笛吹き
香竹薬孝
第1話
夢の中で夢とわかる感覚。
頭の中に靄がかかったように、ふわふわとして、重い。
幾つもの松明が夜を燈し、境内に続く小道に連なる無数の灯篭と喧騒の中を賑やかに行き交い、参道を登り、または降る人々が手にする提灯の灯が、穏やかに、鮮やかに夜の闇色を様々な模様に色濃く淡く浮かび上がらせ、宵の空に夢幻を醸している。
……祭りの光景。
参道を染める鈍く柔らかな灯の行列。男も女も、孫を連れた年配の夫婦も、浴衣姿か涼し気な装いで、片手に団扇、片手に提灯、或いは連れの手を引いて、煌々と闇を焦がす松明の炎に、ぼんやりと闇に浮かぶ灯篭に横顔を照らし浮かべながら肩を揺らしている。
しかし、誰の顔にも表情がなく、にもかかわらず参道の方々からは、その先の境内からは、賑やかなざわめき、喧騒、神楽囃子の鳴り物の音が絶え間なく聞こえている。
夢の中の何処かで、自分は立ち尽くしている。自分の身体の感触が鈍く重い。
目も鼻もない親子が、ない口で笑い声を上げながら楽し気に傍らを通り過ぎる。
ぼんやり、考える。
自分は参道を登ろうとしていたのだっけ。
それとも参道から下り終えたところなのだっけ。
……よく、わからない。
祭囃子が聞こえる。
太鼓の響き、篠笛の音。
奇麗な、笛の音――
ふと、その姿が視界に映ったのは偶然だろうか。
ぞろぞろと境内へと登っていく一群の流れを縫うように、灯篭の蔭からひょいと姿を見せ、参道を下っていく浴衣姿の人影をみつけた。
白地の浴衣には夜光の蒼と松明の炎紅が模様のように燈り、闇夜を切り抜いたようにくっきりと浮かんで見える。
のっぺらぼうの喧騒の中で、たった一人だけ、顔を持った人の後ろ姿。
後ろ姿なのに、何故かそうだとわかり、声を掛けようとするが、
不意に喧騒が消えた。
のっぺらぼうの群衆たちが掻き消え、僕はいつの間にか境内と思しき杉の木々に囲まれた広い場所に立ち尽くしていた。
目の前に佇むのは、先程の人影一人きり。
「あ……」
再び声を掛けようと口を開いた僕の前で、浴衣の人影――小さな少女がくるりと振り向いた。
ぴぃ――――。
「……暑っつ」
蒸し暑さに目を開けると、寝惚け眼にぼやけた視界一杯に夏の空の入道雲が滲んで見えた。
さっきまで日陰の縁側はいつの間にか正午にさしかかったお日様が真上に昇り切り、風通しの良いところでごろ寝を決め込んでいた僕の避暑スペースを完全に奪い取ってしまっていた。
もう盛りも終盤に差し掛かったというのにまだまだ現役の夏の日差しがじりじりと身体中に照り付ける。
「……」
夢見の悪い寝起き特有のだるさを抱えつつのそのそと起き上がる。寝汗がべっとりとシャツに張り付いて気持ち悪い。
いや、これは寝汗というよりもこのカンカン照りの暑さのせいだろう。すぐ目の前の庭先では地獄のように陽炎がユラユラしているし、やけに五月蠅いと思ったらすぐ斜め上の梁に油蝉が二匹もたかっていた。それらが皆このうだる暑さを増長させているようにさえ思う。
――ちりん。
ふいに、微かな涼風が頬を撫で、軒の風鈴が涼やかな音を立てる。ははあ、風が出てきたという事はこれは夕立が一雨降るな、と一瞬思ったが、何のことはない勝手に上がり込んで「強」に設定した扇風機に当たって涼んでいる輩の風がこちらに零れてきたに過ぎなかった。
「あ、起きたんだ。おはよ。てか、おひさー」
そう言って幼馴染の珍竹林が、居間のテーブルの前に座って麦茶のグラスを口に寄せたまま笑った。
