十二年前に福寿に入学し、翌年に中退した人が七不思議の被害に遭ったらしいんだ」


「その人は今?」


「二駅先の大学病院に入院している」





 電車を降りた俺は、調べていた地図を頼りに、柳瀬先輩から聞いていた病院へと辿り着いた。

 『体験者』の怪異に関する記憶は、遭遇してから一週間後に、周囲の人や関わる情報も含めて忘れられる。

 それは先程会った柳瀬先輩も同様のようだった。

 けれどそれがどこからどこまでなのかは、起きた後でないと分からない。

 そして『記録者』である俺は、自身がその立場である事を『体験者』に悟られてしまわないようにするため、極力その話題を避けてしまう。

 だからこの病院とそこに入院する人物を教えた事を柳瀬先輩が覚えているのかどうか、それは判らなかった。

 駅から十五分程度歩いたその場所に、件の大学病院は存在した。敷地は広く、羽山達が救急搬送された学校近くの病院と比べても倍以上の面積がある。

 病院の敷地内へと踏み込むと、外来受付がある本館には入らず、壁づたいに回り込んでいく。

 駐車場を横切り、裏手側に回り込んだ先には、二棟に渡って建ち並ぶ入院病棟が在った。


「…………第二病棟、503…………」


 確認するように、記憶にあるそれを呟く。

 そこが、例の怪異に遭遇したという人が入院しているという部屋。

 入院病棟は、本館に比べると外壁も黒くくすんでいて、まるで昔からある市営団地のような年季を感じさせた。

 本館から繋がっているバリアフリーの渡り廊下へと侵入し、さも当然を装おって第二病棟へと入る。

 入ってすぐのその場所には、精々八人乗れば満員になりそうなこれまた古くさいエレベーターがあった。

 それに乗り込み、目的階のボタンを押す。第二病棟は五階建てで、503は最上階に位置した。

 程無くして目的階へと着く。

 開いた扉の先には、閑散とした廊下が続いていた。

 正面の壁に『面会の際には二階ナースステーションにお立ち寄り下さい』と書かれていた。

 特に警備に類するものはない。

 これだけでこの第二病棟に日頃から殆ど人が訪れない事が判った。また、ここに入院している人達が長期の入院で容易に出る事が出来ない人達だというのが分かる。

 一度二階まで戻るか少し迷ったもののそのまま直行する事にした。

 ただなんとなくでしかないが、此処に来た痕跡を残してはいけない気がした。

 不自然にならない程度に周囲を観察しながら廊下を進めば、直ぐに目的の部屋は見付かった。

 途中通る部屋部屋は、どうやら全て個室のようで、503号室に関してもネームプレートは一つしか入れるところが無かった。

 『杉浦優一』

 柳瀬先輩から聞いていた名前が、確かにそこには記されていた。

 すぐに扉に手をかけずに中の様子を窺う。

 病棟全体が日中は電灯を殆ど灯していないらしく、503号室も薄暗い。そして、廊下同様に異様に静かだった。

 誰もいないというわけではない。確かに人の気配はそこかしこにあるのに、皆して息を潜めているかのようなそんな感じがした。

 それは、この病棟のこの階に入院する人達が直ぐに処置が必要な程重症な訳ではなく、それでいて長期に渡ってこの場所で静かに暮らしているという事を示していた。


「…………失礼します」


 中に人がいるのが分かっている以上、何も言わずに入室するのもいかがなものかと思い、一声かけてスライド式の戸を開く。

 男性が独り、目を開けたままベッドに横たわっていた。


杉浦すぎうら優一ゆういち……さん、ですね?」


 名を呼んでも反応はない。

 視線すら何もない天井を見つめたまま動かなかった。


「…………俺は、和希心っていいます。貴方の後輩にあたります」


 ベッド脇には、簡素な丸椅子が出されたままになっていた。

 横になったまま上を見ている彼の視線と合わせるならば、座ったほうが近くなるが座る勇気はなかった。

 事前に聞いていた通り、彼は現在心神喪失状態にあるようだ。肉体のほうは肝機能が低下し、経口摂食もまちまちの状態だというが、深刻な病を抱えているわけではないらしい。

 そのため、こうして精神科病棟に入院している。

 では、何故そんな彼が七不思議の体験者だと目されているかと言えば、それは彼の手記にそのような記録があった事を身内が見付けたからだという。

 だがその内容は曖昧な点も多く、発見された際には書き損じのように塗りつぶされていたり、破られていた部分も多かったため殆どの人間がそれが福寿にまつわる七不思議の話だとは思わなかった。

