愛の成分表
佐武ろく
愛の成分表1
部屋中に響き渡る甘く淫らで欲に満ちた声、肌と肌が何度もぶつかり合う音。
ベッドに寝転がる俺が顔を横へ向ければそこには少し日焼けの足りない背中。ベッド際に座る少し丸まった真っ白な翼が似合いそうな背中。長い髪は前にやり一糸纏わぬその背中を眺めているとオイルライターの蓋を開ける音と火を点ける音が聞こえた。そしてゆっくりと息を吐く音の後に白い煙が天に昇る。上を目指し上がっていく煙はすぐに儚く消えて無くなった。そんな煙から再び彼女へ視線を戻した俺は背中へ手を伸ばす。ただ何となく届くかな?と思って伸ばした手。だが俺の手はギリギリのところで止まった。もし昨日爪を切らなければ届いてたかも。それ程の距離。すると気配でも感じ取ったのか煙草を咥えた彼女が振り返った。
「ん?なに?」
少し低めの声でそう訊きながら視線は俺の手へ。吸い込んだ煙を一度吐き笑みを浮かべた。その笑みはあまり良いものではなくまるで俺の考えを見透かしたようなそんな笑み。そして笑みと煙草を片手に依然伸ばしたままの俺の腕を四つん這いで跨ぎ顔を覗きこんできた。
「なに?まだシ足りないの?」
彼女の声と共に煙草の匂いが鼻を訪問する。普段煙草を吸わない俺からすれば少し苦手な匂いだ。
「くさい」
顔を逸らしながら一言。言ったのはいいもののすぐに彼女の手が顔を掴み自分の方へ向かせた。彼女はわざとらしく眉間に皺を寄せている。
「失礼な奴」
少し顔を横に振りながらそう言うと顔を近づけてきた。そしてそのまま唇が重なり合う。更に半ば無理やり舌が口の中に入り込んできた。意思を持った生き物のように動く舌と共に煙草の味が口に広がる。そんな気がした。無理やり顔を逸らし止めさせようかと思った丁度その時、彼女は顔を掴んだ手と一緒に顔から離れる。
「傷つけたバツ」
そのまま体を起こし胡坐をかきながら彼女は煙草を咥えた。
「別に傷ついてないでしょ」
「まぁね。でもちゃんと気を使ってあんたとヤる前は吸わないようにしてるってことは覚えておいてほしいけど?」
「でもそしたらキスしなきゃいいだけだけど」
するとイラっとでもきたのか俺の頬を彼女の細く長い手の甲が叩いた。ペチッという綺麗な音を鳴らすが軽くだから痛みはない。
「明日仕事でしょ?」
「ぅん」
唸るような声で返事をする。
「どうすんの?帰る?」
「んー。何か疲れてるし泊ってこうかな」
「ならあたしもそうしよ」
そして彼女の煙草を吸う音を聞きながら目を閉じるとあっという間に眠りに落ちた。
「おい!九条!」
呆れの混じった怒鳴り声と共に俺の頭上には丸められた何かが振り下ろされた。幸いにもそこまで強く振り下ろされたわけでも硬い物でもなかったため痛みは無いが顔を出した睡魔を引っ込めるには十分な衝撃。
「仕事中に寝るんじゃない」
「すみません」
俺を叱った部長はそのまま自分の席へ戻って行き代わりに隣の雅紀が椅子ごと近づいて来た。
「珍しいな。昨日夜更かしでもしたのか?」
「まぁあ」
「で?一体何してたんだ?」
疑うようなおちょくるような視線を向ける雅紀。
「ハーフハウス見てた」
「だぁー!お前もついに手を出してしまったか...。頑張れ先は長いぞ。なんてたって8シーズンもある上にー。続編もあるんだからな」
「ちょっとコーヒー飲んでくるわ」
「おう!いってら」
仕事と気分転換のために給湯室へ向かいコーヒーを1杯入れる。それを片手に少し台にもたれながらスマホを取り出した。画面をつけるとLINEメッセージが1件。相手は夏希さん。
『今夜大丈夫?』
彼女と会うのも久しぶりか。西川夏希。そこまで有名ではないがそれで飯を食べてる画家。彼女とはどれぐらいかは忘れたが数年前に展示会で出会った。まぁ色々あって今では彼女と俺の関係は、セフレ。
『分かった。仕事が終わったら連絡する』
