4.傷つけたくない人
朝早くの仕込みも、厨房での調理も、店頭での販売も、叔母たちの小さな弁当屋では叔母と叔父と私の三人でやる。
昼間の配達だけバイトを雇っていたが、その日は体調が悪いということで、急に来れなくなってしまった。
「ごめん、千紗。今日は新しい注文は受けないけど、それだけはずいぶん前から予約をもらってたやつだから……」
「はい。大丈夫……すぐ近くだし、急いで行ってくる」
「そんなこと気にしなくていいから、気をつけて行くんだよ?」
まるで小さな子供にお遣いを頼むかのように、何度も念を押す叔母は、私が交通事故に遭ってから車が恐くなったことも、配達先へと続く大通りをいつもは決して通らないことも、よく知っている。
だから心配して、必要以上に声をかけてくれる。
「うん。大丈夫……」
まるで自分自身に言い聞かせるかのようにくり返し、私は両手に大きなビニール袋を下げて店を出た。
行き先は店からそう遠くない大学の研究室だった。
小さな町には不釣りあいな総合大学は、広大な敷地をぐるりと樹木に囲まれている。
正門へと続く大通りにも、左右に大きな樹が植樹されており、木陰が多くて心地よい場所ではあったが、私はどうにも苦手だった。
多くの車が途切れることなく通る道路を、耳を塞いで駆け抜けたい気持ちで足早に歩く。
(ここはあの場所じゃない! 違う! 違う!)
必死に心の中で唱えながら、逃げこむように大学の構内へ入った。
せわしなく車が行き来していた往来とはまるで別世界のように、そこでは時間がゆっくりと流れていた。
煉瓦が敷きつめられた舗道や緑の芝生を行く学生たちは、みんな輝いて見える。
楽しそうに談笑している女の人たちも、一直線に目的地へ向かっている男の人も、年齢的には私とそう変わらないはずなのにずいぶん大人に感じた。
自分が場違いなところへ迷いこんだ気がし、不安になる。
(これを届けて早く帰ろう……)
場違いなのは年齢のせいだろうか。
それとも眩しすぎるほどの太陽の下で、楽しそうに笑う女子大生には、やはり自分はなれそうにないと思えるからだろうか。
四年の高校生活を終えるまでには答えを見つけなければならない苦しい問いを、必死に考えながら歩いていると、見慣れた背中を見つけた。
周りの人とは違うスピードで、空を見上げたりしながら建物へと向かう広い背中。
(蒼ちゃん!)
今すぐ駆け寄り、不安を拭い去ってしまいたいと強く感じ、そして初めて気がついた。
蒼ちゃんもこの大学へ通う大学生だが、私はこれまで彼に気後れを感じたことはなかった。
(初めから懐っこく話しかけてくれたから? それとも独特の優しく穏やかな雰囲気のせい? それとも他にまだ何か理由が……?)
考えこんだおかげで走りだすのが遅れ、彼の名前を声にして呼ばないでよかったと、次の瞬間心から思った。
「蒼之!」
建物から出てきた女の人が蒼ちゃんに向かって手を振った。
「やあ」
蒼ちゃんも手を上げて返事をするので、私の胸はドキリと跳ねる。
(な……に……?)
蒼ちゃんに歩み寄った女の人は笑顔で何かを話し、まるで当たり前のように彼の隣へ並ぶ。
蒼ちゃんの腕に腕を絡め、親しげに寄せられた綺麗な巻き髪の頭を、私はぼんやりと見ていた。
いつの間にか足は止まっていた。
ほんの先ほどまで重さなどまるで感じなかった両手の弁当が、腕が痛くなるほどに重かった。
慌ててエプロンを外して店から出てきたままの普段着。
履き慣れた古い靴。
軽くとかしてうしろで一つに縛っただけの髪。
もちろん化粧っけなどまるでない素顔。
これまで気にとめたこともなかった自分の何もかもが、やけに野暮ったく感じた。
蒼ちゃんに寄り添って歩く女の人の綺麗な笑顔と服装が、胸に痛くて堪らなかった。
(早く! 早く!)
先ほどまでよりなおさら、ここから逃げたい気持ちが強い。
一向に動く気配のない自分の足を叱り飛ばすように、私は何度も心の中でくり返した。
(早く帰ろう! 配達を済ませて、急いでここから帰ろう!)
