優しい人

澄田ゆきこ

 付き合ってほしいと言ったのも、別れようと言ったのも、私のほうからだった。

 同期の男だった。真面目で寡黙で、よく言えば誠実そうな、悪く言えば面白みのなさそうな、だけど瞳の奥に優しい色のある人だった。誰もやりたがらない名前のない雑事を、朝早く来て、ひっそり片付けているような。誰もいないところでも、愚直に赤信号を守ってしまうような。

 付き合ってほしい、と私が言った時、彼は少しだけ驚いて、それから「俺でいいなら」と静かに答えた。彼は言葉数こそ多くなかったが、一緒にいることは心安かった。クズ男ばかりを好きになる友達に写真を見せた時、「えー、つまんなそう」と苦笑いをされた通り、彼はどこまでも型通りで普通で、だからこそ安定していた。浮気をすることも、お金をたかることも、殴ってくることもない。依存して束縛してくるようなこともない。その代わり、嵐みたいな激しい感情も向けられない。

 甘えもわがままも受け入れてもらえて、私は不満を吐く資格なんかないはずだった。ささやかで細やかな優しさはいつも感じている。彼は彼なりにまっすぐ私と向かい合ってくれている。デートに誘うのも、自発的なスキンシップも、好きだという言葉を吐くのも、私の方がずっと多かったけれど。

 彼は優しい。だから、私と付き合ってくれている。たいして好きでもないのに。そう自覚してしまったとたん、ぼろぼろと涙が出てきて、一番欲しい言葉だけは絶対にくれない彼を恨めしく思ってしまった。一度坂を転がり出すと、止まらなかった。私の話に短い相槌しかうってくれないのも、やめてほしいとさりげなく言っている煙草をいつまでもやめてくれないのも、LINEの返事が遅いのも、些細なことだからこそ私の心を苛んだ。

 試しに誘ってみるのをやめてみたら、会う機会はぱたりと減った。仕事に忙殺されていることは知っていた。寂しいと駄々をこねられるほど若くもなかった。私が呑み込めばいいだけだ、と言い聞かせているうちに、心のどこかがどんどん凍っていくような感じがした。

「別れましょう」

 その電話をしたのは突然だった。驚いたような沈黙と、熟考のあと、彼は告白した時みたいに静かな声で、「わかった」と言った。

 そういうところよ、と思わず口から零れ出ていた。これが彼にとってどれだけ理不尽な言葉なのかは、言われるまでもなかった。私はどこまでも大人げなかった。ふったのは私のはずなのに、なぜだか、ふられたみたいに心臓が痛かった。


 半年も経てば傷も癒え、彼への未練も、傷つけたことへの後ろめたさも、いつしかからからに乾いていた。出会いのなさに心がささくれて、いい人だったなとは思うけれど、今更連絡をとるなんてこともできない諦めに浸っていた。そんな折。

 思わぬところで彼を見かけた。

 友達に誘われて見に行ったライブで、彼はギターをもってステージの上に立っていた。ボーカルの男のほうに、にやりとした目配せ。何かに夢中になっているときの、自然と口角が上がっているような、真剣で楽しそうな顔。彼にそんな趣味があったことも、彼がそんな顔をできることも、初めて知った。その瞬間、枯れていたはずの私の心に、どばっ、と感情が溢れて、泣きそうな気持ちになった。

 彼の顔つきは少しばかり凛々しくなっていた。その中に半年間の年月を思った。都合がよすぎることは自分でもわかっていながら、私はやっぱり、この人を手放したくなかった。流されて断れないことと優しさが表裏一体だった、どこまでも不器用に善人だったこの人のことが、私は想像よりずっと好きだったらしかった。

 ライブ後、私に呼び出された彼は、戸惑いと驚きを隠せていなかった。気まずい沈黙の中で口火を切るのはやっぱり私のほうだった。

「ギターなんてできたんだね。知らなかった」

「ああ……話してなかったか」

 歯切れの悪い返事。会話が途切れると、手持無沙汰に煙草を出そうとするのも相変わらず。男くささと苦さが混ざったにおいが、たまらなく懐かしかった。

「あの時あんまり急にふっちゃったの、すごく、申し訳ないと思ってる」

 俺も、悪かった、なんてぽつぽつと言葉が返る。どこまでも感情的にならないのが、本当に、心底彼らしかった。

「だからさ、私たち……」

 そこから先は、声にならなかった。言っていることも、こんな時まで察させようとする自分も、ここでもやっぱり彼の優しさに期待していて、何重にも図々しかった。

「ごめん」

 彼ははっきりと言った。「いろいろ考えたんだ、あの後」いっそ責めてくれれば楽なのに、彼は悲しそうな眼のまま、かすかにはにかんだ。意志もなく、ただ傷つけないためだけの優しさで拒絶をしなかった彼は、もはやそこにはいなかった。

 この時彼は、はじめて、私に本心で向かい合ったのかもしれなかった。うん、と頷いた私の声は泣き笑いになっていた。ごめん、と念を押すように彼が言った。私はとても苦しくて、なのになぜだかほんの少しだけ嬉しくて、だけどやっぱり、泣きたくなるほど悲しかった。


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