 また、その手記が見付けられたのも彼が福寿を退学してから三年以上が経った後だった事もあって、彼が福寿の生徒で七不思議に遭遇したと知っている人物は殆どいない。

 それなのにも関わらず、どうして柳瀬先輩がそんな話に辿り着いたのかと言うと………………いるらしいのだ。彼の手記を見付けたという身内が、現在福寿に。

 そしてその人こそ今オカルト研究部と陰ながら呼ばれている文芸部の人間なのだそうだ。

 まったく反応の無い杉浦優一に、俺はどう言葉をかけていいものか迷った。

 普通の会話など到底期待出来そうにない。

 当たるなら、先に文芸部のほうだったか……

 だが、ここまで来たのだから何か少しでも情報を得て帰りたいところだった。

 次の怪異の情報でなくても構わない。何かとっかかりを……


「……福寿七不思議その壱『表』……」


 考えた挙げ句、俺は賭けに出る事にした。

 このままダラダラとここにいるわけにもいかない。長居すれば誰かに見咎められるかもしれない。


「……『悲恋の靴箱』……『裏』『記録者の選別』」


 藍色の本には「記録者は体験者にその存在を識られてはならない」とだけ記されている。

 それは学校関係者、もっと限定するなら福寿の現生徒に俺が記録者だと知られなければ問題はないという事だ。裏を返せば生徒でなければ構わないという事になる。

 だからといって安全だという保証はない。そんなことは明記されていない。


「……福寿七不思議その弐『表』『呪いの机』……『裏』『体験者の選別』……」


 目の前にいる彼なら通常の会話が出来るわけでもなさそうだから平気だとも言い切れない。

 成り行き上、現時点で俺が『記録者』である事は繭に知られている。それで問題が無かったから大丈夫だなんて確証はない。

 それに知られてしまえば確実に巻き込む事になってしまう。だからこそ今まで身近な相手にも言わなかった。


「……福寿七不思議その参『表』『得られなかった優勝旗』……『裏』『学校を護る英雄』……」


 ピクリ、と杉浦優一の口元が引き吊るように動いた。

 天を見つめたままの眼が揺らいだ。そのままカタカタと震えるように視線が漂う。


「……福寿七不思議その肆『表』『水底の呼び声』……『裏』『裏切られたヒロイン』……」


 杉浦優一の目線は段々とその移動幅を大きくし、天井を駆け回る。

 瞬きをしないせいで目尻から大粒の涙が滲んで溢れ落ちた。

 やはり思っていた事は検討違いではなかった。

 彼が退学に到った経緯までは柳瀬先輩も知らなかった。

 今のような精神的な問題で辞めざるをえなかったのか、はたまた別の要因なのか、それは定かではない。

 でも、もし彼が七不思議に関わり、その手記が欠損があったとしても後に残されていたというならば、彼は『記録者』だったのではないかと思っていたのだ。

 杉浦優一が福寿を退学したのは十一年前。入学は前年。

 それなら、『記録者の選別』、靴箱の所有者が替わる周期とも一致する。


「……福寿七不思議その伍『表』『逃走劇の結末』……『裏』『断末魔の記録』……」


 杉浦優一のひっきりなしに動いていた眼がピタリと止まった。


「……福寿七不思議その陸『表』…………」


ガバッ!


