第七章 紅色の夕風
1.眠れる王子
弁当屋の古いガラス扉越しに見える町の風景が、夕焼けに染まり始めると、次第にドキドキしてくる。
「千紗。今日はもうあがりな」
「うん」
待ち望んでいた叔母の声が厨房からかかり、弾かれたようにエプロンを脱いで店をあとにした。
このあと、夜間学校へ通う生活に変わりはないが、最近の私は、その前に行くところがある。
学校帰りの学生や、夕飯の買いものをする主婦で賑わう商店街を走り抜け、そのまま駅には向かわずに、脇道へ逸れる。
白いコンクリート造りの診療所の奥に、目的の家はあった。
私の姿を見つけて足元に擦り寄って来る猫たちと共に玄関ではなく、庭へと進む。
草木に覆われた、どこか懐かしい雰囲気の庭。
それに面した南向きの部屋で、彼は眠っている。
大きなガラス窓へと歩み寄る瞬間、目を閉じて祈るように想像してみることは、今や私の習慣になりつつあった。
(ひょっとしたら今日は目を覚ましていて、そこに立ってるんじゃないかな……あの大好きな笑顔で、『ちい』と私を呼んではくれないかな……)
だが、願いと言ってもいいその想像が、現実になったことはまだない。
彼はやはり今日も、庭がよく見えるベッドの上で静かに眠っていた。
少し痩せた頬に影を落とす長い睫毛は、昨日と同じで固く閉じられたままだった。
唐突に紅君が倒れたあの冬の日から、二ヶ月が過ぎた。
体にも脳波にも異常はなく、ただ眠っているだけだという彼は、あれからずっと意識が戻っていない。
病院ではなく、病院に隣接した自宅で、蒼ちゃんとお父さんが交互に様子を見守る日々。
夕方、夜間学校へと向かう前のひと時、紅君に会いに来るのが、ここ二ヶ月の私の日課だった。
「紅君……」
自由に出入りしていいと言われている掃き出し窓から、そっと部屋の中へ入る。
いつもは今の時間つき添っているはずの蒼ちゃんが、今日は珍しく席を外していた。
紅君の顔にまで伸びて来そうだった西日を遮るため、カーテンを閉める。
少し暗くなった室内は、まるでここだけ時間が止まったかのように静かだ。
「紅君……」
小さく囁く私の声が、静寂に飲みこまれる。
何度呼んでも、彼は目を覚まさない。
一瞬、昨日蒼ちゃんが冗談まじりに言っていた言葉を思い出した。
『千紗ちゃんがキスしたら、眠り姫みたいに目を覚ますんじゃない?』
真っ赤になって怒り、『そんなことするはずない!』と叫んだ私を、蒼ちゃんは笑いながら見ていた。
その楽しそうな雰囲気につられ、紅君が意識をとり戻しはしないかというのが、蒼ちゃんの本当の狙いだったのだと、私もわかっていた。
二人だけの静かな部屋で、規則正しく寝息をたてている紅君の横顔を見ているうちに、思わずその頬に手を伸ばしそうになり、そういう自分に自分で驚いた。
(何やってるの! 私……?)
決して蒼ちゃんの言うように、「キスしよう」などと思ったわけではない。
ただ、もう長い間触れてさえいない紅君が、まるで幻のようで、今にも消えていなくなってしまいそうで、不安になった。
「きっといつかは目が覚めるだろうから」と、みんなとは笑顔で話している。
「大丈夫です。私はずっと待ってるから」と、自分に言い聞かせるかのように何度もくり返した。
でも本当は、心の中では不安で不安で――。
このまま紅君が亡くなってしまう悪夢を見ては、今でも夜中に飛び起きる。
びっしょりと汗をかき、涙を流している自分に気がつくたび、痛いほど自覚する。
自分がどれほど紅君を好きなのか。
彼を失うことにどれだけ怯えているのか。
わかっているのにどうすることもできず、限界まで溜まった不安は、私を押し潰しそうに大きくなっている。
「紅君……」
一度は引いた手を、私はもう一度、眠る彼へ伸ばした。
そっと触れた白い頬は、恐れていたように冷たくなどなかった。
温かな血が通っている肌の感触がした。
ただそれだけのことが嬉しくて、涙が零れる。
「よかった……じゃあ、学校行ってくるね……」
まだ彼の肌の感触が残っている指先を、胸に抱き、再び庭へと出ていく私に、言葉がかけられることはない。
ふり返ってもう一度見てみても、紅君はベッドの上、先ほどの位置から一ミリも動いていない。
その静穏さに、不安を煽られる。
「行ってきます……」