蒼ちゃんと女の人が向かっている入り口とは別の入り口へ向かい、私は駆けだした。
指定された部屋にたどり着くまでには時間がかかった。
大学内の建物は学部や学科によっていくつにもわかれており、案内板も見ずに探し回った結果、思っていた以上に遅くなった。
叔母が早い時間に送り出してくれたおかげで、指定時間には遅れなかったことに感謝する。
「お待たせしました」
頭を下げながら入った部屋の中には四、五人の女性がいた。
その中に、先ほど蒼ちゃんと一緒だった女の人がおり、愕然とする。
蒼ちゃんはいないことにほっとしながら、私は持ってきた弁当を部屋の中央にある大きな机に載せた。
「ごくろうさま。ありがとう」
にこりともせずに言った女の人は、蒼ちゃんと一緒にいた時とは雰囲気が違った。
綺麗に整えた眉を寄せ、不機嫌そうに煙草を吸っているからだろうか。
一瞬別人かと思う。
だが――。
「まったくイライラするわあの男」
「あの男って?」
「蒼之よ蒼之! 決まってるじゃない!」
周りにいる女の人たちとの会話に、蒼ちゃんの名前が出てきたのでやはり先ほどの人にまちがいない。
「親は医者だし、本人も医学部だし……今のうちにものにしとこうと思ったのに、全然ダメ!」
「ハハハッ、そりゃあんたがタイプじゃないからでしょ」
「冗談じゃないわよ! こっちはレベル落としてんのよ! 背は高いし、もとの顔はいいから磨けばどうにかなるだろうけど……今のままじゃただのダサい男じゃない!」
「ハハッ言えてる」
「あんたが変身させてやるんじゃなかったの? ずっとそう言ってたじゃない」
「だから全然ダメなんだってば! いくら言ったってヘラヘラ笑ってるだけで、私の話、聞いてんだか、聞いてないんだか……ほんっとわかんない!」
「ハハッ、そりゃダメだわ」
「くそっ! 腹が立つ……!」
頭が痛い。
耳の奥で大きく鳴り響いている耳鳴りを、誰か止めてほしい。
それか、今すぐ彼女たちの会話がこれ以上聞こえないようにしてほしい。
「もうやめちゃえば?」
「半年もかけたのに? 冗談じゃないわ! やめるんだったらたっぷり貢がせてからよ!」
「えー……? 美奈子って鬼!」
「ほんと、ほんと」
キャアキャアと笑っている女の人たちはいったい何が面白いのだろう。
私にはわからない。
わかるはずがない。
ギリギリと絞めあげられるように胸が痛く、受け取った代金をしまい、すぐに部屋を出ようと思うのに、また足が動かない。
一歩も動けない。
「ま、ちょっと不幸な話をでっち上げれば、すぐに同情して金でも物でも出すってことはわかってるからね」
ふいにバアアアンと大きな音がし、部屋にいた全ての人が動きを止めた。
みんな呆気に取られたように音がしたほうへ視線を向ける。
私だって何が起きたのかと驚いた。
ビリビリと痺れるほどに右手が痛んでいるのでなければ、掌で力いっぱい机を叩いたのが自分だとは、とてもわからなかった。
「もうやめて……」
何が起きているのかも理解できないまま、私はしぼりだすような声で呟いていた。
ポロポロと涙を零しながら、拳を強く握りしめ、深く俯いていた。
「何も知らないくせにそんなふうに言わないで……」
ザワッと彼女たちが動きだす気配がする。
顔を下げているので見えはしないが、私に向けられた視線が、刺すように鋭くなっていくのは肌でわかる。
「あんた誰? 何言ってんの?」
いかにも不機嫌そうな声は、あの人だ。
笑顔で蒼ちゃんの隣にいたのに、陰では悪しざまに罵っていた綺麗な人。
私はまだひりひりとする右手を、さらに強く握りしめた。
悲鳴が漏れるほどに体を痛めつけておかなければ、感情が高ぶった時に自分が何を言い出すか、何をしでかすか、私自身にも予想がつかない。
小さな頃から、いつもそうだった。
「蒼ちゃんを傷つけないで……」
(そうでなくとも、たくさんの痛みを抱え……それでも笑い、いつも懸命にがんばっている蒼ちゃんを……傷つける人は許せない!)
