第10話「遅めの登校①しりとり」

 朝、少し寝ぼけながら俺は高校へと歩を進めていた。

 周りのサラリーマンや学生が足早に先へと急ぐ。住宅街を分断するようにはしる広い坂道は行き交う人々のせいで少し騒々しい。文教区である山を切り開いてできたこの街の駅へと通じる道なので、朝は通勤、通学の人々であふれかえるのだ。


 少し冷えた朝は右肩が疼き、ぶるっと体を震わせる。細く息を吐くと少し白い。

 俺の横をクラスメイトが何人か自転車で通り過ぎ、お互い挨拶をして通り過ぎる。急な坂ではないとはいえ、距離があるので自転車通学は大変そうだ。


 俺の少し前には、今日は朝練がないのか同じ高校の野球部員が二人、スポーツバックを背負って登校している。

 時刻は八時十分。

 この時間だと、走らずとも歩けばちょうど予鈴前には学校へと到着する事ができる。


 普段はもう少し早く登校するのだが、昨日の晩、川村先生の命令に頭を悩ませていた為、就寝時間が遅れたのだ。

 神谷と仲良くなるねぇ……。

 朝からため息が漏れた。

 何をどう考えたところで、そんな気持ちにはなれなかった。


 俺だってこの一ヶ月なにもしなかったわけじゃない。不本意とはいえ、学級委員になった身だ、クラスに馴染んでもらおうと最低限の義務は果たそうと思ったのだ。

 ただ、悉く無視されただけだ。


 しつこく迫って昨日みたいに怒りを買ったこともあったが。

 あんな様子だからクラスメイトもろくに声をかけたりしなくなっている。

 大体、神谷自身がクラスメイトを敵視しているのだ。俺自身、そんな神谷が嫌いだし。今更、仲良くなるもなにもない。担任として気になるのはわかるのだが、だからといって俺には難しすぎる。


「おっはよう! 孝也くん!」


 背中に軽い衝撃と共に高い声が小気味よく鼓膜を震わす。


 後ろを振り向くと、にっこりと微笑む高梨ちづる先輩がいた。小柄な体からは元気さが発散されており、ブレザーの袖に半ば隠れた細い指先をこちらに向けているのが何だかかわいい。


「おはようございます、ちづる先輩」

「ちょっと寒いけど今日もいい朝だねぇー」


 ちづる先輩は俺の横につき、二人で坂道を登る。本当にいい朝だ。ちづる先輩と登校していると動物を愛でる気持ちになり、さっきまでの悩んで、どんよりと曇っていた気分が洗われていく。


「ちづる先輩、いつもこの時間に登校してるんですか?」

「ううん、いつもはもっと早いんだけどさ。恥ずかしい話、普通に寝坊しかけまして」


 そういってちづる先輩はチロリと舌を出す。


「夜更かしでもしてたんですか?」

「いやー、なんかさ、今日って寒いじゃんか。ちゃんといつもの時間に起きたんだけど、こう布団から出ようと思ったら、布団の奴めが私を手放してくれなくてさ、私を愛してやまないみたいですよ? 布団君は。まぁー、私が出ていったら布団君は冷たくなっちゃうから分からなくはないんだけどね」


