第3話

「遅いわ! こっちよ!」


 翌日、授業開始直前に教室に滑り込むと、ゆったりしたアランニット姿のアリスに手招きされた。その瞬間、教室内の生徒は水を打ったように静まり返り、一斉に小声で話し始めた。

 ああ、聞かなくてもわかる。話のネタは俺だろう。親し気にアリスが声をかけた相手だ。注目されるのは必然といってもいい。


「遅刻寸前じゃない。いつもこうなの?」

「いいんだよ。遅刻しなければ」


 アリスは二列目中央の席に陣取り、隣を指でトントンと突いた。俺を見すえる目を無視して隣に腰を下ろす。


「ねえ、裕司の事もっと知りたいんだけど」


 今度は背後がざわめき立った。そこまで聞き耳たてなくてもいいだろうに。


「いいけど。なんで俺?」

「だって、日本に来て、あなたみたいな人は初めてだもの。あ、授業、始まるわね。話はあとで、ゆっくり、ね」

「あ、ああ」


 教壇へ足を進める太っちょの先生を見つけたアリスはノートを広げ、姿勢を正した。こんな目立った席でサボるわけにもいかず、同じようにノートを開く。奇麗な日本語が整列しているアリスのとは違い、俺のはまっさらだった。

 では前回の続きから、と先生は大きな体を揺すりながら勢いよくチョークを走らせる。いきなりのハイペースに閉口したいが、横目でアリスをうかがうと涼しい顔でペンを動かしていた。

 外人でもできるんだ。生粋の日本人が負けてられるか。そう思えたのは最初の30分だけ。必死に追いかけているが差は広がるばかり。終了10分前、書いている途中のところを消された時、俺は戦いを放棄した。


 授業後、談話室でぐったりしている俺を見て、アリスは理解できないと腕を組んだ。


「なんで、そんなに疲れているの?」

「懸命にノートを取っていたから。それでも最後は取り切れなかったし」

「私の写させてあげるわ。あと……」


 アリスは辺りを見回し顔を近づけてきた。思わぬ急接近に身を強張らせたが、ささやかれた内容で緊張が解ける。


「取り切れないなら魔法を使えばいいじゃない。機械を操作できる繊細さがあるなら、ペンを操るぐらい簡単でしょ?」


 ああ、なるほど。魔法を知られてはいけない設定か。それに合わせて俺も小声で、かつ、真面目な顔を作る。まるで映画の主人公になった気分だ。


「もちろん。しかし俺の力は強すぎる。世界に影響を与えないためにも私欲に使うべきではない」

「そう……ね。軽率だったわ」


 アリスは顎に手を当てて少し考えてから、うなずいた。


「そう、俺たちに求められているのは慎重さ、だ。ところで、俺は今日、他に授業ないんだけど、アリスは?」

「私も今日はさっきのだけ。そうだ! ちょっと付き合ってくれる? 友達の誕生日プレゼントを選びたいんだけど、日本の事情は詳しくなくて」

「ターミナル駅なら大体そろっているし行ってみようか? ここからだと地下鉄で行く事になるけど」

「ありがとう。頼りにしてるわ」


 アリスを連れ立って外に出ると少し風があって寒い。コーチジャケットの前を合わせてファスナーを目いっぱい上げた。


「裕司は寒がりね」

「アリスだって……寒くないのか?」


 風通りが良さそうなアランニットなのに平然としていた。アリスが言うには、故郷はもっと寒いそうだ。だからこのぐらい何でもないと。


「そんな土地の出身なんだ。俺は暖かい所で育ったから想像もつかないな」

「寒さはここと変わらないわ。ただ、日本みたいにエアコンはないし、蛇口をひねってお湯が出る事もない。そんな国よ」


 それが普通みたいに話しているが、それこそ想像もつかない。下手な事を言わないよう、口を閉ざして黙々と足を動かした。

 そんな俺などお構いなしにニコニコしながらアリスは次から次へと話題を変える。まあ、彼女が楽しいならそれでいい。俺は歩みに合わせて隣を進むだけだ。なるべく明るい返しを心掛けて。


 地下鉄への近道である生活道路を進む途中、前から大荷物を運ぶ作業着の一団が現れた。迷惑かけてすみません、と頭を下げる代表者らしき男に会釈し、ブロック塀を背に、やり過ごしていると、彼らの運ぶ物にアリスが興味を示した。


「あれは何?」

「木、だな」

「それはわかるわ。偽物の大きな木をどうするのかって言いたいの」

「ああ、クリスマスツリーにするんじゃないか?」


 首をかしげるアリスに聞いてみると、日本に来て10年ほどだけど、今まで引きこもっていて日本の分化にはうといらしい。今までプレゼントを贈りあった事はないと肩をすくめていた。


「なんか寂しいな」

「仕方ないわ。日本ほど恵まれていないし。ねえ、クリスマスって何をするの? これもそう?」


 彼女の差し出したスマホには近くにある湾口水族館のサイトが表示されていた。それによると花火を上げるクリスマスイベントがあるらしい。


「一応。興味ある?」

「そうね。水族館も行った事ないし。そうだ! 裕司、一緒に行かない?」

「俺で良ければ?」

「なんで疑問形なのよ。疑問形? 使い方あってる? 花火って近くで上がるの? 遠くからなら――」


 電線で翼を休めていたスズメが一斉に飛び立った。

 どうかしたのか? アリスは宙を見つめながら……違うな、どこも見ていない。何か聞こえているようにも見えるが俺には何も聞こえない。耳に入ってくるのは、のどかな生活音だけだ。


「今、裕司は何も感じなかった?」

「何も」

「そうか、裕司がそう言うなら気のせいかも。それより水族館、約束だからね。楽しみ!」


 目を細めて白い歯を見せているアリスに釣られて俺も頬が緩んだ。

 クリスマスにアリスと水族館か。ショーを見て、幻想的な館内を回り、二人並んで花火を見上げる。まるでデートみたいだ。いや、デートなのか?

 ……デート……なのか。

 そう思うと寒さが和らいだ気がした。決して俺の顔が熱を持ったわけでは、ない。

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