返信を済ませると部長に怒られれる前にスマホをしまい仕事へ戻る。そしてその日の夜。俺らは約束通りホテルで会った。
「ふぅー」
夏希さんは終わった後、必ず煙草を吸う。それがルーティン。それは今日とて例外なくベッドボードに背を預け白い煙をゆっくり吐き出していた。そして寝転がりながらその音を聞き時折視界に入ってくる煙を眺めていた俺はふと顔を横に向ける。真横には夏希さんの脚が伸びていた。相変わらず日焼けの足りない肌。だがそのスラッと伸びた脚は美脚なのかもしれない。
「夏希さんって脚綺麗ですよね」
「そう?」
その声と一緒に足が少し上がる。
「少し細いけど」
「それは認める。そういう君は結構いい体格してるよね」
「まぁそれなりには鍛えてるんで」
「へー。筋トレ好きなの?」
「いや。そういう訳じゃないけど。一応気分転換と健康のために」
「そういうの考えるんだ。意外」
「夏希さんは運動とかしなさそうだし不健康そうな食生活してそう。かな」
「失礼な奴。って言いたいけど間違いじゃないから許そう。というかいつまでさん付けで呼んでるの?」
「まぁこの方が慣れてるししっくりくると言うか。それに夏希さんの方が年上だし」
「はっはーん。何年下ヅラしてくれてんのかな?たった1歳しか変わらないくせに」
「残念ながら1歳でも年下は年下なんで」
「うっざ。ヤってる時は呼び捨てにするくせんに」
「それは呼び捨ての方がいいって言うから」
「じゃー普段も呼び捨てがいーなー」
「遠慮します」
言い終わるが先か夏希さんの上がった足が俺の上に落ちてきた。
「そう言えば作品できたの?」
「まー。ぼちぼち」
「なにそれ?」
「完成して悪くはないけど何となく納得いかないって感じ。何が納得いかないのかは分からないけど」
「ふーん」
俺は芸術家じゃないしその感覚はよく分からない。けどそういうこともあるんだろうなぐらいには思う。
「そういや今日泊ってく?」
「自分の家じゃないんだから。でも今日は帰る」
「りょーかい」
それから家に帰った俺は海外ドラマ『ハーフハウス』の続きを見てから寝た。雅紀も言ってたけど最近は続きが気になって少し睡眠が足りてない。そして夏希さんと最後に会ってから2週間とちょっと。今日も恒例の如く寝不足で仕事を終えた。
「翔太ー。今日飲みにいかね?」
「んー。今日は止めとこうかな」
「おっけー。気になんのは分かるけどあんま睡眠削り過ぎんなよ」
「分かってる」
雅紀らと分れた俺は1人帰路につく。電車に揺られながら焼けた空を見ていると誘いを断ったものの何だか飲みたくなってきた。そう思うと折角だしと降りたことのない駅で降り灼熱の中を歩き知らない店にふらりと入った。適当に入ったつもりだったが以外にも混みあっておりもしかしたらと頭を過る。
「いらっしゃいませ。申し訳ありません。ただ今満席でして...」
待つぐらいなら他の店に。そう考えていたら。
「あれ?翔太じゃん」
聞き覚えのある声は店員の向こう側から聞こえ俺と店員はほぼ同時にその方向を向いた。そこに立っていたのは夏希さん。ラフな格好で個室の戸を開けようとしていた。
「1人?」
「うん」
「じゃあ一緒に飲もうよ」
そして俺は既に食べかけの料理が並んだ個室に入った。彼女とは反対側に座りおしぼりを持ってきた店員さんにハイボールと適当に料理を注文。先に来たハイボールを飲みながら食べかけではあるが料理を少しもらった。
「職場ここら辺なの?」
「いや。少し駅を過ぎたとこ」
「じゃあ家?」
「それも逆に少しいったとこ」
「じゃあ何してんの?」
「帰ろうと思ったんだけど急に飲みたくなったから。折角だし行ったことないとこ行こうと思って。そっちは?」
「まぁ似た感じかな。適当に電車乗って適当に降りて適当な店に入ったって感じ」
それからも飲みながら食べてなんてことない話をしていた。
