11月23日

 勤労感謝の日の前の土日と二日間にわたり行われた福寿の文化祭は、大きなトラブルが起きる事もなく、無事終了した。

 文化祭は福寿の生徒達だけではなく、外部の学生や一般客も多く訪れ、例年以上の大盛況だった。

 文化祭委員として参加した俺は、案内パンフレットを配る受付や巡回、体育館の整備など忙しく駆け回った。

 また、クラスの出し物の『ヒーローショー』も中々に好評で、特にアクションシーンに迫力があったと、コンテストで優秀賞を獲得した。

 そして、勤労感謝の日。本来なら祝日であるはずの今日、未だ祭の痕跡を多く残した福寿では、文化祭委員によって後片付けが行われていた。

 本来普通の高校なら、土日返上で文化祭を行ったわけなので、その分、月曜、火曜と振替休日になることだろう。だが、火曜日の本日は元々祝日。ならば更にもう一日水曜も振替休日になって然るべきだ。けれど、明日からは通常授業が再開されることになっている。それ故、文化祭委員は唯でさえ一日少ない振替休日を更に一日費やしてこうして後片付けに駆り出されていた。

 実に名門進学校である福寿高校らしいやり方だった。


「…………はぁ」


 模擬店で使用していたガスコンロを業者へと引渡し、一瞬手が空いたところでやっと一息吐く。

 午後三時過ぎ。

 昼過ぎから登校して始まった片付け作業は、今のところ六割が完了した。

 文化祭委員は各クラス一人づつで計十五人。

 進捗状況は悪くはない。

 人がいないのをいいことに、花壇の縁に腰掛け休憩をとる。


「なんか飲み物買ってくりゃ良かった……」


 手元にある大した大きさのないワンショルダーリュックを恨めしげに見つめ、ぼやく。この鞄に入っているのは、財布と筆記具、そして藍色の本だけ。

 いつでも肌身離さず本を持ち歩くために、通常の通学時以外はずっとこの鞄を持ち歩くのが常になってしまっていた。

 首を二回、三回と回し、大きく伸びをする。

 綿密に休憩時間が決まっているわけではないが、他の委員の人達は校内のそこかしこで今も片付け作業に取り組んでいる。


「お疲れ様っ!」


 体を反らし、空を仰いでいた顔を前へと戻すと、そこには小さな紙パックのお茶があった。


「……有馬先輩」


「差し入れ!」


 座っている俺と殆ど同じ高さに目線がある有馬先輩は押し付けるようにお茶を差し出すと、俺の隣に腰をおろし、自分の分の飲み物を開封した。


「有難うございます。……先輩、どうして俺がここにいるって分かったんですか?」


 唇でストローをくわえたままそう訊く。

 冷えた液体が渇いた喉に染み渡り、胃の奥へと落ちていく。


「ん?あそこから見えたから」


 そう言って有馬先輩は斜め上を指差した。

 彼女の小さな指先につられるように首を動かすと、そこには宙に浮いた細長い建物の床に当たる部分がある。

 そこは、先日柳瀬先輩と通ったA棟とB棟を繋ぐ連絡通路と言われる渡り廊下。電車一両分程の長さの細長い長方形が離れた建物と建物の間を空中で繋いでいる。


「あぁ、渡り廊下」


「そ。職員室出てジュース買おうとしたら、和希くんが業者さんを送り出すとこだったから」


 有馬先輩はいちごオレを飲みながら、足をブラブラ揺らしてそう言う。


「……そう言えば、確かにあそこに自販ありますもんね」


 福寿の校内には各所にいくつか自動販売機が設置されている。昇降口や食堂、運動施設に購買部など、だがB棟内には一台もない。

 喉が渇いていたこともあり、小さな紙パックはあっという間に中身を減らし、痩せていく。

 その光景に既視感を感じて――――気付いた。


「…………そうか」


「ん?」


 口から漏れた呟きに有馬先輩が敏感に反応する。


「いやっ…………あと残ってる作業ってなんでしたっけ?」


 頭が回転を始めるのを押し留め、さっと話を変えた。


「えっと……後は校庭の提灯を片付けて……」


「あの後夜祭で使った奴ですか?」


 悟られぬように、突っ込まれぬように返答を早める。


「そうそう、なんか後夜祭ん時一個青く光ってたのがあったらしくてさー、漏電とかしてないかチェックしてから仕舞わないと……」


 有馬先輩は俺の変化に気付くことなく、「雨降る前に終わらせないと」とか言っている。そんな彼女に話を合わせつつ、空になってくしゃりと歪んだ紙パックを見詰めた。





 午後五時。

 皆が「お疲れ様ー」とか「どっか寄ってく?」とか声を掛け合う中、俺はそっと輪を離れ、気付かれぬように校内へと入った。

 予報では、雨は六時過ぎから降るという話だ。

 丁度の時間に降りだしたとしてもまだ一時間ある。それまでどこで時間を潰すか少し悩んで、一先ず屋上へと向かった。

 何故屋上で時間を潰す事にしたのかと言えば、いくつか理由がある。

 最大の理由は、校内に教師がまだ残っている事だった。見咎められれば下校させられてしまう。

 教師も休日出勤させられているわけだから、そんな遅くまでは残っていないだろうが、帰る前に見回りくらいはするだろう。屋上なら見付からないようにする事も容易だ。

 階段を人に出会さないよう上り、屋上に出ると、今にも水滴を溢しそうな分厚い雲が真上に拡がっていた。

 屋上を陣に選んだもう一つの理由は、地上の人の動きが観察出来る事だった。

 教師が帰って行く姿は勿論、他の誰かが校内を訪れる姿も視認する事が出来る。

 俺が深夜時使用している校庭裏の閉鎖された門のほうまでは確認出来ないが、校門と駐輪場入口はここから見る事が可能だった。

 雨と夜とを待つ間、今出来る事をしようと、藍色の本とペンを取り出す。

 一度帰宅する事なく怪異の発生を待つのはこれが初めてだ。

 雨が降るのは夕方以降だけ。確実に古谷先輩が決行日に選ぶかは判らない。

 「誰にも告げず一人で」と付け加えて伝えたから、休校日の今日を選んで来る可能性は高いとは思う。

 それに柳瀬先輩も……。

 先の有馬先輩との会話で、柳瀬先輩が俺と古谷先輩との会話を立ち聞きしていたのはほぼ確信した。

 あの日放送室で用意されていたお茶。

 あれはA棟とB棟とを繋ぐ連絡通路で販売されている物で、俺と古谷先輩のために用意した物だ。残っているのは宮城先輩の分だと思っていたが、柳瀬先輩は「今日は来ない予定じゃなかったか」と宮城先輩に言っていた。

 柳瀬先輩は俺達に差し入れしようとして話を聞いてしまったのではないだろうか。

 勿論、端から意図的に話を聞こうと思っていた可能性が無いわけでは無いが……。

 辺りに気をはらいながら、本を開く――――新たに書き上げた話は、以前の話と中身が大分異なる。

 理科実験室であった頃の話は、廃棄された人形が怪異の中心部にあった。

 対して、今の話は事故で水死した女。

 無生物と人間という点でも異なるが、一番の違いは火と水という事だろう。

 ヒデオの『その参』では、『表』と『裏』の共通点はそこが殺害現場だったという事と、屈強という事だった。

 完全に『表』と『裏』に共通点が無いわけではない。

 他の話に関しても条件となる場所は勿論の事、『手紙が来る』や『文字が浮かぶ』など少なからず共通点はある。

 だとすれば、今書かれている『水底の呼び声』が本に染み付き認定された以上、この話と『裏』には共通点があるという事。

 それは同時に、旧『表』と新『表』にも共通点があるという事だ。

 では、その共通点は何か……。

 声が聞こえるという事象は別として、他に似ている点と言えば……。

 焼け焦げ溶けた人形……

 ゴム手袋のようにふやけた手……

 見た目が異形であるという事…………?