それだけを告げ、私は走り出した。
これ以上ここに留まっていると、また不安に捕まりそうで、前だけを見て一目散に紅君の家の庭を駆け抜けた。
「どう? やっぱり今日も……?」
学校に着くと美久ちゃんが、昨日と同じように私に問いかけた。
昨日の前も、そのまた前もくり返されてきた同じ質問。
私が頷くと同時に、美久ちゃんも他のみんなも、まるで自分のことのように落胆して大きな溜め息を吐くので、私は優しい気持ちになる。
「でも、全然苦しいことなんてなさそうな顔で、穏やかに眠ってる……だから大丈夫……夢の世界でもきっと紅君は、辛い目に遭ったりしてない……」
小さく笑いながらそう告げると、美久ちゃんにぎゅっと頭を抱き寄せられた。
「もう! あんたって子は……!」
その腕が温かく、思わず寄りかかってしまいたくなる。
だがここで誰かに甘えたら、懸命に平静を保っている心のバランスまで崩れることを私は知っていた。
だから笑う。
懸命に笑う。
『私は大丈夫』という強がりを真実に変えるため、誰にも涙は見せなかった。
家へと帰る電車を降りたら、改札で私に手を振る人がいた。
蒼ちゃんだった。
蒼ちゃんはよく「全然似てないでしょ?」と自分と紅君のことを笑うが、やはり背格好やちょっとした仕草や全体の雰囲気は似ている。
遠くから蒼ちゃんを見た瞬間、私は一瞬、紅君かと思ってしまい、そんなはずはないのに勝手に抱いた淡い期待で、内心、少し落胆した。
「どうしたの……?」
まさか紅君に何かあったのかと、慌てて駆け寄ると、蒼ちゃんは笑顔で首を横に振った。
その動作に、何かが起こったわけではないのだと、ほっとする。
「学校に行く前に寄ってくれたでしょ? 伝えたいことがあったのに、ちょうど電話に出てて会えなかったから……」
並んで歩きながら話す蒼ちゃんの顔を、私は見上げた。
「なに?」
「うん。今度、翔太君が紅也に会いに来るって……その時みんなもつれて来るから、ちい姉ちゃんにそう伝えてくれだって……」
「……みんな?」
紅君が倒れてからすぐに、翔太君は彼に会いに来た。
紅君が眠るベッドの横に座り、長く話しかけていた翔太君は、帰る間際に、そういえば私にもそういうことを言っていた。
「今度はみんなで来る」と――。
「みんなって……」
まさかという思いで蒼ちゃんの顔を仰ぐ。
蒼ちゃんはしっかりと頷いてくれた。
「うん。昔『希望の家』で一緒に暮らしていた、みんなで来るって……」
「…………!」
必死の思いでずっとこらえ続けている涙が、思わず浮かんで来そうだった。
「そう……」
嬉しい。
またあの頃のようにみんなが集まる。
それは今、それぞれが集まれる状態にあるということだ。
誰一人欠けずに元気でいるということだ。
大好きだった『こう兄ちゃん』のために集まってくれる。
それはみんなの絆が確かに今も存在している証明でもあり、私は嬉しくてたまらなかった。
(みんなが来たら、紅君だって目を覚まさないかな……?)
あれほど愛情を注いでいた弟や妹たちが、紅君のために集まるのだ。
嬉しくないはずがない。
そういうみんなの気持ちを無視するような紅君ではない。
だが――。
口に出して期待してしまえば、それが叶わなかった時の落胆がいっそう大きくなる気がして、私はその思いを蒼ちゃんに伝えることはできなかった。
胸に抱いた希望は、自分の心の中だけにしまっておいた。
いつになっても、傷つくことが恐い自分。
望みを持つ喜びよりも、それが裏切られた時の心配ばかりしてしまう自分。
紅君がいないと私は、前を向いて歩くことさえ難しい。
どん底の状態の時に、手をさし伸べてくれたたった一人の人なので、誰にも代わりはできない。
私には紅君しかいない。
その事実を、改めて思い知る。
「楽しみだね……」
私を喜ばそうと、わざわざこんなところまでみんなの来訪を教えに来てくれた蒼ちゃんに、私は「うん」と短い返事しかできない。
そういう私を責めるでもなく、咎めるでもなく、ただ歩調を合わせて一緒に歩いてくれる――蒼ちゃんがそういう人でよかった。
本当に彼には、心から感謝せずにはいられなかった。
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