かつて母との二人きりの生活をとり戻すため、澤井を相手にも果敢に挑んでいった時のように、決意をこめて私は顔を上げた。
「……私が許さない」
「何? 蒼之の知りあい? 妹はいなかったよね……まさか彼女?」
驚いたよりは馬鹿にした感の強い言葉に、私がまさに手をふり上げようとした時、背後から抱きしめられた。
「いや……僕の好きな子だよ」
その声を聞いた途端、全身の毛を逆立てた猫のようだった私の体から、一気に力が抜けた。
頭上から聞こえた優しい声が、怒りでガチガチに強張っていた私の心を解かした。
(蒼ちゃん!)
感情のままに手を上げようとした自分が恥ずかしく、今すぐこの場から逃げたいのに、私が知らない場所での蒼ちゃんはもうこれ以上見たくないのに、動けない。
抱きしめられた腕の中から一歩も動けない。
「騒がせちゃってごめん……この子は連れて帰るから……」
背中に隠すようにして、蒼ちゃんは私を部屋の外へ押し出す。
自分も部屋から出て扉を閉めながら、中にいる人たちをふり返って笑った。
「梁瀬さん……医者っていってもうちは本当に貧乏なんで、僕はご希望どおりに貢げるかわからないよ? 今までどおり……困ったことがあったらいつでも相談には乗るけど?」
「そんなもん、いらないわよ!」
ヒステリックな叫びにも礼儀正しく頭を下げ、蒼ちゃんは扉を閉めた。
傍らに立つ私の両肩に手を置き、じっと瞳を覗きこむ。
ぶ厚い眼鏡の奥の綺麗な瞳は、悲しそうでも辛そうでもなく、いつもと同じ優しいままだった。
「僕は傷つかないよ……誰に何を言われたって、何をされたって傷ついたりしない……それが君からじゃなければ」
ドキンと私の胸は跳ねた。
私の手を引いて蒼ちゃんは歩きだす。
無言のまま歩き続け、建物から出て、人の少ない芝生の中央に立つ大きな木の下まで進み、ようやく止まってくれた。
「千紗ちゃん……今までと同じでいいから、これからも僕の傍にいてよ……ずっといてよ……」
うしろ姿のまま告げられた言葉に鼓動が速くなる。
ドキドキと大きく心臓が脈打つ。
「私……」
即座に頭に浮かんだ紅君の笑顔に首を振るべきなのか、繋いだままの手に力をこめた蒼ちゃんの手をふり解くべきなのか、一瞬わからなくなる。
(一生胸に抱えて生きていくことを、迷ったことなどなかった紅君との約束なのに――!)
「でも私は……!」
やはり捨てられない。
どれほど無意味な選択でも、たとえ可能性が一パーセントもなくても、たった一つの約束をどうしても捨てられないと私が告げかけた時、蒼ちゃんがふり向いた。
繋いでいた手を引き、今度は正面から私を抱きしめた。
「うん、わかってる。千紗ちゃんには大切な何かがあるんだろうってことはちゃんとわかってる……だから!」
ぎゅっと息もできないほどに強く抱きすくめられた。
「傍にいてくれるだけでいい……僕が邪魔になったら、いつでもそう言ってくれていいから」
「そんなずるいことできない! できるわけないよ!」
「いいから! 僕はそれでもいいから……頼む……」
私の頭に頬を寄せるように、俯いた蒼ちゃんの声が震えている。
ひょっとすると泣いているのかと思い、私は恐る恐る呼びかけた。
「蒼ちゃん……?」
抱きしめる腕を緩め、「何?」と私に向けられた顔はいつもの笑顔だった。
眩しいほどの笑顔。
だけど瞳だけが揺れている。
悲しみか不安か――おそらく笑顔とは間逆の感情で揺れている。
私にはそれがわかっていた。
出会ってすぐの頃から、本当はずっとわかっていた。
「蒼ちゃん!」
だから、たまらず手をさし伸べた。
ずっとそうしたくて、できず、いつか告げることがでればいいのにと願っていた言葉を、私はついに口にした。
「我慢しなくていいよ。辛かったら、悲しかったら泣いていいよ!」
先ほど彼が私を抱きしめたのと変わらないくらいの強さで、彼の体を抱きしめたら、すぐにまた抱き返される。
「千紗……!」
震える声が嗚咽に変わったのかはわからない。
どちらがどちらを抱きしめているともいえない体勢のまま、私もいつの間にか蒼ちゃんに縋り、泣いていた。
(蒼ちゃんはああ言ってくれたけど、やっぱり紅君との約束はもう忘れよう……紅君を思って泣くのはもうこれで最後にしよう……)
そう心して、私は蒼ちゃんの胸で泣いた。
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