「……そんなん共通点て言えるか?」


 無理矢理感が否めない。

 首を傾げたところで、階下に動きが見られた。

 正門を教師が二名程並んで出ていく姿が見える。

 文化祭実行委員の担当として来ていた三年の主任教師と一年の担任の教師。

 最後に粗方見回りくらいはしたのだろうが、屋上に誰かいるとは思いもしなかったようだ。

 二人の教師は、正門の施錠を行い、駅のほうへと歩いていく。

 これで校内は無人になったはず。

 だが同時に、建物の玄関口には警備システムが作動したと思われる。

 何度か深夜に学校を訪れ解った事は、福寿は決して警備の甘い学校では無かった。

 各校舎の入口には無理矢理解錠しようとすると警備会社に連絡が行くようになっており、更には各所に防犯カメラ、人体関知の装置等が設置されているらしい。

 忘れ物を取りに来たりすると、玄関口のインターフォンで遠隔監視している警備会社が対応し、所属や名前を問われ、顔写真まで撮られるらしい。

 なのにも関わらず、俺がそれに一度も引っ掛かっていないのは何故か。

 ご都合主義な話だが、不可思議な力が働いているのだと思う。

 俺が学校を訪れる時には、なんというか……空気が違うのだ。敷地全体がやけに静かで、空気が張り詰めたように澄んでいて……確実に違う空間だと肌が感じる。

 お陰で今のところ学校に呼び出されたりした事はない。

 因みに今は…………違う。まだ平常時の人間が集う学校のまま。

 手元の頁を捲る。

 あくまでも今日のメインは『その肆』ではあるが、柳瀬先輩が先に姿を現すとも限らない。

 また、雨が予報が外れて降らなければ同じこと。

 考えておいて損はない。

 『その伍』―――――この話は発生場所が定まっていない。

 今まで見聞きした七不思議とは違い、この話だけが『体験者』に指定された場所と話の中で怪異に遭遇している場所が一致していなかった。

 だが、柳瀬先輩が嘘を吐いたわけでない限り『放送室』で何かが起こる事は確かだろう。そして、多分放送が流れるのも間違いない。

 もしも本日二つの七不思議が開封されるならば、まず始めに『その肆』が発生して、それが済み次第『その伍』という流れのほうが助かる。

 運動施設と放送室。厄介なのはその位置が校内の対角線上にある事だ。

 双方を往き来するたとなれば最短距離はA棟の中を経由する事になる。だが、それにしたって5分程度の時間は要する。

 ならばもし、『その伍』が先に起きてしまうと、『その肆』に動きがあったとしても察知するのは難しいが、逆ならば校内にいれば放送が聞こえる可能性が高い。

 いずれにせよ、時間が指定されていないのはなんとも厄介だ。

 逆に言えば、もし今日何も起きなければ、『その参』の怪異が動き出す深夜零時まで俺はここから動けないという事になってしまう。

 そうやってあれこれ考えていると、ポツリと鼻の頭に雨粒が当たった。


「……とうとう降ってきたな」


 濡れてしまわぬよう本を鞄へと仕舞いこむ。

 持つものが無くなった手で、代わりに持ってきた傘を開く。

 一応は建物内に当たるこの場所で傘をさすというのもなんとも違和感がある。

 断続的に落ちてくる大きな雨粒は、コンクリートの床面を濃い色へと変えていく。

 でもまだだ。

 まだ空気は変わっていない。日常のままだ。

 教師達が出て行ってから、通りに面した二つの出入口にまだ動きは無い。

 薄暗かった空はもう夜の色へと変わり、常夜灯も点灯を始めている。

 距離もある屋上からでは見えにくいのは確かだが、人が通れば判るはず。

 校内を闊歩する事は出来なくとも、雨を避けるために踊り場に入る分には警備システムに引っ掛かる事はない。

 雨は地面の色を変え始めたかと思えば、やがて激しさを増していく。風が無いのは救いだが大粒の雨は冷たく痛い。足元へと浸食し始める雨に耐えながら、じっとその場に立ち尽くす。冷えきった手は段々と感覚を失い、赤くなっている。目だけはやたらに軽快に、階下で動くものはないかと右へ左へと動き回る。

 時刻は、午後五時四十五分を過ぎた頃。

 予定より早く降り始めた雨に、視界を遮られ、徐々に体力が奪われていく。

 身体的にも精神的にもそろそろ限界を感じ始めたその時――――闇の中で何かが蠢いた。

 それは見間違いでもなければ、水滴の揺らぎのせいでもない。

 確かに人の姿に見えた。

 人影は駐輪場側の裏門の常夜灯の光に影だけを一瞬覗かせた。

 目を凝らす。

 刹那、光の輪の中にはためくスカートが見えた気がした。

 どうやら、施錠された校門を表通りから乗り越えようとしているようだ。

 あれは女子なのだと確信する。制服のスラックスは間違ってもはためいたりはしない。

 古谷先輩だ。

 こんな雨の中わざわざ休校日に校門を無理矢理乗り越えてまで入る理由がある生徒など早々いない。

 だが…………まだだ。

 まだ空気は異質ではない。湿り気を帯びた、いつも通りのもの。

 『体験者』が条件の位置につかないと、怪異は始まらないということだろうか……

 まだ階下に下りる事は叶わない。

 なんとか人物を特定しようと、柵の間に顔を嵌め込むようにして、少しでも距離を詰め動きを見る。

 校門を乗り越えた人物は傘をさしていない。

 雨にうたれて濡れた制服は更に闇に紛れんとしているようだ。

 雨空から逃げるように、駐輪場の雨避けの下へと駆け込む。

 どうにか顔を確認しようと、位置を変え角度を変えしたものの、残念ながら特定には到らなかった。

 常夜灯の弱い光は、彼女と思しきその人物の影を光に映すのが精一杯だった。

 しかし、走って行った方向から考えても古谷先輩で間違いはないだろう。駐輪場の先には運動施設しかない。

 でも……明かりに一瞬だけ過った影、その影の髪は随分と短かった気が…………

 いてもたってもいられず、傘を閉じ、屋内へと走り込む。

 屋上から階下へと続く階段の踊り場。ここには流石に監視カメラはない。

 しっかりと雨が染み込んだ手も足もすっかり冷えきっている。

 なのに体内の脈動はやたらに激しく脈打ち、緊張と興奮で熱を帯びている。

 縫い付けられて耐えていた足は、今か今かと動き出すべき時を待つ。

 なんで校外で待機せず校内に残ったんだ、と自分の浅慮さに後悔する。

 ―――まだ。

 まだ変化はない。

 機は訪れていない。

 焦りで、寒さで、興奮で、緊張で、体が震えた。

 ついでに、ポケットの中まで震えて……………

 ―――――来た!

