おしょうゆさんと私
つとむュー
1.プロローグ
『この刺身、美味いやろ?』
突然声がした、夕食中に。
どこからともなく、耳元で。
『わいのおかげやで』
誰!?
初めて聞く声。男の人の声。家族のものじゃない。
食卓を見回すと、お父さんもお母さんも弟も夢中になって刺身を食べている。
『どこ見とるんや。目の前や、目の前。それに出し過ぎや』
ええっ、目の前!?
テーブルの刺身に視線を戻すと、手にした醤油ボトルからポタポタと黒い液体が落ち続けている。
私は慌ててボトルをテーブルに置いた。
ていうか、ま、まさか、醤油がしゃべった!?
驚きの表情を浮かべる私に、お父さんが反応した。
「おおっ、沙希もビックリしたか?」
えっ? お父さんにも同じ声が聞こえてる……とか?
「そうだろう、そうだろう、今日の刺身は驚くほど美味いだろ?」
なんだ、そっちのこと?
私がビックリしたのは刺身じゃなくて声の方だから。
「魚が新鮮ってこともある。だが、しかし、今日の主役は魚じゃないんだ。それが分かったんだよな、沙希にも」
ヤバい、違いが分かる男アピール出ちゃったよ。
面倒くさいなぁ、スイッチが入ったお父さんの説明って長いんだから……。
勘弁してほしい私のことはそっちのけで、お父さんは私の目の前にある醤油ボトルを指差した。
「ジャジャーン、今日の主役はこのボトル。醤油の本場、和歌山県湯浅町の醸造元から特別に取り寄せた、最高級たまり醤油の密封ボトルだ!」
『せや!』
謎の声が合いの手を入れた。
やめて、お父さん、調子に乗っちゃうから。
しかしお父さんは浮かない様子。
「おいおい、なんでみんな反応しない。湯浅醤油だぞ、日本の醤油発祥の地なんだぞ」
『せやせや、湯浅醤油は日本一やで!』
だからお父さんを煽らないでよ。って、えっ? その声ってお父さんには聞こえてない?
もしかして、聞こえてるのは私だけ?
その証拠に、すっかり意気消沈してしまったお父さんは、醤油を指差す手を悲しそうに引っ込めた。
「それって、値段はいくらだったの?」
トドメを刺すお母さんの言葉。
「い、い、いくらって、ま、まあ、この刺身の味に似合う値段だけど……」
「私にはちっとも違いが分かりませんけど」
お母さんそれ言っちゃダメだって。
私にはちゃんと違いが分かったよ。だって醤油を垂らすたびに、声が耳元でするもん。
「沙希。ご飯が終わったらこの醤油、あんたの部屋に持って行ってちょうだい。お父さんが早く忘れてしまうように」
鬼だよ、お母さん。
そんな険悪な雰囲気をよそに、弟は黙々と刺身を食べていた。
夕食が終わって自室に戻ると、私は醤油ボトルを机の上に置く。
椅子に座って姿勢を正すと、声の主へのコンタクトを開始した。
「こんにちは」
が、挨拶をしても反応がない……。
「こんばんわ」
夜だからこっちの挨拶の方がいいんじゃないかと思ったが、これも反応なし。
おかしいなぁ、さっきは耳元で声がしたのに。
私はマジマジと醤油ボトルを眺める。
そこには「生醤油」の文字の下に、赤い字で説明が書かれていた。
――醤油一滴一滴が新鮮な新型密封ボトルです。
確かお父さんもそんなことを言ってたような……。
その時、私は閃いた。
「もしかして、密封ボトルだから密閉されちゃってて、私の声が聞こえない――とか!?」
それならば醤油を出してみればいい。
私は左手の掌を上に向け、右手に持った密封ボトルから醤油を一滴、掌に垂らしてみた。
ぷうんと漂う、醤油のいい香り。
高級醤油だからなのか、密封ボトルだからなのかは分からないが、こんなに素敵な香りは今までの醤油で味わったことはない。
『ええ香りやろ?』
待ち望んだ声が私の耳元をくすぐった。
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