かぞくのじかん
水綺はく
第1話
目を閉じて深呼吸をする。
ベッドに腰を下ろした私は綺麗に整えられたブルーの花柄シーツをそっと撫でる。
母親が整えた私のベッドは毎晩、いくら私が寝返りを打っても学校から帰って来れば元の美しさに整えられている。
私はそのシーツを撫で終えると強く爪を立てた。強く爪を立てて上下に小刻みに動かす。
それから立ち上がると私のお尻で凹んだ羽毛布団を眺めた。
私はこれしか出来ない。それだけ自分は無力で無知なのだ。
早く大人になりたい。あと一年とは言わずに明日にでも中学を卒業して、明後日には高校を卒業して、そのまま家を飛び出したい。
子供なんて良いことなど何もない。
子供は親に都合よく利用される道具に過ぎない。だから私は早く大人になりたいの。その一方で大人になることに怯えているの。
大人になったらあの人たちのようになってしまうのが恐い。だってあの人たちになってしまったら理解力が著しく低下してしまうから。見える世界が鏡越しの自分だけになってしまうから。
一階から二階へ階段を上がる音が聞こえてくる。床を踏む足音が一歩二歩…ゆっくりと近づいて来る。
ギシギシと音を立てる。この音が世界一嫌い。魔物が忍び寄る音だ。
ガチャッ
ドアを開ける音が聞こえた瞬間、キュッと目を瞑った。
「あ、いた!何してるの?」
母親がドアから顔を覗かせて凝視する。
「別に…何も?」
再びベッドに座って小首を傾げる。
母親は一瞬、懐疑的な目を向けたがやがて興味なさそうに、ふーん…。と返した。
それからいつものように言う。
「家族の時間よ。下に降りてきなさい。」
ドアを閉めて下に降りる母の足音を聞く。
私は緊張から解き放たれて脱力するとそのままベッドの掛け布団をぐしゃぐしゃに乱した。
家族の時間よ。
今日も「かぞくのじかん」が訪れる。
私が生きている中で唯一、嫌いな時間だ。
今日も地獄の一時間が待っている。
ベッドを乱したまま下に降りた私はリビングに置かれた木製のテーブルを見つめる。
ご飯、味噌汁、野菜炒め、麻婆豆腐が四人分並べられていた。木製の椅子が二つ並び、向かいにもう二つ並んでいる。その中で一番、テレビから近い席を父親が占領して新聞を開いていた。
「早く座りなさい。」
父親が私を一瞥してそう言うとまた新聞へと目を移す。
ここは独裁国家だ。
独裁政権を握る大統領は父親。副大統領は母だ。
彼らはいつでも自分たちの意見が正しいと主張し、国民の話を聞こうとしない。国民とは即ち私達。私と姉だ。
「光子はまだか。」
父が母を見る。
「さっき呼びに行った時は今行くって返事したのに…」
母が困った顔で父の隣に座る。
「今行くって言ったらすぐに来るのが常識だろ!そんなんじゃ働き出した時、すぐクビになるぞ!」
父が荒ぶった声を上げる。
「本当にそうよ。私達にどれだけ守られているのか子供だから分かっていないのね。」
母が同意する。
「麻子、光子を呼びに行ってきて。すぐに来なかったらご飯は抜きだって言ってね。」
母に言われて私は頷くと階段を上がった。
お姉ちゃんは高校二年生だけど父と母から言えばまだ子供らしい。
子供だからかぞくのじかんが必要で子供だから親の言うことを聞かなければいけないらしい。
そうしないと大人になった時、私達は仕事をクビになって幸せな結婚が出来ないと言っていた。誰にも愛されないとも言っていた。
誰にも愛されない?
言うことを聞いていればどういった人々に愛されるのだろう。
愛してくれる人々が父や母のような人たちなら私は別に誰にも愛されなくてもいいかもしれない。
父と母は誰にも愛されないことは孤独で惨めでみんなに笑われて不幸せだと言うけれど、それでかぞくのじかんから逃れられるのならそれはそれで羨ましい気がする。
階段を上がる際、床が軋んだ音を立てる。
淡々と上がって姉の扉を叩いた。
「お姉ちゃん、ご飯だって!早くしないと晩御飯抜きになっちゃうよ!」
数十秒、返事を待ったが何も返って来なかった。
短くため息を吐いてドアノブに手を回す。
ガチャッ
ドアを開けると部屋が真っ暗だった。
ドア横にある電気のスイッチを押すと部屋内が明るく照らされた。
お姉ちゃんの姿はなかった。
キョロキョロと見回す。
するとカーテンと窓が開け放たれていた。
私は慌てて窓辺へ走る。
心臓の鼓動が速くなっていく。
ドクドクと音を立てていた。
窓の外へ顔を出すとすぐに下を見た。
上から覗いた地面はいつも通り、母が植えた鉢植えが並び、私と姉の自転車が置かれていた。
ほっと胸を撫で下ろす。心臓の鼓動が少しずつ落ち着いていく。
ため息を一つ吐いて窓を閉めた。それから再び辺りを見回す。
姉の勉強机にメモ書きが置かれていた。
それを手にすると文章を読み上げる。
麻子へ。
お姉ちゃんは逃げます。
自由を求めて逃げます。
これが正解か分からないけれど私はあの人達から逃げます。
私に言われるのはムカつくかもしれないけれど麻子は高校を卒業するまで逃げずに我慢してね。
それで私よりも頭が良くなって強くなってね。
そしたらいつかまた会おうね。
姉の文章を読み上げると私は顔を上げた。
姉の勉強机には私と同じように母が貼った世界地図が見える。
この方が教育的に良いと母が言っていた。
世界地図の世界は無限に広い。それがこの小さな部屋にいつも閉じ込められている。私も姉も同じように閉じ込められている。
姉は今、この世界地図のどこにいるのだろうか。
姉から貰ったメモ書きを小さく折り畳んでポケットにしまうと私は再び窓辺に向かってカーテンを閉めた。
赤い無地のカーテン。これは母の趣味だ。
私はそれから何事もなかったかのように扉を閉めて最期に祈った。
どうかお姉ちゃんが幸せでありますように。
どうか私も幸せになれますように。
「かぞくのじかん」がなくても生きていけますように。
かぞくのじかん 水綺はく @mizuki_haku
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