【コミカライズ連載中】当て馬王子の侍女に転生!?よし、ヒロインと婚約破棄なんてさせません!~モブ令嬢のはずなのに、なんだか周囲が派手なんですが?~
千早 朔
第一章 王城編
第1話プロローグ 届かなかった「ごめんね」
人生って、なんだろう。
東京へ向かう午前八時前のJR線。
もはや慣れてしまった圧迫感に耐えながら五駅を過ぎ、やっとのことで座席に腰をおろせた直後のこと。
お母さんから届いたメッセージに、息を止めた。
『くーちゃんが、もうダメかもなの』
くーちゃん。中学生だった私が大雨の中、公園から拾ってきた犬の名前だ。
犬種はたぶんコーギー。けれどもミルクティーみたいな茶色ではなく黒色で、おでこから鼻周りにかけてと胸、それから足の先が靴下を履いているみたいに白くて、私が「くーちゃん」と名付けた。
我が強くて、あまり甘えてはくれないけれど、私が悲しんでいたらそっと背中をくっつけて側にいてくれる。
そうしてずっと一緒に歳を重ねてきて、私は社会人に、くーちゃんは老犬になってしまった。
就職と同時に家を出てからも、月に一度は必ず帰るようにしていたのだけど……。
『今日だけでいいから、会社おやすみして帰ってこれない?』
(……そりゃ、帰りたいけどさ)
スマホを握る手にぎりりと力が入る。
お母さんからかかってくる電話の間隔が狭まるたびに、くーちゃんとのお別れが迫ってきているのは感じてた。
けれども社会人二年目。
度重なる残業と休日出勤に追われ、なけなしの休日は身体が摩耗した体力と精神を少しでも回復させようとしているのか、どうしてもなかなか起き上がれず。
次こそは、次こそは。
そう繰り返しているうちに、気付けば最後に帰ったのは、五か月前のこと。
(でも、休みたいって言ったって、きっと上司は許してくれない)
ことあるごとに、自分は親の危篤時も仕事をしていたと得意げに話す人だ。
おまけに部長も、そんな上司を「社会人の鏡だ」、「キミたちも見習いたまえ」と褒めたたえている。
数か月前、奥さんの出産時に早退した先輩は、未だに二人からの風当たりが強い。
(……私なんかが、それも、実家の犬が危なくて……なんて理由で休んだら、きっと嫌がらせされるにきまってる)
ごめんね、くーちゃん。
あんなに楽しい時間をくれたのに。あんなに、寄り添ってくれたのに。
私はあなたの苦しいだろう最後の最後に、頑張ってと頭を撫でててあげるどころか、「ありがとう」と伝えることすらできない。
ぽたり、ぽたりとスマホに水滴が落ちる。
震える指を無理やり動かして、メッセージ画面に「ごめん、無理」と打ち込んだ。
あとは送信を押して、涙を拭いて、このままいつものように会社へと運ばれていくだけ。
そう。それでいい。だってそれが、"正しい"社会人なのだから。
――本当に?
指が止まる。
本当に、私はそうまでして"正しい社会人"でいたいのだろうか。
大好きなくーちゃんの最期すら会えず、理不尽な上司の
昼ご飯はろくに口に出来ず、夜はくーちゃんに謝りながら泣いて、朝なんてこなければいいのにって絶望しながら布団にくるまる。
そんな、他の全てを犠牲にしてまで続けたいほど、この仕事が大切なんだっけ。
(……違う)
私が大切なのは。私が送りたい、人生は。
「――すみません降ります!」
叫んだ私は人をかき分け、電車から飛び降りた。
ひしめき合う電車待ちの合間を縫いながらホームを進み、空いたスペースで立ち止まってから、開いた画面にメッセージを送る。
『いまからいく』
それからひとつ画面を戻って、上司のメッセージ画面を開いた。
一度、小さく深呼吸。躊躇いを断ち切るようにして指を動かす。
『すみません。今日だけ休ませてください』
送信。これでもう、後戻りはできない。
(……駅、戻らなきゃ)
実家は会社とは反対側。戻りの電車に乗るには、反対側のホームにうつらないといけない。
スマホから視線を上げた私は、降り口を目指して人波の間を縫いながら、必死に歩を進める。
けれどもさすがは通勤ラッシュ時。やっと見つけた階段は、無言で伏目がちにホームへと上がってくる人が端から端まで絶え間ない。
「すみません……っ、すみません、通してください!」
ひるんでなんていられない。
必死に声をあげ、一段を降りては人を避け。
迷惑そうな舌打ちに奥歯を噛みしめながら、懸命に階段を降りていく。
ここさえ降りきってしまえば、あとは反対側に向かうだけ。
と、握りしめたスマホが受信に震えた。
視線を落とす。光る画面には、『くーちゃん、頑張ってまってるよ』の文字。
「…………っ!」
(待っててね、くーちゃん。いま行くから……!)
視界が滲みそうになるのを耐え、決意を胸に再び階段を降りようとした、その時だった。
どん、と背に受けた衝撃。傾く身体。
「え……?」
確かな浮遊に、足が離れた刹那。
(あ、おちる)
誰かの悲鳴を遠くに感じながら、私はどこか冷静な脳裏で、「ごめんね、くーちゃん」と目を閉じた。
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