棋譜には人の全てがある

水池亘

棋譜には人の全てがある

 いつか、全力の彼女と指したい。

 それだけが僕の全てだった。


   *


 バーの片隅でウイスキーの氷を眺めていると、唐突に肩を叩かれた。

「よう、今日は負けたのか?」

「いや、勝った」

「ならもっと嬉しそうな顔しろよ」

 三上は呆れたように言って、隣の席に腰掛けた。片手を上げ、濃いめのハイボールを注文する。

「調子はどうだ?」

「いつも通りだよ。六割勝って、四割負けてる」

「そうじゃねえ。気分がどうか訊いてんだよ」

「変わらないさ、それも」

「そんな風には見えねぇがな」

 口にして、差し出された黄色い液体をあおる。

「最近のお前には覇気が見えねぇ。高校の頃は目つきが違った。勝ちを求めて毎日貪欲にさまよってた。そもそも俺のAIに食いついたのだって、将棋で勝つためじゃねえか」

 その言葉に僕はしばし無言を返す。

「……最近、どうでもいいんだ。勝っても負けても」

「ならもう潮時だな。さっさと辞めたほうがいい」

「無理だよ。将棋以外何も知らないし、興味もない」

 生涯将棋のことだけを考えて生きてきた人間に将棋以外の価値を認めるほど世間は甘くない。甘くないと思う。

「その将棋に飽きたんじゃ、しんどいだけだろが」

「仕事だからね。仕方ないさ」

「本気でそう割り切れるならそれでいい。だがそれはプライベートが充実してこその話だ。何か遊びのひとつでも見つけてねぇのか?」

「ない」

「全く?」

「ああ」

「なら他はどうだ? メシとか、あと女とか」

 その言葉に僕は一瞬、言葉が詰まる。詰まってから、しまったと思った。

「なるほど、女がいるのか」

「いないよ。特に興味もない」

「お前の嘘はわかりやすんだよ」

 まるで幼なじみかのように見透かしたことを言う。まだ会って十年も経っていないだろうと突っ込んでやりたいが、そういう空気でもなさそうだった。

「……女性には、興味ないよ。それは嘘じゃない」

「なら何か隠してるな。そうだろ?」

 僕は黙りこくる。からんとウイスキーの氷が割れた。そういえば僕はこの液体にまだひと口も口をつけていない。そもそも酒なんてろくに飲めやしないのに、どうして僕はウイスキーのロックなんて頼んだのだろう。

「……なあ、三上」

 僕は半自動的に口を開いた。

「都築仄(つづきほのか)って、知ってるか?」


   *


 小さな頃のことなのに、よく覚えている。

 アスファルトの真ん中に僕はいた。泣いていた。親の目を盗んで外に出た結果、何もかもわからなくなってしまったのだ。全てから見放されたような気持ちで僕はただ座り込んでいた。

「おい、きみ」

 少し高い声がして、振り返ると制服姿の少女が立っていた。細い体に、黒い髪がすらりと長く伸びていた。

「何故泣いている? 迷子か?」

 幼児に向けるようなトーンの言葉ではなかった。僕はぽかんとして彼女の顔を見上げた。凜々しく整った顔立ちが僕をじっと見下ろしていた。

「まあいい。そこは危ない、こちらへ来い」

 彼女は僕の手を掴み、ぐいと引っ張った。なすがままに引きずられていくとすぐに大きな一軒家にたどり着いた。

「入れ」

 飾り気のない一室に放り込まれた僕は、中央付近に据え置かれた大きな茶色の箱のようなものを見た。太い四つの足が生えていて、上面には多数の升目が刻まれていた。

「将棋について知っているか」

 僕は首を横に振る。言葉の響きは聞いたことがある。でもたぶん、それは「知っている」ことにはならない。

「なら教えてやろう」

 彼女は小さな箱を手に持ち、蓋を開け、中身をひっくり返した。じゃらじゃらと小気味良い音とともに、不思議な形をした小さく平たいものが沢山流れ出た。そのひとつを、彼女はつまみ上げて僕に差し出した。流れるような美しい所作だった。

「さあ、指そう」

 そしてようやく、彼女はふっと微笑んだ。


 それからの経緯は記憶にないが、結論だけ言うと、僕は毎日彼女の元に通って将棋を教わることになった。当時は何も考えずただ楽しんでいただけだったけれど、後から考えると彼女はその頃奨励会でプロを目指していたのだから、僕に関わる余裕など全くないはずだった。彼女の真意はよくわからなかったし、今もわからない。ただ彼女が自分の持てる力の全てを真剣に僕に叩き込んでくれようとした事実だけが宙に浮かんでいる。