「とにかくアレはいい作品だったの。なのに。はぁー、分かってない」
最近思うことがある。
「自分のミスなのに部下に押し付けて尻拭いさせるなんて最悪過ぎる。なんであんなのが上司なんだろう」
夏希さんと最初の頃に比べて気軽にご飯とか行くようになって。
「あんなスゴイ絵を描けるなんて。天才」
お互いの事はあんまり知らないけど、知らないからこそ愚痴とか相談とかし易くてついつい色々話してしまう。
「部下だけどちゃんと仕事できるし気が利くし一緒に仕事してて楽しいんだよね」
それは多分彼女もそうなのかよく愚痴を零すようになった。
「でもあの絵はない」
彼女の前だと変に飾らず自然で思ったことを言える。気がする。
「あの企画はちょっと...」
適当に入ったお店だったけど料理は美味しくて結構当たりだった。そんな料理のおかげでお酒も進みそれにつれて普段あまり人には言わないこととかを気が緩んで愚痴ったりした。互いに。
「ありがとうございましたー」
お店を出る頃にはほろ酔いより少し酔ったぐらい。元々お酒強い方だしいつも人前ではそこまで酔わないようにしてる俺からすれば大分飲んだ方。
「おっ!灰皿あるじゃん。1本いい?」
「どうぞ」
お店前にあった灰皿の前まで行くと夏希さんはポケットから煙草の箱を取り出しそこから少し飛び出させた1本の煙草を直接咥えた。そしてライターを取り出すと火を。点けるのを止め煙草を箱に戻し更にポケットに戻す。
「吸わないの?」
その問いかけに対して夏希さんは少し背伸びをして片手を俺の首に回すと引き寄せながら唇を重ね合わせた。そして数秒舌を絡ませるとゆっくりと顔を離す。
「もしかして君はそういう気分じゃない?」
最近思うことがある。夏希さんとシてる時、夏希さんとご飯を食べてる時、夏希さんと会ってる時以外で頭に彼女が浮かんでくることが多い。ドラマや映画を見ている時や。夏希さんはこういう映画とかドラマを見るんだろうか?どんなジャンルが好きなのか?美味しい物やお酒を飲んで食べた時。夏希さんも美味しいっていうだろうか?彼女は普段絵を描いてない時は何をしているんだろうか?正直、彼女については知らない事の方が多い。それはあっちからしても同じだが。互いの欲を満たすための関係な俺たちにとって相手がどんな人かなんてさほど重要じゃなかったしもしかしたら興味もなかったのかも。じゃあ今は?興味があるかと問われれば素直にyesとは答えられない。かといってnoとも言えないし。まぁよく分からないかな。そんな詮索するほど知りたい訳じゃないけど聞きたくないっていうほど興味ないわけじゃない。もしかしたらどっちともとれない微妙な感じだから意外と考えてしまうだけかもしれない。だからそんな疑問もそこまで引きずらずにすぐ忘れる。それからそんな日々を送ったある日。この日は上手く有休を使って連休を作った初日。午前中は目一杯寝てやった。本当はもう少し寝てたかったけど着信がそれを阻む。俺を寒さから守ってくれてる羽毛布団から手を出すとそこは凍てつく世界。すぐに引っ込めたかったけど我慢し拷問のように冷たい中スマホを探す。
「もしもし?」
「あっ。今大丈夫?」
少し申し訳なさそうにそう尋ねてきたのは夏希さんだった。
「ぅん」
「もしかして寝てた?」
「ぅん」
「ていうことは今日休みか」
「そうだけど?」
「休日に悪いけどお願いがあって。いい?」
「内容次第かな」
「だよね。君って確か運転できたよね?」
「車はないけど免許はあるよ」
「じゃあさ...」
特に予定もなかったしそのお願いを引き受けた。そして渋々ベッドから出て時間通りに待ち合わせ場所へ。
「おまたせ」
俺が着いてからほんの数分後に来た夏希さんはいつものラフな格好じゃなくてちゃんとした格好をしていた。髪をお団子にしメイクもしっかりしたその大人っぽい姿は新鮮で自分ももう少しちゃんとした服装にすればよかったかなと思わせる。
