06

 走れ。走れ。走れ。


 背負った片割れを離さないように。

 ふたつに分かれた尾びれが突っ張る。尾びれが地面を蹴るたびに響く衝撃と交互に動かす尾びれが余計に頭を混乱させる。

 とにかく物陰に隠れないと。


 路地の裏。ゴミ袋の積み上げられた影に双子はいた。


「クリソ……?」

「アレク! 起きましたか……! よかった」


 あまり匂いのしない柔らかいゴミ袋に体を預けながら、アレクは気の抜けた笑みを溢す。


「ありがとーね」

「いえ、アレクこそ、ケガは? あの人間が薬を渡してきたようですが」

「んー本物だったみたい。少し痛くなくなったぁ」


 いい人だったのかなぁ? と冗談混じりに笑うアレクに、クリソも安心したように微笑む。


「すみません。アレク。少しだけ休ませてください。肺呼吸も尾びれで走るのも、少しきつくて」

「ん。いーよぉ。今度は俺が見張ってるから」


 帽子を被れば人間の姿になれるとはいえ、普段の呼吸ともヒレとも違う感覚にクリソは疲弊していた。

 しかし、川も海も、水槽すらない街中で、人魚に戻れば窒息する。

 アレクと手を取ったまま、体を休めるため、目を閉じる。


 ぽたりと頬に感じる冷たさに目を開ければ、雨が降っていた。

 乾いた体に染み渡るような感覚に、気を抜いていた時だ。ふと聞こえた足音。

 こちらに向かう足音は、ゴミ山から少し離れたところで足を止めた。


「メインストリートを逸れただけでこの有様だ。嫌になるな」


 息を潜める双子はいつでも動けるように、ゴミ山の向こうの気配に集中し、自ら伝う電流に体を跳ねさせた。


「ギュィイッ――!!」


 電気の弾ける音は数度鳴り、その度、体は跳ね上がる。

 最後には、ゴミに火が付き、双子の体を炙った。

 たまらず地面に転がり出る双子の前には、黒いレインコートを着た集団が立っていた。


「こいつらで間違いないな」

「はい。クライアントからの依頼は、この2匹です」


 また捕まるのかと、動かない体で睨みつければ、ひとりが取り出した鉈に息が詰まった。

 海での命のやり取りは、どちらも命がけだった。食うか食われるか。生存競争というやつだ。人間との戦争も憎しみや楽しさがあった。

 ただ依頼だからと、感情もなく、作業のような殺戮を目の当たりにしたのは始めてだった。


 手が、足が、震えた。

 回避できない死に、自然と、口は開いていた。


「お願い、します。アレクだけは、助けてください。僕はどうなっても、構いません」

「クリソ!? 何言ってんだ!?」

「お願い、です」


 承諾されるわけがない。なのに、懇願せずにはいられなかった。

 

「泣けるな」


 男が一歩近づく。


「だが、依頼は”アークチストに落札された人魚をバラシて、屋敷に捨ててこい”なんでな。

 悪いが、死んでくれ」


 振り上げた鉈が、鈍く光る。

 大事な片割れが、名前を呼ぶ声が遠くに聞こえた。


 ――助けて。


 そんな言葉すら言えなかった。


 その時、強く風が吹いた。


「随分と個人的な恨みじゃない」


 薄暗い世界の中、淡く、しかし確実に輝くそれに目を奪われる。


「星の導きよ。その証左を示せ」


 彼女の周りに輝く光は、ただ点滅しているだけだというのに、見るものを圧倒する何かがあった。


「今の私はだいぶおかしいから、逃げるのなら早めをお勧めするわ」


 光は点滅をやめ、輝く。


「貴方たちに、星の導きがあらんことを」


 きれいな微笑みと共に、辺り一帯は光に包まれた。


 コツリという音に顔を上げれば、先程噛み殺したはずの人間が、自分たちを見下ろしていた。


「立てる? 家に帰るわよ」


 手を差し出すことはせず、コーラルはふたりが自分の足で立ち上がるのを待つ。


「――ブラット」


 来るなり、ゾイスが吐き捨てた言葉に、コーラルも苦笑を溢す。

 言いたいことはあるが、後始末のため、知り合いに連絡をつけ、コーラルを抱え上げる。

 後ろにいたふたりへ手招きするコーラルに何も言わず、車へ放り込んだ。

 おずおずといった様子でついてくるふたりが、乗り込むのも黙認し、自宅へ向かった。


「後始末に行ってくるが、今日はもう大人しくしていろ。いいな」


 有無を言わさず、ゾイスは出て行ってしまった。

 屋敷よりも狭い部屋で、コーラルはベッドに座り、横になった。真似するように、アレクもコーラルの横に寝転がる。


「今日は、薬だけ飲んどきなさい。そこらへんに痛み止めならあるから」


 ベッド脇に置かれた薬袋を手にして、ふと手を止める。


「これ、効くか……?」


 人魚用ではないし、もしかしたら効かないかもしれない。しかし、自宅ならまだしも、ゾイスの家に人魚にも効果のある薬があるはずもなく、今から作る体力もない。


「物は試し」

「え、雑」


 アレクが驚きながらも、薬を受け取り、不思議そうに弄ると、PTPシートの継ぎ目を割り、口を開いた。

 その様子に慌てて、アレクの腕を掴めば、不機嫌そうに睨まれる。


「何すんだよ」

「こっちのセリフだ。このタイプ使ったことなかったのか……これは瓶替わりだから飲まないの」


 実際に錠剤を取り出して、アレクの手に乗せれば、感心しながらそれを飲み込んだ。


***


 寝息が響く部屋。

 こうしてベッドで眠るのは、いつぶりだっただろうか。

 こうして、アレクが安心した表情で眠るのはいつぶりだっただろうか。


 あの日、狩人に捕まってからというもの、卑しい連中に売られ続け、幻想を押し付けられた。

 アレクの隣で眠る彼女も、きっと同じ。

 だから――


「――」


 脳裏に浮かぶのは、あの精霊の光。

 いままで海で見たものとは比べ物にならない輝き。


 あの輝きに惹かれるものが無いといえば、嘘だ。だが、今、ここで彼女を殺せば、逃げ出すことができる。


「ダァメ」


 繋いでいない手で彼女の首元を隠すように覆うアレクに、言葉を失う。


「起きて、いたんですね」

「クリソ、なんかずっと悩んでるからさぁ」


 アレクは、自分に向けるのと似た表情で、眠る彼女を見つめる。


「俺はぁ、ちょっと楽しいかもって思ったから、もう少しだけ……そういや、こいつの名前知らねぇ」


 じっと見つめるが、起きる気配のない彼女。


「確か、コーラル、と呼ばれていたような……」


 確かではないが。


珊瑚コーラル? あだ名でも無くね?」

「あだ名だとしたら、随分ですね」


 翌朝、本当にコーラルだという名前と知った時に、アレクが笑い、それに怒ったコーラルを、見舞いに来たシトリンに宥められるのは、また別の話。


「クリソも思ったでしょ?」

「……はい」


 アレクに嘘をついたところで、すぐに見破られる。

 素直に頷けば、ふにゃりと微笑む。


「だからさぁ」

「わかりました。珊瑚かのじょは殺さない。だから、もう少しだけ眠って」


 また部屋にはふたつの寝息が立ち始める。

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