第2話 水曜、午後二時
叱られようがすっぽかされようが、人事の仕事は終わらない。
採用選考中の学生は次々にやってくる。
午後二時には、別の学生と面談の予定がある。
面談――面談であって面接ではない。
今日のミーティングは採用合否に関係しない、と伝えてある。
あくまで学生の自由相談――仕事内容や、その他働く上でのもろもろの悩みの相談や質問の時間――ということになっている。社長の発案だ。
窓の外はじりじり暑い。
冷房を入れるにはまだ早い気がするが、学生の疲れた顔を見て、私はリモコンのスイッチを押した。
「……から、決して大企業並みのお給料とは言えない。だけど、今成長中の企業だもの。この先、会社を大きくしていくやりがいはすごくあると思う」
「やりがい、ですか」
ぽつりと呟いた学生は、苦笑とも嘲笑ともつかない、うすら寒い笑みを浮かべた。
「――やりがいしかない訳ですね」
「え?」
「御社のエンジニアの月平均残業時間って、どれくらいです?」
「そ、れは……あの、月四十五時間程、かな」
「法定ぎりぎりの平均時間ですね」
頭の中で少しばかり差っ引いた数字を答えると、学生は呆れたように笑い、さっと席を立った。
「貴重なお話ありがとうございました。次の選考に進むかどうかは、持ち帰って検討し、またご連絡します。それでは」
完璧な三十度のお辞儀をして、学生はミーティングルームを出ていった。
もしこの場に社長がいたら、きっと「モラルの奴隷め」と言い放ったことだろう。
面談が終わって戻った自席には、書類が山と積まれている。
明日の退職手続きの準備。他の社員の産休の準備。夏のボーナス計算の下調べ。
そろそろ給与計算ソフトを新しくしてほしいけれど、社長は今の給与制度に満足していない。
今、ソフトウェアを新しくすると、制度変更後にすぐ改版しなければならない。
手作業は肩が凝るが、社員数はたかが知れている。
こんなの愚痴だ。口を動かすな、手を動かせ、と冷静に求める社長の顔が目に浮かんだ。
「ねえ、今ちょっといいかな?」
「はい?」
振り返れば、ちょうど手元にある産休申請の、当の女性社員が立っていた。目立ち始めたお腹が重そうだ。
「産休の手続きで分かんないことあって……」
「いいですよ。とりあえず座ってください」
空いている隣の席に腰かけてもらい、十分ほど話をした。
「……と、いう感じです」
「なるほどね、おっけーおっけー」
「大丈夫でしょうか?」
「うん、ありがとね。いてくれて助かったわ。あなたが入社する前はこういう申請とかみんな苦手で分からなくてさ、一人目の時は色々貰い損ねたのよね」
そう言えば、彼女のお腹にいるのは二人目だったことを思い出した。
「もうすぐですよね」
「うん、あと二か月……ぎりぎりまで働くのは心配だけど、こればっかりはね」
ゆっくりとお腹を撫でる手の動きに、さりげない愛情を感じる。
出処不明の胸の痛みを堪えつつ、私は引きつった笑顔で世間話を振る。
「もう、名前とか決まりました?」
「まだよ。産休に入ってから決めようと思って。ちゃんと産休貰えるのも、あなたのおかげよね。ほんとにありがとう」
「いえ、私も手探りですけど……力になれてるなら良かったです」
「もちろんよ。今回はお金も身体も心配が少なくて済むのは、あなたのおかげ。無事に生まれたらあなたの名前つけようかしらね」
冗談交じりの軽口で、どこかで救われたような気になった。
子ども――作ろうと思えば作れなくもない。まだ、今なら。そう思う気持ちがどこかにある。だけど、私の今の勤務状況――四十五時間なんてとうに超えてる残業時間で、夫や子ども、家庭を支えることができるとは思えない。
小さい頃は、自分も母のようになるのだと思っていた。
働いて、子を育て夫を助け、友人と語り――今の私にできているのは、最初の一つだけだ。
そんな私でも、誰かの役に立つなら。
自分の子でなくても、誰かの子どもの為になるなら、私が子どもを産んだのとある意味同じじゃないかだろうか。
……そうだよね、きっと?
やりがいある仕事のはずなのに、自分への問いかけはどこか空しく響いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます