風はいつも君色に染まる

シェリンカ

第一章 桜色の初恋

1.さし伸べられた手

『千紗ちゃんって、どうして夏の暑い時も長袖の服を着ているの?』

 私に初めてそう質問したのは、小学三年生の頃に仲がよかった真澄ちゃんだっただろうか。

 それとも、四年生の頃に一緒にいることの多かった結衣ちゃんだろうか。

 いずれにせよ、私が正直には答えず、曖昧にごまかしたことだけは確かだ。


『別に……この服が好きだから……』

『ふーん』

 学年が変わるごとに行動を共にする相手も変わる私に、それ以上しつこく訊いてくるような『友人』などいなかった。

 だからかまわず、一年を通して同じ服を着続けた。


「よーし、それじゃ今日の終わりのあいさつをするぞー」

 担任が教卓の前で大きく叫ぶので、私は袖丈の短くなりつつあるブラウスを、懸命にひっぱって細い腕を隠す。

 そこには強く掴まれてしまったことで、できた痣がある。

 今でさえ少ない私に話しかけてくれるクラスメートが、これ以上減らないよう、他の子たちとは違う部分を必死に隠そうというのは、自己防衛本能だ。


「それではみなさん、さようなら。また明日」

「さよならー」

 担任のあいさつに元気に答え、みんなは誘いあって教室を出ていく。


「りーちゃん、帰ろう!」

「サッカーするやつ、校庭に集合!」

「はーい」

「行くぞ、おい!」


 にぎやかな声が次第に少なくなる中、わざとのろのろと帰るしたくをして席を立つのは、私が誰からも声をかけられないことに、担任が気づかないためだ。

 そうでなければ『長岡さんは一人で帰るの?』なんて、よけいな気を遣わせてしまう。

 教科書やノートでずしりと重くなったランドセルを背負い、ふと目を向けた窓の向こうは、眩いほどのオレンジ色の空だった。


「紅也ーそっち行ったぞー」

「祐樹! 待てって、わあっ!」

 さっき教室を走り出ていった同じクラスの男の子たちが、もうサッカーをしている声が聞こえる。

 窓からのぞいてみた、夕焼けの中で楽しそうに笑いあっている姿は、まるで私とは別の世界で生きているかのようで、まぶしすぎて視線を逸らした。


 重い足をひきずるようにして、私が一人で帰るのは、川沿いに長く続く土手の道。

 川の向こうでは、母の働く製鉄工場が、今日も高い煙突から黒煙をもうもうと吐き出している。


 ランドセルの肩ベルトを両手でぎゅっと掴み直し、私は歩く速度を速めた。

 母が疲れて帰ってくるまでに、夕飯のしたくをすませておきたい。

 そして「お帰りなさい」と笑顔で出迎えたい。

 その一心で、歩き続ける。



 私が小学校に上がる直前、突然父が亡くなった。

 持病があったわけではなく、事故などでもなく、風邪をこじらせてからの、本当に突然の死だった。

 以来、母と二人で生きてきた。

 大好きだった父にもう会えないことは、とてつもなく悲しかったが、母と二人きりの生活に不満などなかった。

 料理も洗濯も掃除も、私は自分から進んでひき受け、教えてもらい、母の助けになれることがうれしかった。


 しかし私が小学二年生の夏に、母は工場に出入りするトラック運転手の澤井という男と、再婚を決めた。

 初めて澤井にひきあわされた時の印象は、昨日のことのようによく覚えている。




ミンミンと蝉の声が神社の境内にこだまする、よく晴れた八月の暑い日だった。

 神社で催されていた夏祭りで、普段は買ってもらえないかき氷を買い与えられた私は、とても機嫌がよかった。

 夢中で食べていると、ふいに母に声をかけられた。


『千紗、この人が澤井さん。千紗の新しいお父さんよ』

『え……?』


 いつの間にか自分たちの隣に寄り添うように立っていた背の高い男を、私は驚きの思いで見上げる。

 ストロースプーンですくい上げ、今にも口へ運ぼうとしていたかき氷が、しゃくりと私の足もとへ落ちた。


 グレーの繋ぎを着て、髪を短く刈りこんだ澤井は、はるか頭上からじいっと私を見下ろした。

 温度の感じられない、なんだか怖い目だと直感的に思った。


『まだ小さいんだから、よくはわからないだろ』

 それだけ言うと、澤井はふいっと私から視線を背け、母へ向き直る。

 大きな声で母を『奈美さん』と呼び、楽しそうに談笑するばかりで、母のスカートの陰に隠れてしまった私には、それきり目を向けることはなかった。

 緊張しながらも、私のほうはそれから何度か話しかけようと試みたのに、まるでそこに存在しないかのように、二度とふり返られなかった。


(お母さん……)

 母のスカートを掴む手に、自然と力がこもった。

 母は澤井と楽しそうに笑いながら、話をしている。

 私を見てくれない。


(ねえ、お母さん……)

 呼べばいつだって目線をあわせて、『なあに?』と笑ってくれる母を、その時だけは呼べなかった。

 幸せそうな横顔は、私を育てるためにたった一人で朝から晩まで働いて、疲れきったいつもの表情とは別人のようだ。

 父の写真を夜中に泣きながら抱きしめていた面影は、今はどこにもない。

 この世に二人きりの家族のはずだった母と自分が、切り離されていく感覚を、私は苦しく受け止めていた。


(お父さんを忘れて、その人を好きになったの?)

 子どもだからって、何もわからないわけじゃない。

 何も知らないわけじゃない。

 生まれて七年という短い月日の中でも、自分をこよなく愛してくれた父との別れを経験し、それから一変した生活を知った。


『千紗はお父さんによく似ているね』

 嬉しそうに――だけど寂しそうに笑う母と二人で、これからも父の思い出を胸に生きていくのだと思っていた。


(でもお母さんは恋をした。目の前に立つ、この父とはまったく似ていない男に恋をしたんだ)

 それぐらいは私にだってわかった。

 『子供』にだってよくわかっていた。


                  ♦


「…………」

 あの時の胸の痛みがリアルに蘇り、私は俯きぎみに歩き続ける。

 母と暮らす古いアパートの前へ着くと、私たちの部屋に明かりが点いていた。


(お母さん! 今日は早く終わったんだ!)

 私は喜んで古い鉄製の階段を駆け上った。

 しかし、そうではなかった。

 急いで開けたドアの向こう、台所と繋がる居間のテレビの前には、ごろりと横になっている澤井の姿があった。


(しまった!)

 大きな音を響かせて階段を上がり、中を確認もせずドアを開けてしまったことを、後悔してももう遅い。

 澤井はこちらを向かず、声だけかけてくる。


「帰ったのか? 飯」

「うん……」


 今さらもう一度部屋を出ていくことなどできなかった。

 居間の奥にある物置きを兼ねた私の部屋へ、ランドセルを置きに行くのも難しいので、台所の隅に置く。

 母と二人暮らしの頃に使っていた小さな食卓の椅子にかけっぱなしのエプロンをつけ、私は冷蔵庫から取り出した野菜を切り始めた。


「はははっ、馬鹿か!」

 テレビを見て悪態をついている澤井の声を聞きたくないので、わざと大きな音をたてて野菜を切る。

 切り終わった野菜を炒め、煮こんでカレーのルーを入れていると、澤井の舌打ちが聞こえた。


「ちっ、またカレーかよ」

「…………!」


『だったら自分で他のものを作ればいいじゃないか』と、喉まで出かかった声を呑みこみ、私は乱暴に鍋をかき混ぜた。

 澤井はかっとなるとすぐに手を上げる。

 母にも私にも――。

 その悪癖と、お酒を飲むとますます大きくなる声が、私は特に苦手だった。

 母からも、『なるべく怒らせないようにね』と言われている。

 母が一緒におらず、澤井と二人きりの時はなおさらだ。


「早くしろよ」

 あきらかに私に向かって言い放たれる言葉は、あいかわらず澤井の大きな背中から聞こえてくる。

 澤井が決してこちらをふり返らないと知っている私は、その背中を睨みながら、カレーをかき混ぜ続けた。


「ただいまー」

 母が帰ってきたことにほっと安堵して、玄関のドアをふり返る。

「お帰りなさい」

「あ、千紗、ご飯作っててくれたんだ……いつもありがとう」

 にっこりと微笑んだ母の顔が、普段以上に疲れているように見えた。


(お母さん?)

 しかし私が声をかけるより先に、母が居間にいる澤井へ呼びかける。

「ちょっといい?」

 澤井は首を巡らしてこちらを見ると、いかにも面倒くさそうにのろのろと起き上がった。

「なんだよ」


 今入って来たばかりの玄関ドアを出ていく母に促され、澤井も部屋を出ていく。

 私にはあまり聞かせたくない話をする時、母が場所を改めると私は知っていた。


「お母さん……」

 不安に思って呼びかけると、ふり返りながら「大丈夫よ」と笑顔を向けられる。

 しかし胸騒ぎが治まらない。

 しばらくして一人で部屋へ帰ってきた母の頬は、真っ赤に腫れていた。


「お母さん!」

 驚いて飛びついた私の長い髪を何度も撫で、母は寂しそうに微笑む。

「大丈夫よ……大丈夫……」


 澤井が殴ったのだろうということは、すぐにわかった。

 三カ月ほど前にトラブルが原因で仕事をクビになってから、澤井はいつもイライラしていた。母も私も何度殴られたかわからない。

 私の腕に残る痣は、せめて頭や顔を殴られないように、必死に腕で庇った時にできたものだ。


 三人分になった家計を一人で支えるため、懸命に働いて今帰ってきたばかりの母に、今日もパチンコへ行く以外は一日中部屋で寝転がっていたであろう澤井が手を上げたと思うと、私の中で沸々と怒りの感情が大きくなった。


「ねえ、お母さん……また前みたいに二人で暮らそう……二人だけで……それじゃ駄目なの?」

 これまで心の中で思ってはいても、一度も口に出したことはない思いだった。


 母ははっとしたように目を見開いたあと、困ったように微笑む。

 何か答えてくれようと、ゆっくりと口を開きかけ――けれど私は、その返事を聞くことができなかった。


「お前が悪いんだろうが!」

 すさまじい怒鳴り声と共に、体が真横へふき飛び、私は自分がその時ちょうど家へ帰ってきた澤井に殴られたことを知った。

 左の頬が痛い。

 台所の壁に叩きつけられた右肩も痛い。

 でもそれよりも、すかさずにじり寄ってきた澤井に、怒りをこめて握られた喉が苦しくてたまらない。


「いつまで経ったって、俺を他人のように見る! 馬鹿にしてんのか! 仕事がなくなって……そんなに馬鹿みたいかよ!」

(そんなこと思ってない!)


 心の叫びは言葉にならない。

 頭の中が真っ白になるほど首を締められているのだから、口を開くこともできない。

 私は心の中だけで、澤井には届きそうもない言葉をくり返していた。


(仲良くなろうって思った! ……でもぜんぜん私の話を聞いてくれなくて! 私のほうを見てもくれなくて!)

 私に興味がなかったのは澤井だ。

 最初から私を拒絶していたのは澤井だ。

 なのに――。


「お前がいなきゃ! お前さえいなかったら!」

 澤井は狂ったように叫びながら私を床へ叩きつけ、馬乗りになって殴り続ける。

 どこがどうとも言えない痛みで気が遠くなる中、母の叫びが聞こえた。


「やめて! やめて! ……千紗!」

 必死に澤井を止めようとし、そうできなくて、逆に殴られているような音が聞こえる。


「お母さんを叩くな!」

 本当はいつだって心の中で我慢していた叫びを、血反吐交じりに叫んだ私の腕を、澤井の大きな手が掴んだ。

 そのまま体を壁に叩きつけられ、意識が遠くなる。


「千紗! 千紗!」

 薄れていく意識の中、母の泣き声と澤井の怒鳴り声が小さくなっていく。


(お母さんを叩かないで!)

 何度も心の中でくり返しながら、私は意識を手放した。




 目が覚めたら病院のベッドの上だった。

 右肩の脱臼と左足を骨折。

 あれだけ殴られたのに顔の骨は折れておらず、一時的に瞼が腫れて視界が狭くなった程度ですんだのは奇跡だと、医師は語った。

 傍らに立つ母も、全身いたるところに包帯を巻いていた。


「ごめん……ごめんね……守ってあげられなくて……」

 自分も傷だらけの母を泣かしてしまうのはしのびないので、私は懸命に口を開く。


「悪いのはお母さんじゃない! 絶対にお母さんじゃないよ!」

 それでもやはり、母は両手で顔を覆った。


「ごめん、千紗……ずっと迷ってたけど、私、あの人と別れる……! やっぱり別れるから!」

 自分のためではなく母のために、私はほっと安堵した。

「うん……」

 呟いた私に、母は両手で顔を覆ったまま「ごめんね」と言い続けた。

 何度も言い続けた。




 松葉杖をついてひさしぶりに登校した小学校では、みんなが私を遠巻きにした。

 以前は時々声をかけてくれた子たちも、目があうと困ったように逸らす。

 担任はいろいろと気遣ってくれたが、私の交友関係に関しては、見て見ぬふりを決めたようだった。

 それがありがたかった。


 私と同じクラスというだけで、特に親しくもない女の子たちに、迷惑をかけたくはない。

 こちらから勇気を出して声をかけたのに、困ったように断わられるという状況を、我慢する気力と体力が、今の私にはもうなかった。


 誰も見に来ない授業参観の日。

 教室のうしろでこそこそと交わされている母親たちの会話が耳に入った時は、特にこたえた。


「それで警察沙汰になったんですって……」

「まあ、恐い。関わらないようにってうちの子にもよく言っておかなくちゃ」


 私のことを話しているのだろうと、すぐにわかった。

 それまで傷が痛いのを我慢して、なんとか姿勢良く椅子に座っていたが、もう机の上につっ伏してしまいたくなる。

(心配しなくても、私は誰とも仲良くなんてしない……一人でいい……)


 普段はそう見切りをつけることができても、授業の中で何かグループを決めなければならない時や、郊外学習の時などは厳しかった。

 私と組もうという優しさを示してくれる子も中にはいたが、その周りの子が全員賛同しているとは限らない。

 自分のせいでその子が孤立するのも嫌で、私は自分が参加しない道を選んだ。


(家は普通に出てこないとお母さんが心配するから、どこで時間を潰そう……やっぱり公園かな? でもお巡りさんにでも声をかけられたら?)

 明日に迫った遠足をどうするか悩み、放課後、一人で教室に残って机につっ伏していたら、ふいに声をかけられた。


「あれ? 長岡? まだ帰んないのか?」

 まるで私ではない人を相手にするかのように、何気なくかけられた普通の声に驚いて、思わず顔を上げた。

 教室の入り口に男の子が立っていた。

 同じクラスの小田紅也君だった。


 いつも何をするにもみんなの中心にいる人気者。

 勉強もスポーツも得意で、男女問わず誰からも好かれている彼が、サッカーボールを片手に立っていた。


「もう下校の時間だぞ……学校閉まるよ?」

 気がつけば外は薄暗くなりかけており、私は焦って立ち上がる。

「あ……」

 ガタンと大きな音をたてて、机にたてかけていた松葉杖が床へ落ちた。

 拾おうと私が身を屈めるより先に、小田君がさっと走ってきてそれを拾ってくれる。


「ありがとう……」

「うん」

 お礼を言うと満面の笑みを向けられるから、少し焦る。

 最近は誰も私にこんな顔を向けてくれないからだろうか。

 よくわからない。


「あっ! ひょっとして家の人が迎えに来るのを待ってるとか?」

 閃いたとばかりに、またもう一度にこっと笑った彼へ、私は静かに首を振った。

 母はまだ仕事中だ。

 澤井のことは『家の人』だなどと認めたくない。


 複雑な思いでただ首を振るばかりの私に首を傾げると、小田君は「そうか……」と呟きながら教室の出入り口へ向かう。

 ひさしぶりの普通の会話が終わってしまうのを、私が内心寂しく思っていることになどまるで気づかず、そのまま教室を出ていった。


(私も帰ろう……)

 溜め息交じりに立ち上がりかけた時、パタパタパタと軽やかな足音を響かせて、彼がまた教室の中へ駆けこんできた。


「俺も帰るってみんなに言ってきたから……一緒に帰ろう! 荷物持つよ!」

 言うが早いか、私のランドセルや荷物袋を次々と手に取る。

 呆気に取られてお礼も言えないまま、私は彼のあとをついて歩きだした。




「長岡の家って、楓町? こっちでいいの?」

 松葉杖をつく私に速度をあわせ、ゆっくりと先を歩きながら小田君がふり返る。

 コクコクと何度も頷く私に、やっぱり彼はにっこりと笑ってくれる。


「そっかあ。うちと結構近いんだな……知らなかった」

 私だって知らなかった。

 クラスで完全に浮いている私と、いつもみんなの中心にいるような小田君に接点など、これまでまったくなかったのだから。

 楽しそうに笑っている姿を遠く見ていた人が、誰にも声をかけてもらえなくなった私に、こんなふうに普通に接してくれるとは思いもしなかった。


 あまり考えていると涙が浮かんできそうで、うつむき加減に歩いていた私の耳に、思いがけない言葉が聞こえてくる。

「ここがうちなんだけど……ちょっと寄ってって。ずっと杖をついて歩くのもたいへんそうだし、送ってもらえないか聞いてくる!」

 私の返事も待たずに駆けだして行く背中に大慌てした。 


「お、小田君!?」

(そんな迷惑かけられないよ!)


 叫びかけて目を向けた目の前の門は、普通の家のそれではなかった。

 『希望の家』と古い木製の板に墨字で書かれた表札の名前には、私も聞き覚えがある。

 事情があって親と一緒に暮らせない子や、身寄りのない子が共同生活を送る福祉施設。

 町に一つしかない教会の片隅に建てられたその施設は、確か私が生まれる少し前からこの町に存在していた。


(えっ? ……小田君って……)

 ドキンと心臓が飛び跳ねた時、その彼が建物の陰から走り出てきた。


「いいってさ! 園長先生が車で送ってあげるから、長岡!」

 彼のあとから姿を現わした初老の男性に、私は慌てて頭を下げた。

 見上げるほどに背が高く、口元にも顎にも豊かな髭を蓄えたその男性は、どこか日本人離れした雰囲気だった。

 私を見下ろす優しい瞳がグレーだったことと、少し変わったイントネーションが、どうやら本当に外国の人らしいと教えてくれる。


「コンニチハ。コウが連れてきたお嬢さん。……彼のガールフレンドなのカナ?」

「……!?」

 真っ赤になった次の瞬間、外国では『ガールフレンド』は文字どおり『女友だち』の意味だと思い当たった。

 慌てて「はい」と頷くと、今度は小田君が真っ赤になる。


(えっ? 違うの? なに? 私……まちがった?)

 再び彼に負けないほど赤くなる私と、恨みがましくその男性を見上げている小田君を代わる代わる見ながら、『園長先生』はハッハッハと大きな声で笑った。


「チョット待っててね。車、まわしてくるカラ……」

 足早に立ち去ろうとする長い足めがけ、建物の陰から小さな子供たちが飛び出してくる。


「えんちょうせいせい、どこいくの?」

「あっコウにいちゃんだ! にいちゃんおかえりー」

「おっかえりー」

 園長先生同様、子供たちに飛びつかれている小田君はとても嬉しそうだ。

 みんなをいっぺんに抱きしめ、一人一人に声をかけてあげている。


「翔太、お利口にしてたか? 奏美、花壇のお掃除終わったか?」

 その顔はまちがいなく『お兄ちゃん』だったが、七、八人もいる同じぐらいの年齢の子供たちが、みんな本当に小田君の弟妹だとは思えない。

きっとこの施設で一緒に暮らしている子供たちなのだろう。


 そう。

 いつも元気で明るい小田君が、この『希望の家』から学校へ通っている子だったと、私は今までまったく知らなかった。


「おねえちゃんだあれ?」

 小さな女の子が、大きな丸い目を真っ直ぐに向けてくるからドキリとする。

「コウにいちゃんのおともだち?」

 小田君と園長先生に群がっていた小さな子たちの注目を一身に浴び、とても緊張した。


「そう。おんなじクラスの長岡だよ」

 にっこりしながら答えた小田君の言葉を、子供たちは無邪気に笑う。

「ながおか? へんなおなまえ……」

「ばっかだな、りん。なまえじゃないよ、みょうじだろ? おれ! おれは、おだしょうた」

「わたしは、おだあやめ」

「ぼくは、おだかずま」

 口々に自己紹介をしてくれた子供たちは、みんな『小田』姓だった。


(だから小田君も『小田』なんだ……きっとここに住んでるから『小田』君……)

「おねえちゃんは、ながおか……なにちゃん?」

 尋ねられるままに口を開こうとした時、思いがけないほうから先に返事があった。

「千紗だよ。ちさちゃん」


 小田君が私の名前を知っているとは思わなかった。

 今までほとんど話をしたこともないのに。


 驚いたように目を向けると、ふいっと視線を外される。

 ほんのり赤い頬に、胸がざわついた。


「ち……さちゃん……ち、さ」

 どうやら私の名前は、小さな子には発音するのが難しいようだ。

 小田君がにっこり笑い、その子の頭を撫でる。


「ちいちゃんでいいよ……な? いいだろ?」

 向けられた屈託のない笑顔に、その言葉に、胸が軋んだ。

 瞬間――『私の大切なちい』と呼んでくれていた父のことが、どうしようもなく思い出された。

 優しくて強く、いつも笑顔だった父。

 あれほど元気だった人が、あまりにも呆気なく亡くなり、それから私の世界は一変した。


(お父さん……!)

 これまでなるべく思い出さないようにしてきた。

 思い出せばどうしても悲しくなる。

 あの頃へ帰りたいと思ってしまう。


 だけどもちろん戻ることなどできない。

 私のこれからの未来は、母と澤井と共に暮らしていくしかない。

 懸命にこらえて我慢していた心が、小田君の笑顔で、私を『ちい』と呼ぶ声で、大きく揺らいだ。


(――そう。遠くに見ている頃からずっと思ってた。小田君の笑った顔はお父さんに少し似てたんだ……)


 ポロポロと涙を零して泣き始めた私に、子供たちが驚いて声をあげる。

「ちいちゃん、どうした?」

「どうしたの、あんよがいたいの?」

 優しいばかりのあどけない声が胸に痛く、涙を止めなければと思うのに、止まらない。


「長岡!」

 駆け寄ってきた小田君は、まるで彼の周りにいる小さな子たちを抱きしめるかのように、なんの迷いもなく私を抱きしめた。

「我慢しなくってもいいんだ。辛かったら、悲しかったら泣いていいんだ」


 耳元で囁かれた小さな声に、もうどうしようもなく涙が溢れた。

 私は自分よりほんの少し背が高い小田君に縋るようにして、その場に泣き崩れた。




「コウがずいぶんキミのことを気にしていて……ヨカッタら一度ここへ連れてきてごらんってお願いしたノハ、実はワタシなんデス」

 やはり日本人とは異なる話し方で、園長先生は車のハンドルを握りながら、後部座席に座る私にバックミラー越しで話しかける。


「『希望の家』にいる子は、コウみたいに両親がいない子ばかりじゃなくッテ……親から暴力を受けて一時避難している子も多いデス。だから……」

(そうか。それで気にかけてくれたんだ……)

「ありがとうございます……」


 小田君にも園長先生にも、頭が下がる。

 その途端、助手席に座っていた小田君がガバッとこちらをふり向いた。


「お節介だってことはわかってる! そんなこと……他人にとやかく言われたくない奴もいるって、ちゃんと俺だってわかってるんだ! でも長岡は……なんか放っておけなくて!」

 そこまで言い、また真っ赤になって前へ向き直ってしまうので、私まで頬が熱くなる。

 小田君の言葉は、態度は、どうしてこれほど私を動揺させるのだろう。


「困ったことがアッタラ、いつでも『希望の家』に……私のトコロにいらっしゃい……あっ、もちろん、ナンにもなくっても来ていいんデス! みんなスッカリ、ちいお姉ちゃんが好きになっちゃったみたいデスから……」

 泣きだした私をぐるりととり囲み、小さな手で代わる代わる頭を撫でてくれた子供たちのことを思い出すと、また涙がこみ上げてきそうだった。


「自分が辛い思いをした子は、他の人に優しいデス……あなたやコウもそう……」

 穏やかな園長先生の言葉は、カラカラに乾いていた私の心に、水のように染み渡った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る