 僕の成長は目覚ましかった。小学三年生を過ぎる頃には、どの大会でもほとんど負けなくなった。おそらく僕には才能があった。将棋指しとしてこの世を生き抜けるだけの力があった。ただそれは、今になって客観的に見ればこそ言える話であって、僕の実感とは全くかけ離れていた。僕は自分が天才だとか将棋が強いだとか思ったことは一度もない。僕は誰よりも間近で都築仄の将棋を見てきた。体感してきた。本当の才能とはどういうものなのか、僕は十全に知っている。そこにはあまりにも豊かな創造性の煌めきがある。僕にはない。それだけでもう答えは出ていた。

 都築と僕は数え切れないくらいの局を指した。少なくとも千は超えている。その内容の全てを、僕は棋譜に残して保存した。例えばその一枚を引っ張り出してくれば、そこに記された全ての差し手と消費時間が、彼女の実態を僕に教えてくれる。なぜこの序盤で彼女は飛車を走らせたか、なぜこの終盤で彼女は金打ちの妙手を見逃したか、僕はすぐに理解できる。棋譜には人の全てがある。指した人物の意思を伝える媒体として、それは僕に寄り添っている。

 対局はほとんど僕が勝った。勝ったことになっている。彼女の投了の言葉を耳にするたび、僕は非常な悔しさを覚えずにはいられなかった。彼女は明らかに本気を出していなかった。対局は指導の一環として行われていて、そこに真剣勝負の空気は欠片も存在しなかった。彼女は勝とうとしていなかった。それを隠そうともしなかった。

 指導が終わると決まって彼女と雑談をした。当然のようにそれは将棋に関する雑談だった。角換わりの最新型について、対振り飛車急戦の有力な仕掛けについて、早口で話す彼女はいつもより少し体温が上がっているように見えた。プロになる行程はあまりにも厳しい。まして女性初のプロ棋士となれば、その道のけわしさは想像すらできない。その中央を全力で走り続ける彼女は、それでも、僕にはどこか楽しそうに見えた。

 僕がただ突っ立っていれば、彼女はいつしかその背中すら見えなくなって、ただ深い断絶だけが間に残る。

 僕は強くなる必要があった。


 やがて彼女は二十二歳になり、ついに恐るべき三段リーグを勝ち抜いた。初の女性プロ棋士として都築仄の名が世間に拡散した頃、僕は初めて目にした数学という概念に四苦八苦していた。

 四月の末日。指導も終了し、通常なら帰りの支度をする時間、僕はおもむろに口を開いた。

「都築さん」

 僕はじっと彼女の顔を見つめた。改めて思うまでもなく、凜々しく透き通った表情をしていた。

「話があるんです、都築さん」

「プロになりたいのか、加賀」

「そうです。次の奨励会試験を受けます」

「そうか。師匠は誰に頼んだ」

「意地悪言わないでください。どうして僕が今まで受験しなかったと思ってるんですか」

 その言葉に、彼女はふっと笑う。

 奨励会に入るには師匠を立てる必要がある。師匠の条件はただ一つ、プロの棋士であること。

「四段の新人が弟子を取るなど聞いたことがないな」

「いいじゃないですか、初めて尽くしで」

「誰がきみの師匠になろうと、私ときみの関係が変わることはない」

「わかってます。でも、そういうことじゃないんです」

「そうか」

 彼女の表情は変わらなかった。何かしら変化があるはずだと僕は思ったけれど、いくら探してもその気配すら感じられなかった。

「加賀、きみは何故プロになりたい」

「強くなるには、それしかないので」

「では何故強くなりたい」

 僕は一瞬、黙った。

「……強くなることに理由が必要ですか」

「強さというものは手段でしかない。その先には達成したいと願う何かが必ずある。きみもそうではないのか」

「……大した理由はないですよ。強くなって、タイトル取ったり、名人になったり、そんな普通のことです」

「嘘だな。きみの嘘はすぐわかる」

 僕は目を逸らした。その先には将棋盤があった。先ほどの指導対局の結末が残されたままになっている。僕は……はたして僕は、いつか彼女と対等に戦うことができるようになるのだろうか。

