あの時とは違い、今はふたりきりで

紫鳥コウ

 初秋の郷愁きょうしゅうを匂わせた夕陽の光が、文庫本でびっしりと埋め尽くされた本棚をくりぬいている。


 ひっそりとした、細長い、三階建ての本屋の一階には、背の高い、ほっそりとした、秋らしい服装をした男の他に、客は誰もいない。


 黒縁くろぶちの眼鏡をかけた、初老の書店員が、レジの向こうで居眠りをしていたかと思うと、自分のくしゃみでたたき起こされた。


 穏やかな温もりが、男の身体を包み込む――男は、都会の喧噪けんそうを忘れて、この本屋に母体めいたものを感じていた。



「中沢くん?」



 この男――中沢哲道なかざわてつみちを呼ぶ声が、静寂を沈黙させた。


 哲道が声の方に顔を向けると、ひとりの美しい女性が立っていた。なにより目を引くのは、きらびやかな、長い黒髪だった。


 そして、その黒髪を引き立たせているのは、きめ細やかで健康的な肌と、美くしくもあり、かわいくもあり、とにかく、一目ぼれをいてくるような表情である。



「中沢くんよね……覚えているかしら。三年間同じクラスだった鶴橋霞つるはしかすみよ」



 鶴橋霞――という名前を聞いたとき、哲道は、すっかり大人になった精神が、一気に青春に退いていくのを感じた。言われてみれば、彼女は、高校生の時に、ずっと恋心を抱いていた相手、霞だった。



「いま、思い出したよ。それにしても、よく僕が分かったね。当時より、だいぶ老けた気がしているんだけれど」

「そうかしら?」



 霞は微笑した。いままで見てきた女性の微笑の中で、一番かわいらしい微笑だと思った。そして、かつて正面から見ることができなかった、微笑だった。



「私は、あまり変わっていないと思うけど。その、マジメそうな顔……あの時と、ほとんど違わない」

「鶴橋さんも……あの時より大人びたけれど、当時から大きく変わってないんじゃないかな」

「本当に? もう三十を越えちゃったし、自分の姿が、どんどん古くさくなっているような気がしていたから、お世辞でも嬉しい」



 静寂は、すっかりどこかへ逃げてしまった。夕陽もまた、どんどん地平を滑っていった。それを追うように、空には点々と星々が見え始めていた。



「その小説、昔話題になったやつよね?」



 霞は、哲道が右手に持っていた文庫本を指さした。



「十数年くらい前かな……X賞を取って、この作家はテレビにも出るようになって――」

「もう読んだの?」

「ここでページをっていて、すでに読んでいたことを思い出した」


「おもしろかった?」

「ううん……僕は好きかな」


「ハッピーエンドになる?」

「ひとによって感じ方は違うと思うけれど、僕は美しい終わり方だと思った」


「そう……じゃあ、私、買おうかな。中沢くんが買わないなら」



 会話をしてからというもの、霞が、どこか落ち着かない様子をしていることに、哲道は気づかなかった。哲道は、右手に持っていた文庫本を、霞に手渡した。



「実家の本棚をひっくり返せば、たぶん出てくるから、鶴橋さんが買えばいいと思うよ」



 甘い華の香りがする――哲道は、それが霞の香水のかおりなのだと、いまさらながら気づいた。


 この街に宇宙の幕がおりてきた。地上からは遠近法が通用しないはずの宇宙が、今日だけは立体的に見えそうな――そんな日だった。

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