第7話「弟の挨拶が痛い」
「ただいまー」
玄関ドアを開き、俺は帰宅を告げる。
山を切り開いたベットタウンにある自分の家に帰宅するのに、思った以上に遅くなってしまった。まったく誰の長話のせいなんだろうな。
普段とは違う時間帯のバスの中で、会社帰りのサラリーマンたちにすし詰めにされ酸素の薄さに顔色が青くなりかけた。今日はただでさえ横隔膜にダメージを負っているというのに。
白のスェードスニーカーを脱いで玄関マットに足をつけた時、リビングのドアが開いて元気はつらつな子供が突進してきた。
「兄ちゃんおかえりー!」
「ちょっと待っ……ごふっ!」
いつもなら受け止めきれる一撃も疲れきった体が反応しきれなかった。
その上、今日の昼に傷めた腹部に八歳の頭部がめり込む。
俺はそのまま倒れ込み、酸素の供給不足に陥った。まっ、また息ができない。
「どうしたー! 兄ちゃん! 今日は弱えーなー!」
前のめりになっている俺を前にして、手を腰にし弟の良太はワハハと笑い、リビングに戻っていく。
「お母さん、兄ちゃん帰ってきたよー!」と母親にいっているのが聞こえる。
ああ、くそっ、痛い。愚弟ごときに不覚をとった。
俺は呼吸を整え、痛む腹部を抑え弟の後に続く。
「おかえり、孝也。あんた遅くなるなら連絡くらいしなさいよ。ご飯冷めちゃってるでしょうが」
リビングに入ると、母親がキッチンで晩御飯を温め俺に注意を投げかけてくる。この匂いはビーフシチューかな。
「仕方ないだろう。俺だってこんな遅くなるとは思わなかったんだし」
「なにかあったの?」
「たいした事じゃないよ。どうでもいい事だから」
実際、俺にとってはそうであってほしい事なんだけどな。
「どうでもいい事でこんな時間まで?」
「ああ、うるさいな。本当どうでもいい事なんだよ」
家に帰ってまで思い出したくない。ゆっくり休ませてほしいところだ。もうその辺りに転がっていたい位なのに。
「あらっ、反抗的ね。良太」
「はーい!」
いい返事とともに弟の良太が俺に突進してきた。
不意をつかれた形で再度、腹部に嫌な音を残し俺は声も出せないままリビングにあるローソファーに倒れ込む。酸素不足なのに、うまく呼吸ができなくなる。勘弁してくれ。こんな転がり方を希望した訳じゃないんだ。
でも今の母親の反応は結局、俺が中学時代の一時期に荒れていたせいの後遺症で、今もまだ少し神経質になっている証拠だった。……よけいユッキーの命令が無視できず、神谷と仲良くしろという言葉が重くのしかかり気が重くなってくる。
「良太はえらいわね。ご褒美にお兄ちゃんの食後のデザートを良太にあげましょう」
「やったー!」
良太の無邪気な声が恨めしい。
よく手懐けられた犬のようだな、我が弟よ。そして良太に対するご褒美が俺に対する罰になってるな、お母様。
俺はなるべく腹筋を使わずにローソファーから体を起こし、ため息をつく。
「それで遅くなった理由は?」
「……担任に呼び出されて」
俺は渋々と応える。
「それがどうでもいい事だと? 良太」
「違う! 待て! 良太目をキラキラさせてこちらを見るんじゃない! 学級委員の用事で呼び出されただけだよ!」
もう一発もらったら、次に自立呼吸する自信が俺にはない。
弟にとどめをさされるなんて嫌すぎるだろう。
「へー、先生もこんな時間に伝えないといけないなんて、大変ね」
「そうだな。こんな時間に呼ばれる俺も大変だよ」
おまけに家に帰ってまでこの仕打ちとか何なの? 今日は。目の前にある液晶テレビからはバラエティー番組が流れており、芸能人がはしゃいでいる。俺もそんな平和そうにはしゃぎたいよ。
ため息と共に、キッチンに目をやると良太が冷蔵庫にガーゼを貼り付けた腕を伸ばし開けようとしていた。
「良太、腕どうしたんだ?」
「野球の練習中にすりむいちゃったんだって」
母親がビーフシチューをレードルでよそいながら応えてくる。
「ふーん、そういえばもう少しで試合あるんだろう? 今回、出れそうなのか?」