「すみません」

 僕は少しだけ頭を下げた。

「謝らなくていい。人に話せないことなど誰にでもある」

 重くない口調で彼女は言う。その顔に、ちらりと残念そうな色が見えたような気がしたけれど、それがただの気のせいであることにおそらく僕は気づいていた。


 奨励会を抜けたとき、僕は二十歳になっていた。そのとき都築仄はタイトルを保持するトップ棋士になっていた。差は縮まらず、むしろ広がっている。プロになれた満足感など欠片もなく、僕はただひたすら強さを、勝利を求めた。そうするより他に生き方がなかった。

「もうきみに指導はしない」

 プロ昇段が決まったその日に送られてきたメッセージだ。僕はただ「はい」とだけ返した。あまりにもあたりまえのことだったから感慨のひとつもわかなかった。

 チャンスは予想より速く訪れた。初めて参加した王棋戦、僕は突き抜けるように勝ち進んだ。格上を何人もなぎ倒してトーナメントを駆け上がった。それは滅多に見られぬ新人の快挙だった。周囲からは不思議がる声が聞こえた。他の棋戦では特に目立った活躍はなく、勝率も普通なのに、王棋戦にだけ星が集まっている。当然だ。僕は研究の全てを王棋戦に注ぎ込んでいた。他の棋戦などどうでも良い。ただ王棋戦だけは勝ちたかった。トーナメントの頂上に立ち、タイトル挑戦者になりたかった。そうすれば僕はようやく彼女と対等の場に立てる。タイトル戦という真剣にならざるを得ない舞台で、倒すべき相手として見てもらえる。直視してもらえる。言ってしまえば、そのためだけに僕はプロ棋士の道を選んだのだ。

 挑戦者決定戦に進んでからの一週間はよく覚えていない。自分に考えられる限りの最高の鍛錬をして、最高の研究を用意して、最高のコンディションに体を整えた。これほど将棋に打ち込んだ期間はないと確実に言えた。何がどうなろうとも、この勝負にだけは勝たなければならなかった。そう、たとえそのまま死に絶えるとしても。

 空調の音が鳴る午前十時、僕は「よろしくお願いします」と頭を下げ、そして飛車先の歩を突いた。


 午後七時十七分、僕は静かな声で投了を告げた。

 その翌日、都築仄は交通事故に巻き込まれ死んだ。


   *


 僕が話を切っても、三上は何も言わなかった。ただじっと黙ってカウンターを見つめている。暗い内容がそうさせたのかとも思ったが、どうやら違う。彼の表情は、何か深く考え込んでいるときによく見せるものだった。僕はミックスピザを注文した。それが届くまで彼も僕も一言も発しなかった。

「……おい」

 僕がピザを半分詰め込んだあたりで三上は僕に呼びかけた。

「一切れもらうぞ」

「全部やるよ」

「いらん」

 彼は扇形の生地を持ち上げ、一口か二口という勢いで平らげた。そして僕の方を見て、少し楽しそうに口の端を上げた。

「なあ、『棋譜には人の全てがある』って、それ本当か?」


 まず始めに僕は実家に帰り、自室の押し入れを開けた。棚から取り出した無数の紙の束は今でもまだ白く、差し手もはっきり読み取れた。指導対局の棋譜はこれで全てのはずだ。

 プロ時代の棋譜は元々連盟のデータベースに残っていたから、容易に収集できた。

 問題は奨励会時代の棋譜だった。これは公式に記されるものではないから、残されていない可能性も充分にあった。ただ僕には心当たりがあった。僕が部屋に訪れたとき、たまに彼女が目を通していた紙、あれは棋譜ではなかったか。彼女の性格からしても、自ら記録を取っていた可能性は大いにある。僕は彼女の実家に赴き、事情を話して部屋に入る許可を得た。ほとんど探すまでもなく、それはあっさりと見つかった。机の右、一番下の引き出しの中に無造作に積み上げられていた。いくつか眺めて、僕はじわじわ頭が熱くなるような感慨を覚えた。彼女の差し手は明らかに未熟で隙だらけで、しかし他の誰にも思いつかないような創造の煌めきが確かに宿っていた。才能とはつまりこれのことだと僕は思った。誰も見ることのできない世界の中で彼女はひとり楽しんでいた。

 大学まで棋譜の束を届けに行くと、研究室の隅に転がっていた三上が「よお」と顔を上げた。

「よしよし、こんだけありゃあ、何らかの結果は出るだろう」

「足りるか?」

「足りん。足りんがそこは工夫で何とかする」

 愉快そうに述べる三上の顔を僕はじっと見つめる。

「まあそんな顔すんなって。そもそもが無茶な話なんだから、駄目で元々、できたらハッピー、くらいに構えててくれ」

「期待なんて最初からしてない」

「そう、それでいい」

 三上はにやりと歯を見せる。


 ある棋士の指した棋譜を大量に機械学習すれば、その棋士の差し手を模倣するAIが生まれるのではないか?

