第3話


 私のこれまでの人生に悪いやつは一度だけ登場した。それが右沢さんの父親だ。小学六年生になり、中学生になったときにハブにされてはいけないからとの理由でスマートフォンを入手した私は右沢さんとだけ連絡先を交換した。右沢さんは深夜にならないと返信してこなくて、必然、私達が話し合うのは夜が更けて月明かりしか残っていない午前のことだった。私はチーちゃんと話す要領で誰それがキモいとか誰それがムカつくとかそんな話ばかりしていたけど右沢さんはおざなりな相槌を返す程度だった。私はその相槌を肯定と勘違いしてさらに他人の悪口を並べ立てる脇田さんに負けず劣らずのモンスターになる。

 そんなだから大抵話を始めるのも終えるのも大抵私からだった。

 右沢さんから会話を始めたのは、たった一度だけでその内容は「たすけて」。

 私は「どうしたの?」、「なにがあったの?」と文字を打つけど返事がこなくて右沢さんの家まで自転車を漕いでいく。インターホンを鳴らしたら右沢さんの香月先生と同じ歳くらいのお父さんが出てきて「あの子の友達かな? 悪いけどいま少し話し合いをしている最中だから、また明日にしてくれないかな」ってにこやかな笑顔で言うけど、お父さんは呂律が少しおかしくて自分の手が震えていて瞳の中に暴力の最中の特有の興奮が残っていることに自分で気づいていない。どんどん、と右沢さんが床を叩いて私を呼んだのを聞いて振り返ったときに自分の顔に浮かんだ殺気に気づいていない。

 いけ、とチーちゃんが私に命じる。私は怖くて膝が震えそうだったけどお父さんの脇をすり抜けて家の中に飛び込むと、フローリングの床に右沢さんが倒れていた。頬が腫れている。体がガクガク震えている。捲れた右沢さんの服の下には青あざがたくさんあった。きっと日常的なものだったのだ。離婚していて母親のいない右沢さんはこんな風にお父さんにサンドバックの代わりにされていたのだ。ストレスの捌け口にされていたのだ。いつからのことだったかはわからない。多分、一年以内。だって去年から続いていたら、夏のプールの時には誰かが気づいたはずだから。

 私は右沢さんを庇ってお父さんを見上げた。最初は敵意を持って。右沢さんを守るつもりで。お父さんを倒すつもりで。でも殺気の篭もったお父さんの目が私を見たら、その蛮勇はすぐにしぼんでしまった。あんな目を私は知らなかった。脇田さんが私を蹴るときの、優越感の混じった軽薄な視線とは全然違った。濁っていて粘ついていて歪んでいて熱くて冷たくて。その視線は私の体を見ていなかった。私の命を見ていた。私は怯えて後退ることしかできなかった。お父さんの口から唾と一緒に意味不明な言葉が吐き出された。私は蹴られた。大人の力で。男性の全力で。息ができなくなって壁に頭の後ろを打ち付けた。

「殺せ!」

 チーちゃんが怒鳴った。

 無理だよ、チーちゃん。私、できないんだ。脇田さんのことだって殺したかったけど私にはバットなんて握れないの。ほんとに全力で人をぶん殴るなんてこと私にはできないんだ。私の中には安全装置が備え付けてあってバットを振るう直前で機能停止してしまうようになってるんだ。チーちゃんが殺せ! 殺せ! と、繰り返す。地団駄を踏む。お父さんがゆっくり近づいてくる。唾を吐いて私の顔にかかる。ぎろり、といままでと違う視線が私を掠めた。性欲の視線だった。

「もういいよ」

 チーちゃんが私を見限った。

「おまえなんか一生殴られてればいいんだ。どこにも吼えずに噛みつかずに。ずっとどっかの誰かのサンドバックやってたらいい。私は違う。私は戦うんだ! 殺すんだ」

 私と右沢さんは、チーちゃんを見た。バットを片手にチーちゃんが私から抜け出したのを見た。私とチーちゃんは別個の体を持って存在していた。チーちゃんがお父さんを睨んだ。

 チーちゃんがバットを振り上げた。暴力性を解き放った。でも小学六年生がバットを手にした程度で大人の男に敵うはずがない。チーちゃんはあっさり蹴り飛ばされて、踏まれて、フローリングの床に叩きつけられる。骨の折れる音がした。チーちゃんがお父さんの足に縋り付いた。煩わしそうに振り払おうとしたお父さんの足に噛みついた。「ぎゃあ」と悲鳴があがる。チーちゃんの歯は鋭くとがっていて皮膚を突き破り肉を食いちぎり骨に食い込む。血がチーちゃんの口を真っ赤に染める。お父さんはチーちゃんを叩いて引き剥がそうとするけどその手は痛みのせいで弱弱しい。弱いものいじめに満足して自分を神だと勘違いしている弱ザコのお父さんは戦い方なんて知りもしない。それでもお父さんは足をめちゃくちゃに振ってチーちゃんを引き剥がそうとするけどチーちゃんは剥がれない。むしろ振り回されてもっと肉が抉れる。お父さんがバランスを崩して転倒する。一緒に倒れたチーちゃんがようやっと口を離す。

 チーちゃんが私を見る。チーちゃんは何も言わなかったけどその視線が口よりも雄弁に言葉を語る。

「こうするんだよ。次はね、あなたがやるんだよ」

 私は恐れながらもうなずいた。

 チーちゃんがバットを振り上げた。

 ぐしゃり。

 チーちゃんのバットがお父さんの頭を叩いた。

 次は私があれをやるのだ。大切なものを、何を犠牲にしても守らないといけないときに。例えば自分を、親友を、恋人を、夫を、子供を守るために。私がバットを握るのだ。私がチーちゃんになるのだ。誰かの頭に向けてバットを振り下ろすんだ。でも小学六年生の私にはまだそれができないから、チーちゃんは私の代わりにバットを握ってくれた。

 チーちゃんの振り下ろしたバットがお父さんの頭を叩いた。何度も何度も叩いた。

 お父さんは頭の形を何度も変えたあと、白目を剝いて動かなくなる。

 私は震えながら、でも目は閉じなかった。チーちゃんが悪と戦うのを見ていた。そういう強さが必要なときもあるんだ。誰かをぶち殺してでも自分と誰かを守らなければならないときがあるんだ。

 チーちゃんは私を見て、にこっと笑った。

 それから口から冗談みたいな量の血を吐き出したあと、うつぶせに静かに倒れた。

 インターホンがなった。「右沢さんいらっしゃいますか?」玄関のドアが控えめに叩かれた。返事がないことがわかるとがちゃりとカギの回る音がした。

 物音を不審に思った隣人の呼んだ警察だった。

 私と右沢さんが抱き合って震えていた。

 お父さんが倒れていて、チーちゃんはいつのまにか消えていた。

 血痕とバットだけが、チーちゃんがそこに存在していたことを示していた。



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