るーるるるる—る
福津 憂
るーるるるる—る
男はその背丈の二倍はあろう木造の扉に手の平を添えると、ゆっくりと押し込んだ。美しい紋様が彫り込まれた扉は、まるで石造りの彫像が振り向いたように甲高く軋む。男は静かに中へと足を進めた。彼の靴底が床に触れるたび、数十年にわたって積り続けた埃が舞い上がる。それは天窓から差し込む春の陽光に反射し、時間の止まった雪のように光っていた。
「誰か?」男は慎重に、しかしあたりに響くように声をかける。もう何ヶ月も話していないからか、それは言葉として聞き取れる物ではなかったかもしれない。
他のどの場所とも同じ。ここに彼以外の人間はいなかった。扉の正面には大きな十字架が掲げられ、そこに向かって何列もの長椅子が並んでいる。男はそれらを一つずつ、ゆっくりと覗き込む。人間は誰一人、そして人の気配を残すものすらここには無かった。男は最前に置かれた椅子に腰掛け、ぐるりとあたりを見渡した。
教会の最も奥、窓から入る日差しがよく当たるその場所に、男が探していたものはあった。小さな馬ほどの大きさで、白鍵と黒鍵が美しく並んでいる。彼はこの世界で生き残る為の薬や、水、食糧、そして相棒を探していたわけでは無い。彼が探していたのは、ピアノだった。
男は鍵盤の元へ向かうと、小さく震える人差し指で、鍵盤をゆっくり押し込む。
「ぽーん」もう一度、次は少し右の白鍵を叩く。
「ぽーん」もう一度、次は少し長く。
「ぽーーん」
男は背負っていたリュックサックを下ろすと、中を手荒く漁り、小さな紙片を取り出した。古書からちぎり取ったようなその紙には、黒く細い線が五本と、小さな円が六つ描かれている。それこそが、彼がずっと探していた「音」だった。
彼は円を一つずつ鳴らして行く。
「ぽーん」
「るー」鍵盤の声を真似る。
「ぽーん、ぽーん」
「るーる」
「ぽーん、ぽーん、ぽーん」
「るーるる」
「ぽーん、ぽーん、ぽーん、ぽーん」
「るーるるる」
「ぽーん、ぽーん、ぽーん、ぽーん、ぽーん」
「るーるるるる」
「ぽーん、ぽーん、ぽーん、ぽーん、ぽーん、ぽーん」
「るーるるるるーる」男は幸福に満たされたような表情で呟いた。
「るーるるるるーる」彼は何度もそう繰り返しながら森を駆ける。「るーるるるるーる」
もう少し行くとテントがある。るーるるるるーる。忘れないように。るーるるるるーる。テントには大きな箱が一つだけ置かれていた。彼は金属製の留め具を外し、その黒く重い蓋を開く。生まれたばかりの赤子を取り上げるように、ゆっくりと、それを膝の上に乗せる。
「るー」
「ぱーん」
「るー、るー」
「ぱーん、ぱーん」不揃いだった弦の音が、秩序だった並びへと戻って行く。
男は六つの弦を揃えあげると、左手をぎこちなく添え、伸びきった右手の爪を振り下ろす。
「じゃーん」Fコードだ。
「じゃーーん」これはCコード。「じぃーん」これはどこか間違えている。
彼は日が落ちるまでギターを弾き続けた。不慣れな演奏に小言を並べる人間もいなければ、隣で笑いながら、呟くように歌を合わせてくれる人間もいない。男はたった一人でギターを弾いていた。
いつか、もしいつの日か他の人間に会えるとしたら、歌の上手な人が良い。それまでに上達しておかないと。正しい音を忘れないように。少しずつずれて行く音高を正す為に、教会のオルガンから習った音。それを忘れないようにしないと。
「るーるるるるーる」
るーるるるる—る 福津 憂 @elmazz
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