②
***
「ええっ、エリオット様がいらっしゃる⁉」
メアリー様が大声を上げた。
娘の頓狂な声に、御父上であるウィンセンブルク伯爵は顔をしかめる。
朝食後、書斎に来るように、と呼び出されたメアリー様は嫌な予感がしたらしい。私一人だけを伴って伯爵の部屋に入った。
そこで聞かされたのは、婚約者であるエリオット様がこちらに訪ねていらっしゃるとのことだった。――それも、今日!
「急すぎますわ! そんな……。急にこちらに帰っていらっしゃるなんて……」
「昨日のうちに伝令を出していたそうなのだが、悪天候のせいで連絡が遅れたそうなのだ。数日この屋敷に滞在されたあと、またリンデンに戻られる。……くれぐれも失礼のないように」
このウィンセンブルク家より、エリオット様の家の方が格上だ。
朝から使用人たちは大わらわだった。この部屋を出たら、メアリー様の身支度も入念に整えなくてはならない。
ただでさえ好意のない相手なのに、自分の予定を乱されたメアリー様は唇を尖らせていた。エリオット様が滞在されるなら、アイザック様との逢瀬はしばらく無しだ。
そんな態度を見抜いた伯爵は冷たい声を出した。
「メアリー。あの男とは別れなさい。分かっているな?」
「……あの男? なんのお話ですか、お父様」
「とぼけなくても分かっている。お前がこそこそと男と会っていると言うことは知っているぞ。子どものままごとだと思って放っていたが、お前はエリオット様に嫁ぐ身。今後、エリオット様以外の男と会うことは禁ずる」
「……っ!」
メアリー様は唇を噛みしめた。
しかし、何の話だととぼけた手前、表立って反論することはせず、踵を返して部屋を出ていく。私も慌てて伯爵に一礼して後を追いかけた。
(伯爵がおっしゃるとおりだわ。婚約者がいるのに別の男性と会っているなんて、エリオット様の耳に入ったら大変だもの……)
だけど、ほんの少しだけ、私はメアリー様に同情してしまった。
「……ままごとなんかじゃないわ」
怒ったようにずんずん歩くメアリー様の後ろを、私は黙って追いかける。
好きでもない相手に嫁がなくてはならないメアリー様。
好きなのに想いを伝えることすら叶わない私。
どちらも不幸で、どちらもかなしい。
*
メアリー様は……さすが、貴族の令嬢だった。
いつまでもぐずぐずと文句を言わず、ドレスに袖を通し、鏡の前に立つ頃には優雅な微笑みを浮かべて武装していた。それが彼女の務めだからだ。
(……私も気持ちを切り替えなくちゃ)
これからお会いする相手は、メアリー様の夫になる相手。
あの手紙のように細やかで、優しい青年なのだろうか。春の訪れのように柔らかな声を想像してしまう。だめだと分かっているのに、どんなお相手なのだろうかと胸を膨らませてしまう。頭を振ってそんな妄想を打ち消した。
午後。
従者や使用人たちを伴って現れたエリオット様は――とても、眩しい人だった。
ブロンズの髪に、湖のように澄んだ瞳。
明るい笑顔を浮かべ、さっとメアリー様の前にひざまづいてみせたのだ。芝居がかった仕草で手の甲に口づけを落とせば、メアリー様は真っ赤になる。
「ああ、メアリー! こんなに美しくなっていて驚いたよ! 元気にしていた?」
「えっ、ええ……。エリオット様もご立派になられて……」
「本当? そう見えているなら嬉しいな」
そう言ってメアリー様を軽く抱きしめる。
突如現れた見目麗しい婚約者にメアリー様は真っ赤になっていた。
「照れているの? 可愛いね」
「ま、まあっ、子ども扱いしないでくださいませ」
エリオット様に微笑まれたメアリー様はツンとした態度を取ってみせた後、潤んだ瞳で婚約者を見上げて笑う。
恋をしている顔だ。
十年ぶりにあった婚約者が素敵な男性で嬉しい、とその表情が物語っている。演技ではないだろう。
服装も所作も都会から帰ってきて洗練されているエリオット様に比べると、アイザック様はさぞかし野暮ったく見えるに違いない。私はアイザック様に密かに同情してしまった。
(エリオット様……。とても素敵な方だわ。でも、なんとなく手紙とはイメージが違うかも……)
勝手に穏やかな男性をイメージしていたが、ダンスでも踊っているかのようにメアリー様をぐいぐいリードしていく姿はちょっぴり軽薄そうにも見える。
(……なんて、所詮は私の幻想だったってことよね)
がっかりしたなんて、結局は負け惜しみにしかならない。
これで良かったのだ。
私が恋をしたのは、手紙の中のエリオット様。実際のエリオット様がどんな方だって結ばれることなんてありえないのだから、想像とかけ離れていてくれたほうが諦めもつく。
挨拶を終え、昼食を召し上がられたエリオット様は、メアリー様の案内でこの辺りを見て回りたいと申し出た。
とはいえ、この寒さだ。デートに相応しい庭園や森林浴ができそうな場所はおすすめできない。馬車で辺りを回るだけでもじゅうぶんだよ、とエリオット様は笑った。
「あ……でしたら、教会はいかがでしょう。エインズレイ氏が設計したと言われていて、内観がとても近代的だと評判ですわ」
私は控えめに提案してみた。
以前、エリオット様は名建築家ドーキンス氏の橋を見に行き、大変感銘を受けたと手紙に書いてあった。エインズレイ氏はドーキンス氏の教えを受けた弟子だ。エリオット様が建築に興味があるようだったので、恥ずかしながら私も少し勉強したのだ。
「エインズレイ? 有名な人?」
小首を傾げるエリオット様に、
「ケイトったら物知りね」
いきなり何を言い出すのかとこちらを見るメアリー様。私は頬を赤らめた。
(馬鹿ね。エリオット様は外交でいろんなところを見ておられるのよ。いちいち建築家の名前なんて覚えていないかもしれないわ)
その時、エリオット様の耳元で従者の一人がそっと耳打ちした。
黒髪の物静かな青年だ。馬車の手配が済んだらしい。
「ケイト」
私はメアリー様に手招きされる。
ついてくるようにと指示されるのかと思ったが、それは勘違いだった。
「……ねえ、いつもの時間にアイザックがやってくるかもしれないわ。悪いけれど、ここへはもう来ないでって伝えておいてくれる?」
「え?」
「だって、私にはエリオット様がいるもの。お父様の言う通り、やっぱりもうアイザックとは会っちゃいけないわ」
メアリー様の言うことはもっともだ。
しかし、魅力的なエリオット様にあった途端、あっさりアイザック様を捨ててしまうかのようでもやもやしてしまう。
そんな私の表情を見たメアリー様は苦笑した。
「なあに、その顔。……アイザックだって婚約者がいるのよ?」
――そう。
二人とも婚約者がいて、何食わぬ顔で結婚していくのだ。一時の恋なんてなかったことにして。
「メアリー、どうかした?」
「ううん。何でもないわ、エリオット様!」
メアリー様は甘えるようにエリオット様の元に駆け寄り、腕に絡みつく。
馬車に乗り込んだ二人を見送る。扉が閉まるか閉まらないかのところで、エリオット様がメアリー様を抱きしめる様子がちらりと見えてしまった。……お出かけは口実で、彼らは二人っきりになりたかったのだ。行き先なんてどこでもいいに違いなく、馬車の中は甘い空気でいっぱいだろう。付いてこいと言われないことに心底ほっとした。
私は屋敷に残り、気鬱な任務をこなさなければならない。
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