 突如、何の前触れもなく目の前の彼が上半身を起こした。

 長い間寝たきりの彼の筋肉でそんな動きが出来るとは思ってもみなかった。


「………っ………ない」


 言葉を切り黙って見守っていると、代わりに杉浦優一の唇が動いた。

 ボソボソと小さな声で言葉を発する。


「……っ……か……」


 ぶつぶつと繰返し繰返し何かを呟いている。

 その声はずっと声帯が使われていなかったせいなのか、掠れていて、何を言っているのか聞き取れない。


「……けな……書…………い」


 なんとか聞き取ろうと、息を呑んで一歩近付く。

 さっきまで動き回っていた目玉はもう動いていない。虚ろに目の前の白壁を見詰めている。

 その姿は、つい最近見た柳瀬先輩とリンクする。でも違う。柳瀬先輩は疲労に満ちた感情のある眼差しだった。

 だけど彼の場合…………


「………い書…………な………い……」


「十二年前、貴方は『記録者』に選ばれた」


 彼の目は、何の感情も込められていなかった。

 まるで初めてヒデオに会った時のような、虚無の眼差し。


「……けない……け………」


「そうなんですね?杉浦さん?」


 埒のあかない呟きの連続に苛立ち、此方からも声をかけ、更に近付く。

 二十八歳である筈の彼の座高は異常に低い。痩せ細った顔も痩けた頬も病的なのに顔立ちの造型にはどこか幼さが残っている。艶の無い髪には不釣り合いな白髪が疎らに散らばっている。


「……書け……ない……っ……」


 あまりにも繰り返すものだから、彼が「書けない」と言っている事も、それが藍色の本の事である事も判っていた。

 しかし、何と言っているのか判らなかった時以上に俺は焦り、彼から他の言葉を引き出せないかと詰め寄った。


「書けない書けない……」


「教えて下さい!何が、何が書けないんですか!?」


 動き始めた唇は、箍を失ったかのように唾を飛ばして動き、段々と声のボリュームが増していく。

 このままこんなやり取りを続けていれば誰かに気付かれてしまう。


「書けない書けない書けない……」


「杉浦さんっ!」


 業を煮やし、俺はとうとう彼の肩を掴み、強制的にこちらを向かせた。

 やっと目が合っ………………彼の目は焦点が合っていなかった。何も見てはいなかった。

 ただ小刻みに黒目だけが震えていた。


「あと一つが書けないんだっ!!」


 古典的な怪談話のように、彼はそう怒鳴り付けた。

 マズイ、と思ってももう遅かった。

 虚ろになることでかろうじて抑え込まれていた狂気が噴出してしまった。


「あと一つ、あと一つなんだ……それが埋まらないと俺は……俺は…………うわああああ ああっ!」


 溢れだした狂気は、怒りから苛立ち、そして恐怖へと変わった。

 杉浦優一は掴まれていた肩を大きく振って手を振り払うと、そのまま両手を振り回し、叫び声を上げ始めた。

 枯れ枝のように痩せ細った腕がむやみやたらに振り回される。関節の可動粋など完全に考えてない。下手すれば骨折してもおかしくない。

 俺は彼の腕をかいくぐり、枕元に打ち捨てられるように転がっていたナースコールを強く握り込んだ。

 そして、未だ言葉にならない叫び声を上げ続けている杉浦優一をそのままに、一目散に病室を飛び出し、目の前にあったリネン室へと飛び込んだ。


「杉浦さんっ、どうされました!?」


 俺がリネン室の中へと入り込んだのと入れ違いに、看護師が病室へと駆け込んでいく。

 幸いリネン室は無人だった。咄嗟に身を隠そうと飛び込んだため中に誰かいないかすら確認する余裕もなかった。

 声が出ぬよう口を覆って大きく息を吐く。

 全身が震えていた。心臓が大きく早鐘を打ち、噛み締めていないと歯がガチガチと音をたてそうだった。

 杉浦優一の目は、あんな状態になってもまだ虚ろなままだった。

 それがこの先の自分の末路なのかもしれないと思うと、恐ろしくてたまらなかった。

 リネン室の向かいの病室は未だバタバタと慌ただしさが続いていた。

 最初に駆け付けた看護師の他にもう一人看護師が入っていったかと思うと、今度は出ていく。

 細く開いた隙間から覗いているので病室の中がどうなっているかまでは見られないが、当分外に出ていくことは難しそうだった。

 先程出ていった看護師が医師らしき壮年の男性を連れて戻ってくる。

 更にもう一人、今度は男性の看護師が病室へと入っていき、代わりに一番初めに来た看護師が出ていって…………


「ど、どうしたんですか!?何かあったんですか!?」


「御家族の方ですか?」


「はいっ」


「杉浦さんが突然暴れ始めて……い、今処置を行っていますので」


「大丈夫なんですかっ!?」


 ―――廊下の向こう側から新たな人物が現れた。

 驚きを隠せずに病室から出てきた看護師を捕まえ問いただすと、一緒に病室へと入っていく。


「…………どうしてあの人が?」


 現れたその人は――――――俺の見知った人物だった。

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