1964年ロレックス

 この歳になって誕生日祝いなんて、一体何がめでたいものか、と父に叱られる気がした。しかし、毎日ソファに座ったまま何をするでもなく、ただぼうっとしているだけの父を見ていると、私はこのまま放ってはおけない気がした。

「勝手に持ち出して悪かったと思ってるよ。修理屋に行って直してもらったんだけど」

 私は鈍い光沢をまとう古い腕時計を父に渡した。1964年製のロレックス。父がいつどこでそれを手に入れたのか私は知らない。ただ父が若い時分からいつも大事に身につけていたのは知っている。

「おお」

 父は小さくうめき、腕時計を手にすると自分の耳にあてがった。まぶたを閉じてじっと針の音を聴く。

「この音だよ」

 まぶたを開けた父の瞳に光が宿る。

 父は立ち上がると、珍しくスーツを着て帽子を被った。

「ちょっと散歩に行ってくるよ」

「ああ、いってらっしゃい」

「春雄」

「何?」

「ありがとう」

 父はにっこりと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る