 それが三上のアイデアだった。

「本当に人の全てが棋譜に載ってるってんなら、それを集めて丸ごと学習しちまえば、その『人』そのものを復元できる、そう思わねえか?」

 それはあまりにも飛躍した論理のように聞こえた。しかしAI研究に関して彼は天才的な成果を収めていることを僕は知っていた。常人には思いもよらない発明がいくつもあると、どこかの新聞記事に書かれていた。

「とにかく棋譜が必要だな。あればあるだけいい。集められるか、加賀」

 普通に考えれば、気の進む話ではなかった。失敗は目に見えているように思えたし、労力をかけるほどの事柄とも思えなかった。だが……仮に、もし本当に、彼女そのものの差し手が再現されたとしたら、それと真正面から対局することができたとしたら。そのとき僕は、一体何を思うのだろう。

「……できないことはないけど」

 つとめて軽い響きになるよう僕は答えた。

「でも三上、これをやって君には何の得があるんだ」

「得? ねぇよ。趣味だ。だがまぁ、強いて言うなら……」

 三上はくくっと笑い声をあげる。

「仲人役を買って出たのさ、親友としてな」


 やがて時が過ぎ、僕の記憶も薄まってきた頃、三上からひとつのプログラムが送られてきた。


   *


 たぶん雨が降っていた。三月の初め、僕はベッドに腰掛け詰将棋の本を開いていた。窓の外には欠片の光も見えない。一滴の雫がガラスを伝っていたから、その夜はたぶん雨が降っていた。

 ノックの音がして、いいよと声をかける間もなく開いた先にいたのは完全に予想外の人物だった。僕は呆然と彼女を見つめた。あの部屋以外で彼女に会うのはほとんど初めてのことだった。

「入るぞ」

 返事を聞かず、彼女は僕の隣に座った。レースの付いた上着とクリーム色のインナー、そしてふわりとした白のスカートを身につけている彼女は、どこからどう見ても少女だった。意外に胸が大きいことに、そのとき僕は初めて気づいた。

「詰パラか、見せてみろ」

 彼女は僕の手から本を取る。しばしぱらぱらとめくって、「難しいな、やはり」と閉じた。

「詰将棋は好きか」

「そうですね、わりと」

「そうか。私は嫌いだ」

 その言葉に、僕は思わず彼女の目を見た。彼女が将棋に対してネガティブな発言をするなど全く考えられないことだった。

「なあ、加賀」

「……何でしょうか」

「難しいな、将棋は」

 呟くように言って、ぱたんと僕のベッドに倒れ込んだ。そのまま動かなくなり、やがて静かな寝息が聞こえた。僕は少し迷って、彼女の隣に横になった。目をつむって、先ほど見た詰将棋のことを考えようとした。

 明日、二連勝すれば、彼女はプロの棋士になる。そんな夜に、僕にできることなど何もないことを、僕はよくわかっていた。

 いつの間にか眠っていた。詰将棋はいつまでも解けないままだった。


   *


 インストールはすぐに終わった。大規模なプログラムではなく、GUIの設定もすぐに完了した。あとはただ指すだけだった。

 三上の話では、他のソフトと戦わせた結果から推定される棋力は、当時の都築仄とほぼ同等ということだった。また多数のプロ・アマ高段棋士にテストプレイしてもらい、あまりに不自然な差し手や露骨な悪手が見られないことを確かめたという。それ以上のことは自分で確かめてくれと彼はメールに記していた。

 一口水を飲んで、僕は対局開始のボタンを押す。持ち時間なし、無制限。一手にいくら考えようと時間切れはない。振り駒の結果、先手になった僕は飛車先の歩を突く。居飛車を指すならまずこの歩をひとつ前に進めるのだと教えてくれたあの日のことも、もちろん僕は覚えている。

 局面は激しさを増し、僕は相手の差し手が都築仄と酷似していることを認めた。華やかな創造力や切れ味まで再現されていることに驚きを隠せなかった。確かに僕は今、あの都築仄の将棋と対局している。勝つか負けるか、ギリギリの勝負をしている。

 僕が公式戦以上に真剣に、力を振り絞り戦っていたことは間違いない。それでもミスが出てしまうのが将棋だ。一つの失着が響き、僕は劣勢になっていた。僕はいま自分の持つ力を存分に発揮できている、それでもこうなるのだからやっぱり強いな、なんてことをうっすら考えていると、相手は僕の玉の二マス前に持ち駒の銀を打った。当然のように美しい決め手だった。

 銀?

