湖上のピアニスト

 幼少期から音楽の英才教育を受けてきた加瀬恭輔はピアノに秀でていた。「上手く」弾く方法をずっと学んできたのだから当然だ。だが彼自身は己の才能の限界に苦しんでいた。

 彼はシベリアの凍ったバイカル湖の上にグランドピアノを運んだ。ヘリの運搬業者に相応の金を払い、二時間後に迎えに来て欲しいと頼んで立ち去ってもらった。

 空は冴え渡る白。湖面には幾筋も亀裂模様が入り、群青色の荘厳な大理石のようだった。それが見渡す限り四方に広がっている。ここには誰もいない。教師も審査員も。

 恭輔はラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を弾いた。冷たい風が彼を取り巻き白い靄がたなびいた。あらゆる雑念が氷霧となって消えた。


 帰国後、彼はピアノ演奏の前に必ず目を瞑るようになった。するとバイカル湖で演奏している自分を思い出すことができた。その指先から生まれる透き通った旋律は、彼の魂から真っ直ぐに溢れる音色だった。

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