 刹那、心臓を締め付けられるような痛みが疾り、空気が圧縮され呼吸が止まり、電流のように悪寒が全身を巡り、一気に肌が粟立った。

 空気が……変貌した。

 気付いた瞬間、走り出していた。

 階段を駆け下りる。

 焦らされた両足は、恐怖など二の次に、重いくせにやけに澄んでいる大気を分け入っていく。

 まだポケットの中――携帯は振動を続けていた。

 もう俺は先程と異なる空間に踏み込んでいるというのに、執拗に太股へ震えを伝えている。

 走ることを足に任せて、前へ前へと勝手に踏み出す揺れに逆らい、震え続けるそれを掴み上げる。


「――もっ」


『心っ!?』


 画面を指先でタップした途端、悲鳴に近い声が届いた。


「――たっ……!?」


『羽山がっ!!……羽山だったんだ!』


 名を呼び掛ける暇すら与えてくれない。煩わしい雨音に掻き消されながら、がなりたてている。

 電話の主は龍臣だった。

 支離滅裂な言葉を、息をきらしながら繰り返す。理解できたのは、『羽山が危機にある』ということ―――

 バラバラだった糸が一本に繋がる。

 前回話をしたその時、古谷先輩は短い髪を無理矢理一つに束ねていた。ほどいた長さは定かじゃないが長めのボブくらいではないだろうか。

 古谷先輩は机の文字を覚えてはおらず、学校を休んだのも体調不良のためだと言った。常に真剣な顔で話をしていたが、思い詰めて登校拒否するほど悩んでいるようではなかった。


『――今っ……俺学校にっ……向かって……心もっ』


「解った。どのくらいで着く?」


 要領を得ない龍臣の言葉から単語を拾い上げ、遮って訊ねる。


『……もう着くけど……何処に行ったら……』


「駐輪場で落ち合おう」


 今自分が学校にいる事は伝えず、要点だけを云い一方的に切る。

 龍臣は今雨の中全力疾走で学校へと向かっているところのようだ。

 雨音に掻き消され、ただでさえ混乱しながら、息をきらしている人間とまともに話しても埒があかない。

 通話を終えた俺は、残り数段の階段を飛び下り、昇降口脇の通用口へ向かう。

 通用口を開けば、その先に駐輪場に面して運動施設に続く渡り廊下がある。

 扉のロックを解錠し、特に警報が鳴るような事もなく、けぶる雨に包まれたやたらに空気の済んだ屋外へと出る。


「――心っ!」


 丁度横手から声がかけられ見れば、龍臣が胸の高さ程の門を乗り越えたところだった。ジャージ姿の龍臣はびしょ濡れだった。傘すら持ってはいない。


「どうして……学校に?」


 どれだけの距離を走ってきたのかは知らないが、バスケ部の龍臣が膝に手を当て派手に呼吸を乱していた。


「それより、まずは羽山を……走れるか?」


 肩だけでなく上半身全体を大きく上下させながらも、龍臣は一つ頷く。

 それが本当に大丈夫なのかどうかなど確認している猶予はない。


「こっちだ」


 再び駆け出す。

 運動施設へと伸びる渡り廊下は、駐輪場の端で九十度曲がり、学校の敷地に沿って続いている。

 龍臣は大人しくついてきた。

 程無くして、俺達は運動施設の入り口へと到達した。

 本来施錠されているはずの扉はビデオがいる格技室同様開いている。

 羽山が点けたのか、全部ではないにしろ、歩く分には不自由しない程度に電気も点灯している。

 一緒に龍臣を連れていっていいものか――。

 良いか悪いかで言えば悪い。また佐川の時同様危険な目に合わせ、怖い思いをさせるだけだ。でも、必死で来た龍臣を置いていくことは出来ない。勝手に探し回って逆に危険な目に合うかもしれない。

 だったら、羽山を連れ出す役目を担ってもらうほうがいい。

 場合によっては、俺は羽山を安全な場所まで連れて行けないかもしれないのだから。


「行くぞ……」


 そう言って、施設内へと踏み込む。

 龍臣も緊張した面持ちで頷き続く。

 龍臣は憶えていない。

 ほんの二ヶ月前に、同じように並んで夜の学校にいた事を。

 施設内に入ると、自然と歩が緩んだ。辺りに神経を向け、警戒しながら進む。

 二階の屋内プールには向かわず、直進し微かに光の漏れる休憩室を目指す。

 悲鳴や物音は聞こえてこない。

 閉ざされた休憩室の扉前へと辿り着くと、チラリと龍臣に目をやった。俺の視線には気付かず、龍臣は扉の向こう側を見透かすようにじっと前を見ていた。

 ノブに手をかけ、ゆっくりと押し開く。

 そこには――――


「羽山っ!!」


 弾かれるように駆け出したのは、あの時と同様龍臣のほうだった。

 羽山は、窓際に追い詰められるように、腰を抜かし目を見開いて座り込んでいた。

 眼と同じように大きく開かれた口からは、声にすらならない悲鳴が発せられているのか、喘ぐように震えている。

 全身は無条件に後退ろうとしているが、唯一体を支えている手が壁を撫でているだけだった。


「羽山っ!」


 駆け寄った龍臣が抱き付くように羽山を覆う。

 それでも羽山の目は一方に釘付けにされていて、目も口も丸く開いたままだった。

 羽山の視線の先を、俺と龍臣がほぼ同時に辿る。

 そこには、女が立っていた。

 黒いセーラー服に赤いスカーフ。腰辺りまで伸びた漆黒の黒髪―――その顔は、顎の辺り以外全て崩れひしゃげていた。

 重い何かを叩きつけ、そのまま撫で付けたかのように、瞼や頬がひきつれ、垂れ下がっている。眉は無く、歪に被さる瞼の皮のせいで眼は左右非対称。鼻は穴だけを残し溶けてしまったかのように潰れ、唯一正常な形を残す唇もあちらこちら引っ張られへの字になってしまっている。前髪も疎らに髪束が残っているものの、額の遥か上まで地肌が露出していた。