「ははは、なんですか、それは、普通逆じゃないですか。面白いですね」

「えへへ、無機物に優しいちづるさんですよ」


 ああ、なんだろう、本当にこの人は。なんか変わってるけど、いい性格しているよな。時々年上だという事を忘れそうになる。


「孝也くんこそ、いつもこの時間なの?」

「いや、俺ももう少し早いですよ」


 そういって俺は口元に手をあて欠伸をもらす。


「わかった、夜更かしだね」


 えっへんと控えめに流線を描いた胸をそって、ちづる先輩は何故か偉そうだ。。


「アタリデス。ヨクワカリマシタネ。スゴイデスネ」


「うっわ、なにその片言、絶対そんな事おもってないし、むかつくぅー」


 リスのように頬をふくらまし、ちづる先輩は俺をせめてくる。ああ、この人とのやり取りは楽しいな。表情豊かで。リアクションが気持ちよく返ってくる、神谷とは大違いだ。


「あんまり寝てないんですよ、なんだか寝付けなくて」

「ふーん、それでちょっと顔色悪いんだね。体とか少しだるい?」

「……正直、少し」


 なんだか眠りも浅かった気がするしな。寒さのせいもあるだろうけど、肩まわりがこう重い。


「よしっ!」


 一声あげて、ちづる先輩は俺の背中にまわりこみ、両手を俺の背中につける。


「ちづる先輩?」

「私さー、ちょっとこの前甘い物食べ過ぎちゃったので、ちょうどいい運動になるから、学校まで押していってあげるよ」


 そういってちづる先輩は俺の背中を押し始めたので、俺の脚も当然ながら前へと進む。

 そんな俺たちはちらほらと周りから視線を集めた。


 あっ、なんだろう朝からこれは。目立つ、目立ってる。

 ああ、視線が恥ずかしすぎるだろう。やめてもらおうと後ろを振り返ると、「ん?」って顔して笑顔を向けるちづる先輩がいる。

困った事に悪意ゼロだ。


「……あー、ちづる先輩」

「なにかな? 孝也くん」


 顔を傾ける陽気な笑顔をみるとなにも言えなくなる。


「行きましょうか……」

「アイアイサー」


 断れるはずもなく、俺はそのまま押されるに任せる。


 ちづる先輩の小さな手をエンジンとして足を動かす。確かに坂道なので歩くのは楽だが。

 誰か知り合いに今の状況を見られるのだけは勘弁して頂きたい。

 ちづる先輩は俺の恥ずかしさに気づいた様子もなく、「えっほ、えっほ」といいながら、景気よく背中を押してくる。


「ちづる先輩しりとりでもしませんか?」

「んー? いいけど?」


 何か話していないと時たまちらちらと感じる視線を忘れられない。


「じゃあ俺から、プレーリードッグ」

「いきなりグとか、本気だねぇー、孝也くんは。じゃあ、グレンリベットで」

「グレン……なんですか?」

「ああ、お酒の銘柄だよ。ウイスキー、シングルモルトだね」


 おお、なんだか詳しいな。


「いいんですか? 風紀委員の人間なのに登校中にお酒の話して?」


 飲酒は二十歳になってからですよ、ちづる先輩。んー、なんだか自分の意思以外のものにいわされている感じがあるな。


「ああ、私、自分の家が酒屋なんだよね。だから詳しいだけだよ」

「へー、そうなんですか。酒屋って力仕事だから大変なんじゃないですか? トウブハイイロリス」

「ああ、そうそう、だから私の家のお父さんむきむきだよ。丸太みたいな腕してるからね。スプリングバンク」


 頭の中で軽々と酒瓶の束を持ち上げる筋肉隆々の中年男性が想像される。小柄なちずる先輩を並べるとなんだか見た目のギャップがすごそうだ。


「ははは、力持ちなんですね。クリハラリス」

「また、スですかぁー。うちのお父さん素手でビール瓶の栓抜きできたりするからね。んー、ス、ス、スピリタス」


 背中越しから発せられた声は改心の一撃といった感じがにじみでている。甘いな、ちづる先輩は。


「スリランカ・大リス」

「なにそれ! 嘘、また、す? ええっとー、えっとぉ、んー、んー、あー、うちにあったお酒で……あっ! スペイバーンって駄目じゃん、私の負けだ! ショック!」

「ははは、勝利勝利」


 ちづる先輩は俺の背中ごしで憤っている。しかしちづる先輩のいった単語は何一つ知らなかったけども。お酒の名前なんだろうな、きっと。


「ところでなんでリスばっか?」

「いや、ちづる先輩リスみたいだと思って」


 かわいらしさが。


「なにを! 私が丸顔だっていいたいのかい! ダイエットしても頬は簡単に落ちないんだよぅ!」

「えっ、いや、違う、ってちづる先輩、背中の肉つかまないで、痛いから!」


 なんだこの握力は親父さん譲りか? ちっ、ちぎれる!


 ぎゃーぎゃーと騒いでいるから余計に周りから視線を集めてしまう。というか、そこの女子高生笑うんじゃない! っていうか助けて下さい。背中が本気で痛いんです。お願いしますから。

 

 ちづる先輩をなだめすかし、なんとか俺の背中から肉をもぎとられずにすんだ。

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