2021.09.01 薬剤師の君へ
毎朝6時、洗い物と洗濯とゴミ捨てを終えてからコーヒーを飲み、明るく賑やかな彼女の呟きをチェックするのがルーティンだった。
恥ずかしそうなエピソードはいつもニヤニヤしながら。ランチやドラマの話題は女子になった気持ちで共感しながら。
癌と闘ってる彼女の生活を煙草を吸いながらというのが最低きわまりないのだけど、その程度で最低だと思わないで欲しい。
恥ずかしいのは俺のほうだし、最低の人間はこんなもんじゃない。覚悟してもらおう。
何か応援出来るような短編を書こうと思った。でも気付いたら作品内で彼女を殺してしまうのだ。最低すぎて笑えないよね。
しかもその短編をいま、ここに転載しようか迷ってる。深層心理では彼女を恨んでいるのかもしれない。いや、愛ゆえに終わらせたいと願っているのかも。深いうえに不快な発想(笑)
【希望の夢】
(……きっと死ぬ)
体温が跳ね上がり息が苦しい。頭がズキズキと痛んで、吐き気がした。枕元に置かれた経口補水液にすら手が出せないほど、弱り陶酔しきっていた。
「……苦しい。息が苦しい」
俺が運びこまれたのは病院でも、治療センターでもなかった。ここは使われていない広い体育館にベッドが並べてあるだけの場所。
看護士は見たところ、二人しか居ない。感染力の増したウイルスが猛威を奮っていた。完全に人手が足りない状況。
感染爆発。救命救急のトリアージで俺は24時間はもつだろうと診断され、この場所に運び込まれ放置されたのだ。
「も、ものが二重に見える……息が、息が」
「落ちついて、目をとじてください。ゆっくり呼吸して」
「!?」
誰も居ないと思っていたが、違った。看護士や医者は見当たらないが、並べられたベッドには俺のような感染者が山ほどいたのだ。
「はあ……はあ……」
「そう、ゆっくり吸って、はいて」
となりのベッドから、声をかけてくれたのは若い女性だった。俺よりひとまわり、10歳は下の
「はあ……はあ……はあ」
透き通ったか細い声だ。それでいて聞き取りやすく、優しい人に違いないと思った。俺は冷静さを取り戻した。
「ふーっ、少し楽になりました。医療関係のかたですか?」
「ただの薬剤師です。もうすぐ消灯になりますけど、ひとりじゃないですから安心してください。安静にしていないと重症化リスクが増えちゃいますよ」
「……あ、ありがとうございます。なんか同じ病人でも違いますね。薬剤師さんて、根気のいる職業ですよね、心強いです」
「くすっ……そんなふうに褒められたら、私まで心強いです」
その直後、また一人、二人と運びこまれた。年配の女性と若い男だった。暗がりの先にもベッドがあるようだが、パテーションが張られていて見えなかった。
もう隔離するパテーションすら足りないのだ。国民の半分以上が感染してしまったのではないだろうか。
「くそおっ!」若い男がベッドで叫ぶ声が体育館に響いた。誰もがうるさいと感じる、苛つく声だった。
「……俺だけ助かってもしょうがねえだろうが。無事か、三枝子! どこにいるんだ!」
「三枝子さんなら大丈夫ですよ。ちゃんとした病院に運ばれているはずです。しっかりしてください」
「はあ……はあ……あ、ああ、すんません」
「いいんです。それより体力は温存しておかなきゃ、三枝子さんていうのは?」
「あ、ああ、妹です。まだ小学生で、先に両親が搬送されたから、俺が看るって約束したのに。自宅療養してるんです」
「一緒に救急車まで……それなら、きっと大丈夫です。児童センターは設備が整っていますから、ここより安心ですよ」
驚いたことに、その薬剤師の女性は、パニックになっていた若者を簡単に静めた。その場しのぎの嘘かもしれないが、それでも彼女の声には優しさと、説得力があった。
「コホッ、コホッ、若いこは元気があるわね」
今度口を開いたのは一緒に運ばれた年配の女性だった。天井しか見えない状況でも声とリズムで分かった。
「私はたぶん助からないわ。コホッ、だけど、やっぱり心残りなのよ。聞いてくれる?」