「……………ぁ」

「っ!?」


 俺と龍臣も、衝撃が強すぎて悲鳴さえ吐き出せなかった。ただ口を開け、声にならない嗚咽を漏らす。

 途端に喉元に苦味を帯びた酸っぱいものが込み上げる。

 呼応するように、今までは無かった嗅いだ事の無い強烈な臭気が鼻へと押し寄せた。

 視覚と嗅覚が同時に攻め立てられる。吐き気がせりあがる。

 だが、吐くことすら叶わない。開いた喉はゴボリと胃酸と悲鳴を混ぜ合わせているのに、体が動かず、背を丸めることも出来ない。


『……ど……して……?』


 女がひきつれた唇を動かさず掠れた声を漏らす。

 声は半ばビューという呼吸音に紛れてくぐもっており、窓に当たる雨音に掻き消される。


『……どう……して?……その娘を……庇うの……?』


 女は、ヒデオのように発光してはいない。寧ろ、薄暗がりの中で一層濃い闇を引寄せているかのように暗いオーラを纏っている。


『……その娘……が、私……をこんな……風にし……たのに……』


 女が立っているのは羽山と龍臣がいるのとは逆の部屋の端。窓の無い壁に張り付くように、闇を集め蟠っている。


『……な……んで?……裏……切った……の……?』


 歪んだ唇は途切れ途切れに、けれどひっきりなしに言葉を吐き出している。

 瞼で半ば隠れた両の目は、羽山と龍臣を真っ直ぐに捕えている。

 女がゆっくりと動き出す。

 背負った闇が重すぎるかのようにズルリズルリと引き摺るように前進する。


『……私が……演じ…………るはず……だったのに……相手……役は……お前……しかい……ないって……』


 ダラリと垂れ下がっていた女の右腕がゆっくりと上がる。力の無い指先が前方、羽山と龍臣に向けて伸ばされた。

 その手も指も、顔と同様爛れたように、薄いピンクの皮膚が引き伸ばされている。


『……あなたも……言って……たの……に……』


 翳された指先からポタリと水滴が零れ落ちる。

 落ちた水滴は白い煙を放ち、消えた。

 …………液体?