栗色のショートカットにタンクトップ、カーキ色のハーフパンツから細い足がにょっきり生えている様子は香竹が億劫がって凝った描写を省いた様な夏休みの少年そのものの装いだが、この幼馴染は昔から幾ら真夏の真昼間から外で遊びまわってもまったく日焼けしない体質だった。生っ白い上に線も細い。背も小さい。ついでに付け加えると少年ではなく、れっきとした女子大生だ。なお珍竹林というのは形容詞であって名前は長者美砂という。
「……いつ来たの?」
寝起きの声音を飲み込み、足元に無造作に置いていた眼鏡を危うく踏みつけそうになりながらも拾い上げ、自分も扇風機の送風範囲内に腰を下ろしながら尋ねる。……嗚呼っ! 風が心地よい。幸せだ。
「うん。さっき来たばっかり。おじさんもおばさんもいなかったから勝手に上がらせてもらったけど……あ、麦茶ごちそうさま」
「いや、そうじゃなくてさ。東京だっけ? いつこっちに戻ってきたのかって」
「ああ、そういうことか」
言いつつ、ポットからグラスに麦茶を注いで美味しそうに喉を鳴らす。縁側に比べ、日の当たらない屋内の方が涼しく感じられるのはやはり夏の終わりの気配か。
「一昨日着いたばかりだよ。もう少し早く来ても良かったんだけどね。ぎりぎりまであっちでバイトしてたから。いやー新幹線が混むわ混むわ」
一昨日か。じゃあ僕と一日違いか。
美味しそうに麦茶をもう一口啜る美砂を見ているうちに、急に思い出したように喉の渇きを覚えた。
「僕も麦茶飲みたい」
「あ、うん。グラス持ってくるからちょっと待ってて」
勝手知ったる他人の家。
よいしょと立ち上がる美砂を見上げ、おや、と思わず声を上げた。
「おまえ、もしかして背伸びた?」
「あら、そう?」
嬉しそうに頬を抑える。
「――なんか、帰ってきたって実感するわよね」
すぐ横で自転車を走らせながら、嬉しそうに美砂が笑う。
昼時になったので、美砂を送りがてら暫くぶりの田舎風景を自転車で並んで見回してみた。
砂利敷きの農道を、分厚い夏風を肩で切りながら、数か月前まで学生服やセーラー服でぞろぞろと行き通いしていた頃の通学路を走っていると、つい昨日一昨日までの都会での生活が遠い昔の出来事のように思える。向こうにいた時は、こちらの見慣れていた田園風景の方が余程手の届かない遠くの空の彼方にあるように思っていたものなのに。
久々に乗る自転車も、なんだかサドルやハンドルがぎこちなく感じる。
ほかの連中は、もうこちらに帰ってきているのだろうか。
「あ、」
農道を抜け、ほんの数件ほどの商店が立ち並ぶ一角に差し掛かったところで、不意に美砂が声を上げて立ち止まった。
つられて自転車を止めて見ると、通りの向こうから何やら行列のようなものがこっちへ近づいてくる。
「神輿だね」
白い古風な装束姿の氏子の人たちが七、八人ほど、小さな神輿を担いで練り歩いてきた。先頭のおじさんは白い幟を掲げ、後ろの人たちが掛け声を上げて太鼓を鳴らしている。
「そういえば、十六日に神社のお祭りがあるんだよね?」
「祭り?」
そう言われて、さっき見た夢が不意に脳裏を過る。
「ああ、そうだ。今日は迎え盆じゃん。ねえ、今夜花火しようよ!」
「花火? 迎え火のこと?」
この地方では迎え盆の十三日の夜に、家の前や田んぼの土手やらに藁を集めて火を焚き、祖霊を迎える風習がある。その際、焚火の周りで花火を楽しむのが風物詩の一つ(但し爆竹や音の鳴る花火は御先祖様が驚いてしまうのでNG)。
「ねえ、花火大会やろうよ。こっちに戻ってきてる皆を呼んで同窓会みたいにさ?」
嬉しそうにはしゃぐ美砂の横を神輿行列が汗だくになって通り過ぎていく。
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