「ちょっとどうだろうねー」
母親は曖昧に言葉を濁す。
良太が所属している野球チームはこの街を二分する強豪チームで選手層も厚い。良太のポジションはセンターで決して下手な訳ではないのだが、野球経験が浅いせいもあって、中々、出場機会を掴めずにいた。同世代と比べて小柄なのもハンデとしてあるだろう。
おまけに次回の試合はこの街でのもう一つの強豪との対決とあって、両陣営ともかなり気合が入っていた。その分、活躍すればレギュラー定着も夢ではないのだが、ベストメンバーで望む為、試合に出れるかどうかがまず難しいのだ。
「出るよ! 必ず!」
良太が振り返り声をあげる。
「おおっ、自信だね」
「良太、今、学校の休憩時間も野球の練習してるんだって」
「へー、がんばるなー」
「うん、だって、がんばって、がんばって、がんばり尽くして、もう限界だと思ったそこからさらにがんばったらどうにかなるって、昔兄ちゃんがいってた!」
「……お前、恥ずかしい事覚えてるな」
俺は思わず苦笑する。自分がいったとは思えないなんとも暑苦しい台詞だが、実はこれ親父の言葉だったりする。俺はそれを引用したにすぎない。
「まあ、怪我にだけは気をつけろよ。体壊して試合出れなくなったら元も子もないからな」
「わかった! 気をつける!」
母親は俺たちのやり取りに顔をふせ、良太は応えながら冷蔵庫から目的のものを取り出した。というかそれは。
「ちょっと待て。良太、俺のはちみつ柚子プリンをどうするつもりだ。冷蔵庫に戻せ。開けようとするんじゃない!」
「お母さん食べていいっていった」
叱られた子犬ような表情をしても駄目だ。そればかりは譲れない。普通の小売店で売ってないからわざわざ通販で自費購入したんだぞ。
「デザートとか柿がいっぱいあるだろう。あっちを食えあっちを」
俺は冷蔵庫に向かいながら、入りきらない柿の入った段ボール箱を指差す。
良太は渋い顔をして、嫌そうな視線を送る。
「飽きた」
「お父さんも箱で送ってこなくてもいいのにね」
ダイニングテーブルに晩御飯を配膳しながら、母親はため息交じりに応える。
現在、一家の大黒柱である父親は遠方に単身赴任している。滞在年数が二年程たっており、地域の名産物をたまに送ってきたりする。いつも大量に。父親曰く、あふれんばかりの愛がそうさせるのだそうだ。本当、我が親父ながら、暑苦しいおっさんだよ。
「駄目か?」
良太は『クゥーン』とでも鳴き出しそうな表情で俺に訴えかけてくる。
そんな顔をしても駄目なのは駄目だと……何故だ? あれ? 罪悪感を感じ始めてきているのはどういう事だ?
俺は濡れた瞳で見てくる良太に対して、ため息を漏らす。
「……冷蔵庫の中にプリン何個あった?」
「二個」
「じゃあ、いいよ、食べて。お前が試合に出るっていうならその前祝いだ」
「マジか!? ありがとう! 兄ちゃん!」
「ただしレギュラー絶対とれよな」
俺は良太の頭に手を置きいってやる。
「うん!」
良太は勝気そうな顔に笑顔を浮かべ、早速プリンのフタをとり、食べ始める。
俺はやれやれと苦笑を漏らし、冷蔵庫を開いて、オレンジジュースをとろうしたが、プリンに目がとまり手が止まった。
「……良太」
「なんだ? 兄ちゃん」
もう半分ほど食べたプリンを持ち、スプーンをくわえながら応えてくる。
「お前プリン二つって残ってるのは牛乳プリンじゃないか! はちみつ柚子プリンそれが最後だろうが!」
「うん、うまいな、はちみつ柚子プリン」
「誰もそんな事は聞いてないわ!」
残りをあっという間に完食し、ご満悦な良太。わかっててやりやがったな! この
「ちょっと、こっち来い! 良太」
「いやだ!」
良太は何故か楽しそうに逃げ出し、俺は腹立たしく後を追いかける。狭いリビングでのせわしない追いかけっこは母親の
ちくしょう! なんで俺だけ!
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