 滴が音をたてて消えたのをきっかけに、指先だけではなく、全身の先端部分からしきりに垂れている事に気付いた。

 今まで女が背負う闇が濃すぎて、ひたひたと零れ落ちる液体の存在になど気付いていなかった。


「龍臣っ!早くこっちに来いっ!!」


 まずい、と思った瞬間叫んでいた。

 煙を発生させるほどの強い酸性の液体、吐き気を助長させる強烈な臭気。

 女の身体から零れ落ちる液体が何かまでは断定出来ないし、酸は床に穴を穿ってはいない。だからといって、人体に影響が無いものとは到底思えない。

 女の異様な様相を真正面から見、硬直状態にあった龍臣の肩が俺の声に反応してビクリと震えた。

 返事は無かったが、瞬きされた眼は俺へと移動する。


「早くっ!!」


 再度叫ぶ。

 ヒデオの時のように俺が庇う事も出来るが、退路が経たれる事になる。ヒデオのように見逃してくれるとは到底思えない。

 女の顔が僅かにこちらを向いた。

 俺の存在を捉え、存在しない眉をしかめるように怪訝そうな顔をする。

 きっと女にとって必要な登場人物に俺は含まれていないのだ。

 ヒデオが前に言っていた事が思い出される。

 「間違っても俺以外のと会話しようなんて思うな」と。

 「話せる」事と「会話が出来る」事とは違う。思い込みで「話せない」と思うのも間違っているが、だからと言ってイコール「会話が出来る」というわけではない。

 龍臣が覆い被さるようにしていた羽山の体を抱き寄せる。

 羽山は相変わらず女を凝視し、小刻みにカタカタと震えているばかりで、俺も、龍臣の存在にすらも反応していなかった。

 羽山の体に腕を回すと龍臣はゆっくりと立ち上がった。女に次の行動を悟られぬように中腰でタイミングをはかる。

 女と龍臣達との距離は今五メートル程。俺の場所まで来るとなれば自販機を避けるように斜めに、女と二メートル弱まで近付き走り抜けて来なくてはならない。

 俺が叫んだ事で、現在女の注意は俺へと向いている。

 なんとか女の気を少しでも惹き付けなくては――――


「す……素晴らしいっ!!」


 女の気を引かんと、一際声を張上げ、両手を大きく打ち鳴らし―――拍手した。

 訳の解らない事を喚き始めた俺に、龍臣までが一瞬ポカンと口を開けた。

 だが、目線だけをこちらへ向けていた女が体ごと向きを変えた事で、やろうとしている意図を察したようだった。


「流石っ!迫真の演技だ!!」


 女が全身をこちらへと向ける。真正面から見る女の姿は心臓を鷲掴みにされるようにギョッとする。

 再度胃液が喉元を刺激し、臭いまで増したように感じさせる。

 しかし、怯んではいけない。


「感動したっ!こんな舞台見た事がないっ!!」


 女が僅かに小首を揺らし、探るように俺を見る。

 俺は、女が俺の存在を外野と認めたのに乗じて観客を全力で演じる。

 女が俺の言動に少なからず動揺しているのは、表情が変わらずとも明らかだった。

 龍臣にもそれが判ったのだろう。

 俺が再び大きく手を打ち鳴らそうと両手を広げたのを合図に体勢を整え、床を蹴り―――


『ブッ。……アアァアアアァアァアァァ』


 龍臣が走り抜ける事は出来なかった。

 踏み出しかけた足が空中で静止し、突如響き渡った音に驚いた反動で床へと戻り大きな音をたてた。


『ァアアァアゥアァアグアア゛ァアァア』


 拍手が途切れた事で、目の前の女の視線が体ごと戻っていく。

 その間も脳髄に響き渡る異音は鳴り続けている。


「こんな時にっ……」


 聴覚を異音に支配されたまま、俺は呟いて歯噛みした。

 異音は部屋中に反響しながら、長く長く響き渡っている。

 その発信源は、部屋の天井に設置されている放送機材からだった。

 この最悪のタイミングで、『その伍』が始まってしまったのだ。


『アアァアァア゛アアァアァアァァ』


 音量は然程でかくはない。

 しかし今まで一度も耳にした事の無い不快でおぞましい異音は、室内に反響し耳の奥へと潜り込んでいる。

 変わらない緩慢な動作で、目の前の女は龍臣達へと体勢を戻していく。

