伊ノ守 静

枕元の携帯がいつもより早く軽快なメロディーと共にその身体を震わせる。冷蔵庫みたいに冷え切った部屋で、私は布団の中から手を伸ばしアラームを切った。まだぼやけた瞳で隣をそっと覗き込むと彼の姿はもうない。扉の向こうからポットの蓋が水蒸気に押されてカタカタとなる音が聞こえた。私は猫のように丸まってまだ残っている彼の温もりを抱きしめた。

また眠ってしまう前にと勢いよくベッドから飛び出して箪笥の上に置きっぱなしのタートルネックを被りながらキッチンに向かう。淡い青色の光が差し込む部屋で、コーヒーを飲んでいた彼は私を見て「おはよう」と言った。

ベーコンと卵とトースト、それから即席のコーンスープ。私は慣れない手つきでフライパンを握りながら朝食を作る。いつもより少し大変で、いつもより幸せな時間。

出来上がった朝食をダイニングテーブルの上に並べる。コーヒーのおかわりを淹れに来た彼はマグカップをもう一つ出して私のために紅茶を淹れてくれた。私の作ったご飯は大抵上手くいかない。カレーを作ればジャガイモには芯が残っていてオムライスを作れば卵が途中で破けてしまう。そして今日も、目玉焼きとベーコンには苦い焦げが付いている。

朝食を食べ終わった私は彼の淹れてくれた紅茶を飲みながら彼のことをじっと見つめる。彼が何も喋らないから部屋はとても静かだ。彼とこの部屋に住み始めてからどれくらい経つのだろう。部屋の隅に埃が溜まって休みの日になったら掃除して、それを何回繰り返しただろう。何度も何度も掃除をして、それでもきっと、取りきれない埃が奥の方に積もっている。それくらいの時間は一緒にいるのだろう。私はふとそんな事を考えた。

我儘なのは分かってる。でも、たった一言が欲しくて私は彼を見つめる。

ふと目が合った。彼は笑った。そして私の飲めないコーヒーを美味しそうに飲んだ。私は堪らなく嬉しくて溢れそうになった笑みを両手で掴んだマグカップで隠した。


陽の光が眩しくて休日なのに今日は早く起きてしまった。良く晴れた昼下がりに窓から暖かい風が部屋を吹き抜けた。私はぐっと両手を上げて大きく伸びをした。

テーブルの上には誰も飲まなくなったコーヒーのボトルが差し込む陽の光を浴びて煌めいている。

いつかの春。私がまだ大人でも子供でもなかった頃の話。

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