「……はい」
「うちに飼ってる猫ちゃん。私が戻らなかったら、きっと誰も食べ物をあげなくて死んでしまうわ」
「なら、なんとしても帰らないといけませんね。偶然ですが、わたしの家にも二匹の猫がいるんですよ。だから頑張らなくちゃ」
「……あなた、うちの猫もみてくれないかしら。お金ならあげるわ。あなたなら安心して任せられる気がするのよ」
「そんな、弱音をはく方とは約束出来ません。もし、おばさまが病気を吹き飛ばしてから、直接会いにきてくださるなら、よろこんで預かります。家の猫ちゃんも紹介します。ですから、挫けないでください」
「そ、そうね、ごめんなさい。ありがとう、少し弱気になっていたわ」
「いえ、お金ならもらってもいいですけど」
「……ぷっ」年配の女性は笑っていた。
声しか聞こえないのに不思議と彼女も笑っている気がした。長い夜だった。それからも彼女は年配の女性を励ましていた。
「おい! 誰かいないか。水をくれ、喉が痛くて、乾いて、はりつく……だよ」
「私のをどうぞ」
「……」
「はあ……はあ……駄目だ。吐いちまって気持ちが悪いんだ。枕を代えてくれよ」
「これをどうぞ」
「……」
「ふーっ、ふーっ、もうだめ。わたしが死んだら猫ちゃんをお願い」
「あきらめないでください、息をゆっくり吸って、はいて、吸って、はいて」
「ふーっ、ふーっ」
「……」
一晩中、彼女は喋り続けていた。俺は、もう助からないと思った。それでも彼女みたいな人が生きてくれるなら、構わないと思った。
「あなた、大丈夫ですか?」
「あ、ああ、ちょっと意識が跳んでた。寝てたのかな。ずっと君の声がしてた」
「うるさかったかしら」
「……いや、君の声がなかったら、俺はそのまま眠っていたと思う。そのままずっと、目を覚まさず眠りについてた」
優しくて勇気があって、自分だって辛いのにくるひと構わず声をかけていた彼女。いつの間にか俺は彼女に癒されていた。そして自分のはなしをしていた。
上手くいかなかった仕事のこと、喧嘩ばかりしていた嫁さんのこと、むかし目指して諦めていた小説のこと。
「まだまだ、これからですよ」
裏切ってしまった仲間のこと。傷つけてきた息子のこと。失って知った両親の気持ち、逃げてきた人生、目をそらしてきた現実。
「まだ、終わっていませんよ。どんな
福音……そう感じた。神なんか信じていない。神が俺の言葉を聞いてくれた
それだけで、充分だった。聞いてくれるだけでよかった。悔いはない、散々と神々に愚痴を言ってやった気分だった。
苦しみは困難を……困難が忍耐を……忍耐は
彼女は希望の夢だった。死の間際、俺は希望の光のあたる場所にいた。
「……ありがとう」
「いいえ、おやすみなさい」
※
サイレンが聞こえる。これは、車の揺れだろうか。またどこかに運ばれているらしい。呼吸器の管が伸びていてアルファベットの書かれた機材がある。
(……助かったのか)
俺は口元の管を外して跳ね起きた。横に座っている看護士の男は、俺の肩をぐっと抑えこんで、首を左右に振った。
「動くな、安静に」
「あの子は、あのひとは無事ですか!?」
「……みんな助かったよ。朝に息をしていなかったのは一人だけだ」
「!!」
肩から力が抜けた。体育館には40人もの人がいたんだ。彼女が死ぬはずがない。きっとどこかの病院に運ばれたにちがいない。
調べようもなかった。俺は彼女の顔も名前も何一つ知らないのだから。どうしてもっと彼女自身のことを聞かなかったのだろうか。
きっとひょっこり現れるに違いない。まだまだ若くて、忍耐力のある人だ。だから、もし俺の馬鹿な小説をみたら「これはあかんやろ」と笑ってくれるはずだ。
いや、削除しろと言ってくるかもしれない。正式に運営を使ってきたらどうしよう。それでも彼女が戻ってきてくれたら、俺や俺たちの世界は少しだけ居心地のいいものになるだろう。
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