 もう同じ手で気をひくことは出来そうに無い。


『ァア゛アァアゥアァアグアア゛ァアァグア』


 身の毛のよだつような異音は鳴り続け、思考を働かせるのを阻害する。

 耳にばかり意識が向き、他の五感が疎かになる。

 だが――――


『アアアゥアァァアゥアア゛ァアァア』


 ―――龍臣は違った。

 龍臣の神経は、両腕の温もり、抱え上げた羽山を助ける事にだけ向けられていた。

 女の向きが完全に戻ってくる前に、一度は踏み止まった足を奮い立たせ、駆ける。

 抱えた羽山を女から引き離すように自分の体で隠すようにし、大股で、出来る限り速度を速める。

 その目はもう女には向けられていない。

 ただ一心にこちらだけを見据え、歯を食い縛り走る。


『アアア―――ブツッ』


 突如異音が途切れた。

 痛みすら感じる音の余韻を振り払うように龍臣は首を振り、駆け抜ける。

 あと少し――――

 未だ耳鳴りとしてこびりついている音に悩まされながらも、息を飲んで二人を待つ。

 俺と龍臣との距離は二メートル弱。そして龍臣と女の距離も………。

 元の体勢へと戻りかけていた女が、その途中で龍臣の存在に気付いた―――


『……シャァァァァッ!!』


 ―――瞬間、女が雄叫びを上げる。威嚇するような音と飛沫のような液体を口から迸らせた。

 ひきつりろくに開かなかった唇は千切れんばかりに抉じ開けられている。吐き出された叫びは言葉になっていなかったが、ひしゃげた唇は「逃がさない」と動いていた。

 女の妨害にも屈さず龍臣は俺の元まで辿り着く。

最後は転がり込むように俺の後ろへと飛び込んだ。

 怒りで更に顔を歪ませた女が此方を向く。

 鬼の表情とは正にこの事を言うのだろう。

 重たい瞼の下の眼は、恨みがましくこちらを睨め上げ、全身が戦慄いている。髪は逆立たんばかりに揺れ、背負った闇が粘度を増す。

 だが、こいつは俺には手を出せないはずだ。

 ともすれば膝が笑いそうになるのを堪え、龍臣と羽山の前に立ちはだかる。


「……龍臣、大丈夫か?」


 女と対峙したまま背後に意識を向ける。

 視界の端に入った龍臣のジャージにはところどころ穴が空いていた。

 女が吐き出した液体が僅かに掠めたのだ。


「…………あぁ……っ」


 間を置いて震える声が返ってくる。

 龍臣の呼吸は、長距離を走って来た先程よりも大分乱れている。

 俺と女の視線がぶつかり合う。

 背を向ければ、先程と同じように、奇声を発し、液体を撒き散らすかもしれない。

 まずは龍臣達を逃がす事が先決だ。


「龍臣、外に……」


 決断するまでは些細な時間だった。そもそも長く感じているだけで、ここに来てから大して時計は進んでいないだろう。

 にも関わらず、何一つ思い通りに進まない。

 言いかけた台詞は最後まで紡げなかった。


『ブッ…………』


 つい先刻聞こえたものに似た、虫の羽音を凝縮したような機械の作動音。

 今度はさっきのような異音は響かず、代わりに女の背後で薄暗がりを切り裂くような光が強く明滅した。

 半ば融けた顔の女が背負う、夜闇よりも一層濃い闇すら照らし出す赤い光。

 紅く揺らぐ発光……炎の輝き。


「……んなっ!?」

「…………っ」


 目を焼くような強い瞬きに、背後で龍臣の驚きの声が漏れる。

 龍臣よりも更に近くで、それが何かを視認した俺は、再度催した吐き気を堪えるのが精一杯で声すら出せなかった。

 融けた顔の女の後ろ、壁に設置された映像放送に仕様されるモニターには――――人体が炎に包まれている様が映し出されていた。

 時間が経ち麻痺してきたのか、目の前の崩れかけた顔よりも、画面を通した人が焼ける様は、数倍グロテスクに感じた。

 口の中に酸っぱさが瞬く間に広がり、せりあがってきた胃液が喉仏の辺りで停留する。

 更にモニターには、もう一つ衝撃的なものが微かに見えた。

 画面の右端、見切れるくらい隅の辺り。炎が間近に迫るその位置には、扉にもたれ掛かるように座り込み、意識を失った柳瀬先輩の姿が映り込んでいた―――――