 瞬間、思考が停止した。僕は呆然とその銀を眺めた。それは確かに銀だった。金ではなかった。金であれば、僕の負けははっきりしていた。残り幾許もなく投了するしかなかった。だが銀なら、玉の逃げ出す隙がある。僕が正しく力を発揮すれば、かなりの確率で勝てる。そういう局面になっていた。

 問題は、この銀打ちが都築仄として、プロとしてあり得ないミスだということだった。ここは一見して金を打つ場面であり、銀打ちという考え自体が普通は頭に浮かばない。AIでも通常なら候補に挙がることすらないだろう。しかし相手は銀を打った。わざと打ったとしか思えない。どうして?

 そして僕は気づいた。瞳を閉じ、俯いたまま動けなくなった。


 銀を打ったのは、これが指導対局だからだ。

 つまり、勝とうとしていないのだ。

 彼女は。


   *


 ありえん、と三上は唸った。

「お前の勘違いだろ。わざと負けたなんて報告、誰からもなかったぞ」

「だが棋譜データが証拠として残ってる」

「なら、バグか。しかしお前との対局でだけ発生するというのは……いや、そうか、なるほど」

 三上は納得したように頷くと、ぱっと顔を明るくして僕のほうを向いた。

「おそらくだがな、あのAIはお前をお前として認識したんだ、加賀」

「は?」

「つまりあのAIはお前の一連の差し手から、今戦っている相手が加賀省吾であると判断し、その結果として指導対局を行うことに決めたんだ」

「……そんな、まさか」

「学習棋譜の大半はお前との指導対局のものだからな、全くありえねぇ話じゃねえ。それに」

 にやりと笑って三上はレモンサワーを飲み干す。

「俺は意外とロマンチストなんだ」

 言うが速いか立ち上がり鞄を取った。

「ごっそさん。久々に楽しかったぜ」

「待ってくれ」

 僕は慌てて呼び止める。

「なんだ? 割り勘か?」

「それはいい。それより、あのプログラムはもう進化しないのか。都築と戦えるようにはならないのか」

「まぁ相当難しいな。無理と言ってもいい」

「なら僕はどうしたらいい」

「はぁ? 知るかよ、馬鹿」

 当然の返事に、僕は俯いて黙りこくった。

「……めんどくせえな。ヒントはくれてやるよ。あのAIがお前を加賀だと認識して、その上でこれは本気で戦うべき対局だと判断させるような方法はある。単純で明快で、あまりにもあたりまえすぎてつまらねぇ方法がな」

「……何だ、それは?」

「自分で考えろ」

 三上は改めて鞄を背負う。そして叩きつけるように千円を置くと足早に去っていった。


   *


 目覚めると窓から柔らかい日が差していた。僕は体を起こし、ひとつ伸びをする。心地は悪くなかった。気負いもなかった。今日の対局はとても重要な意味を持つ。勝者は王棋の挑戦権を獲得し、敗者はただ無言で消え去る。あまりにシビアで極端な対局を、僕はただ純粋に楽しみにしていた。

 僕の将棋は強くなった。図太く、綺麗で、巧妙になった。相変わらず創造力は欠如していたけれど、それはまあ仕方がない。僕は加賀省吾だ。都築仄ではない。

 最近は全ての棋戦に等しく力を入れている。優劣はない。にもかかわらず今回ここまで来られたのが他でもない王棋戦だという事実に僕は意味を感じる。僕にしか読み取れない、僕にしか意味を持たない無形の意味が確実にそこにある。僕はそれを取りに行きたいと思う。

 もし、今日勝つことができたら。

 そのときは、また彼女に対局を申し込もう。

 一回り将棋の大きくなった僕を、はたして彼女は挑戦者として認めてくれるだろうか。

 結局のところ、それが僕の人生の全てなのだ。

 振り駒の結果、僕は先手になる。駒を並べ終わると同時に時計が十時を示す。記録係から「始めてください」の声がかかる。挨拶と共に僕は一礼する。ほんの一瞬だけ、彼女の微笑みを思い出す。そして教わったとおりに、迷わず飛車先の歩を突く。

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棋譜には人の全てがある 水池亘 @mizuikewataru

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