「もしかして結構待った?」
「え?あっ、いや。ついさっき来たとこ」
「なら良かった。どした?」
「いや。いつもと違うから。なんか...」
「あー。午前中に知り合いの個展行ってたからちゃんとした格好をね。どう?」
夏希さんは少し手を広げ1回転して見せた。
「すごくいいと、思います。綺麗だしカッコいい感じもあって」
「ありがと。それじゃ行こっか」
電話でされたお願いというのは買い物に付き合ってほしいというものだった。だけど服とかアクセサリーとかそういうのじゃなくて画材。夏希さんの仕事道具の買い物。生憎俺は車を持ってないからレンタカーを借りた。そして夏希さんと一緒に何軒か回りつつ寄り道もして無事買い物を終えた。最初は車が必要な程なのかと思ったが実際に終えてみると確かにこれは必要な量だと納得するものだった。どうやら最近から彫刻も練習し始めたらしくその材料もあったから余計に量があったらしい。そして大量の材料を乗せた車は彼女の仕事場所謂アトリエに向かう。少し山道を進んだところにそのアトリエはあった。木に囲まれ夕日がまばらに差込むその場所は静かでいかにもアトリエっぽい。
「画家ってこんなに稼げるんですか?」
車から降りると少し古いが立派なその建物を見上げながら呟くように尋ねた。
「少なくともあたしレベルじゃこれを買う程は稼げないかな」
「じゃあここは?」
「オーナーさんが知り合いで特別価格で貸してもらってるの。ちゃんとした作品を創る時はここに籠るって感じ」
「なるほど」
芸術家っぽい。そう浅い感想を抱きながら荷物を中へ運ぶ。中はペンションに来たような感じで広々としたリビングとキッチンがありリビングには暖炉と外にちょっとしたテラスもあった。そんなリビングを挟むように仕事部屋とお風呂、二階に寝室があるらしく普通に住み心地がよさそう。全部の荷物を一旦リビングへ運び終えたところでインターホンが鳴った。
「あれ?誰だろ?」
普段は人が来なさそうだか誰なんだろう。そう思いながらその場に立っていると楽し気な会話と共に夏希さんが戻ってきた。もちろん彼女が独り言を言ってたわけじゃなくその隣には1人の男がいた。年は夏希さんより少し上ぐらいで爽やかな雰囲気の人。
「こっちはさっき話した買い物を手伝ってくれた友人です。そしてこちらの方は画家仲間の高西さん」
夏希さんは初対面の俺らに互いを紹介した。目が合うとお互い軽く頭を下げる。
「それにしてもどうしたんですか?急に?」
「別の用で近くまで来たから夏希ちゃんいるかなって思って覗いたら車があったからさ」
「丁度買い物から帰ったところで」
「レンタカー借りたんだ」
「はい。彼、運転はできるんですけど車は持ってないので」
「言ってくれれば僕が出したのに」
「本当ですか?」
「もちろん夏希ちゃんのためなら。次から遠慮なく言ってくれていいよ」
何だろうこの人って俺の嫌いなタイプなのか。少し苛立ちを覚えてしまう。別に何かされたわけじゃないけどなぜだろうか。
「ありがとうございます」
「それで。これからどうする予定?」
確かにそれは俺も知らない。
「えーっと。とりあえず」
夏希さんはそう言いながら俺の方を見た。
「彼の絵を描こうと思います。結構いい体格してるから前からモデルとして描いて見たかったんですよね。いい?」
それは初耳だが別に断る理由はない。
「まぁ別にいいけど」
「じゃあ決まりね」
「それじゃあ僕も見ていっていいかな?」
「もちろん。いいですよ」
この人も残るのかそう思うと心の中でため息を零した。だけど表情には出さないよう無表情を保つ。これぞ社会人で学んだ営業スマイル。無表情だけど。そうと決まるとまず荷物を全て仕事部屋に運び入れた。
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