 喉の奥の胃酸を必死で飲み込む、反芻された胃酸はムカムカとする胃の中を引っ掻き回す。痛みと気持ち悪さで涙すら滲んだが、吐くのは堪えた。


「……龍臣、外に羽山を連れて逃げろ」


 改めてもう一度。先程は言い切れなかった台詞を言う。

 数秒前と同じ言葉を吐いたつもりが、随分掠れていて、情けない声しか出なかった。

 龍臣の返答は無い。代わりに、羽山に呼び掛ける声と動いた事を示す衣擦れの音が聞こえた。

 俺達が逃走の姿勢を見せた事を悟り、目の前の女が尚も近寄ろうと動き始める。

 それを制するように、俺はずっと腕にかけたままだった傘を女に向けるような角度で開いた。

 何の変鉄もないビニール傘は、視界を全てシャットダウンする効果は無くとも、女の姿もモニターも滲ませて揺らがせる。

 龍臣が床を蹴り、足で扉を蹴り開けていく音が聞こえたと同時に、俺も後退る。

 傘の向こう側で色の付いたシルエットは尚も追い縋ろうと近付いてくる。


『シャアァァァ!』


 色つきの影が再度喚き、傘に小さな穴が数ヶ所空いた。

 害を加えようとしているわけではないのだ。必然的に危害が及んでいるだけ。

 だからこそ、『記録者』に対しても発せられている。

 龍臣の足音は、慎重ながらも大股に遠ざかっていく。

 間も無く運動施設から外へ飛び出る。

 俺は大きく後ろへ飛び退り、その勢いに乗じて傘を後ろ手に開いたまま、二人の後を追った。

 つい少し前、下った際は数段跳ばしにした階段。上る際にはやけに足が重かった。

 進む先に待ち構えているものを理解しているからかもしれない。

 龍臣を追い掛け逃げてきた俺が運動施設を出るとけぶるようだった雨は、もう止んでいた。

 龍臣は施設を出てすぐの渡り廊下でへたりこんでいた。地面へと降ろされた羽山は緊張の糸が切れたように意識を失っている。

 あの女が休憩室から出て追い掛けているかどうかは、振り返っていないから判らない。

 でもそこではまだ完全に危機が去ったわけではない気がして、俺達は校庭を突っ切た先、体育館脇の渡り廊下まで移動する事にした。

 精根共に尽き果てた様子の龍臣に、今度は俺が羽山を背負うと申し出たのだが、責任感からか龍臣は荒い呼吸で首を振り、羽山を背負い直した。

 だったら、と俺は羽山を龍臣に任せ、移動先を指示して、一人校舎の中へと舞い戻る事にした。

 行きに開けておいた昇降口脇の扉から入り、二階の渡り廊下を目指す。

 他の出入口の鍵が開いているかも判らないし、ここから入るのが早く確実な手だった。

 龍臣達はちゃんと指示した場所に移動しただろうか、と少し不安が過る。

 体育館はヒデオのテリトリーだ。あの女がそこまで追い掛けてくる確率は低いし、多少は安全ではないかと思ったのだが、校外に出てもらうほうが良かったかもしれない。

 龍臣には、移動した先で救急車を呼んで欲しいと頼んでおいた。

 暗い廊下を明かりを付けずに、昼間の記憶を頼りに走る。

 すると俺の行先を照らすように、窓から入ってきた蒼白い光がいつの間にか頭の辺りをたゆたい始めた。

 火の玉――――いや、人魂というのだろうか。

 温もりの無い、ただ瞬くだけの光が並走するように闇に浮かび上がっている。

 俺はそれが何かを知っていた。


『……何が起きてる?』


 気にせず走り続ける俺の耳に聞き慣れた声が届いた。


「案の定……七不思議が二つ同時にっ……発生した」


 直接頭に響いてくるようなその声に答えようとするも、息がきれる。


『それでこんなにおかしな連中が集まってきてやがんのか……』


「おかしなっ……て?」


『……あー、なんだ?浮游霊っつーのか?……校庭にうようよきてやがる……』


「!?……友達が今校庭にいるんだ」


 人の形にすら成れていないヒデオ。格技室を離れればこの姿でしか存在を保てないヒデオがそれでも学校に害を為す“何か”と戦っていることは知っていた。その“何か”と言うのが今言った浮游霊とか、そういった類のものなのだろう。

 A棟とB棟とを繋ぐ例の二階の渡り廊下へと差し掛かる。

 ここを抜ければ間も無く放送室へと辿り着く。

 あれ以降おかしな放送は聞こえてこない。

 距離が近づいたせいか、幾分辺りの気温が上昇した気がした。


「……ヒデオ…………頼む」


 切れる息の合間を縫って、掠れた声を振り絞る。


『………………』


 返事は返ってこなかった。

蒼い人魂は、それ以上進めないかのように渡り廊下の終わり際で旋回を始める。

 俺の頼みを拒否している……わけではない。

 俺だけが一人先に進んでいく。ヒデオは渡り廊下の真ん中辺りを未だ漂っている。

 だが、立ち止まるわけにもいかない。止まっている場合ではない。


『………………っ』


 旋回していた人魂は、そのまま何も言わずに窓をすり抜け屋外へと飛び出していった。微かに漏れ聞こえた小さな呼気は、きっと俺の頼みに対しての答えなのではないかと思う。

 ヒデオが色好い返事を返さなかったのは、頼みをきけないからではなく、頼まれるとは思っていなかつたからだ。

 遠い昔に命を落とし、孤独な時を過ごしてきた自分が、本来なら相容れないはずの人間に頼み事をされるような事があるとは思ってもいなかったのだ。

 あまりに久しい頼まれ事に、引き受けて良いかわからず返答に困っていた。

 あくまでも推測だが、アイツはそう考えていたんじゃないかと思う。

 残りの廊下を一気に走り抜ける。

 放送室の前の廊下は、室内から明るく照らされている。駆け寄り覗けば、曇り硝子の向こう側は紅く染まっていた。


「……くそっ」


 酸の次は火かよ、と悪態を吐き室内へと踏み込んだ。

 放送室は完全に日常とはかけ離れた様相を呈していた。

 明々と燃える火。それは防音硝子を隔てた収録室の中で絶えることなく揺れ動いている。

 不思議と煙は充満しておらず、火がこの世のものではないことを悟る。

 その証拠に、炎の中心で踊り狂う人影は、力尽き崩折れていない。


「柳瀬せんぱっ……!?」


 呼びかけようとして大きく口を開き、すぐさま後悔した。

 煙はないのに、開いた喉が熱気で焼かれる。

 柳瀬先輩の姿は見えない。

 運動施設で見た映像から判断するに、多分収録室の中にいる。

 火元は見ないように意識し、収録室の入口へと駆け寄る。

 実を言えば、俺の頭はもうほとんど働いていなかった。

 相次ぐ出来事に完全にオーバーヒートしている。

 しかし余計な思考で誤魔化せないぶん五感は敏感になり、感じるものがダイレクトに心臓を揺さぶる。

 そのためこれ以上気持ち悪いものも、気味の悪いものも見たくなかった。

 口を開かぬよう堅く唇を結び、ドアノブを捻る。

 大した抵抗もなく扉は開いたものの、漏れだした空気は一瞬で汗ばむほどの暑いものだった。


「!?」


 柳瀬先輩は扉を開けた先に身体を丸めるようにして倒れていた。

 近付き、まずは安否を確認する。

 意識はない。だが、息はある。

 煙を吸ったわけではないのかもしれないが、火が燃えている以上、一酸化炭素中毒かもしれない。

 ぜぇぜぇという乱れてくぐもった息が耐えず吐き出されている。

 重く力の抜けた柳瀬先輩の腕を肩へと回す。

 柳瀬先輩の体躯は、俺とさほど変わらない。

 それでも意識の無い人間は重く、背負い上げることは出来ず半ば引き摺るような形が精一杯だった。

 俺自身力があるわけでも、身体がデカイわけでもないから、脱臼くらいはしてしまうかもれない。

 けれど彼を連れ出すにはこの姿勢が限界だった。

 ズルズルと人一人引き摺りながら遅い足取りで収録室を出る。

 扉を閉めるべきかわずかに迷った。

 あれが外に出てこぬよう封じておくべきか…………

 視界の端では未だ影が踊っている。炭のような黒い塊が紅い炎を身に纏い、踊り狂う。

 記録者はそれを観察しなければならない。目視し、推察し記す。それが役目。

 でなければ、自らが破滅する。

 けれど傍らには今にも息の絶えそうな人間を抱えていた。一刻を争う状態の最近知り合ったばかりの人。

 迷ったのは一秒にも満たない間だけだった。

 記録者である前に、結局俺は今生きている側の人間だった。

 扉を開けたまま振り返らずに放送室を後にする。

 死に物狂いで渡り廊下まで来たところで、赤色灯をフル回転させ、サイレンを鳴らす救急車が校内の敷地に入ってくるところが見えた。

 瞬間、辺りを包んでいた澄んだ空気が霧散する。

 長い夜が終わろうとしていた。

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