キルエルフ

@snoume3

第1話

「シュラ、あんた何ぼーっとしてんのよ」




呼び掛けられた少年はその声にすぐ答えようとはしなかった。


たっぷり一拍置いて声の主に流し目を遣る。


そこでようやく口を開く。




「姉さんのこと、考えてた」




彼らが今いる場所は、その全てが白で構成されていた。


壁も床も天井さえも、なぜこれほど病的なまでに白にこだわるのか、それを疑問に思う者はこの施設にはいない。


そんな異質な空間に二人、流した汗をタオルで拭きながら肩を並べ壁に背中を預け座っていた。


二十メートル四方、床から天井までは五メートル近くあり、地下に設けられた部屋としては随分と大きく広い。




「ほう?この美貌がそんなに気になるかね?まあ悪い気はしないかなあなんて、ちなみにどこが」




「姉さんはさ、なんでそんなに強くあろうとするの」




「無視かい」




いつも無愛想な弟の思わぬ言葉で一人舞い上がっていた事に居心地の悪さを覚え、彼女は困った様に笑う。


隣にいる少年はそんな彼女の様子に何を感じるでもなく、ただその澄んだ空の様な色の目をじっと向けている。




「強いのか、じゃなくて強くあろうとするの、かあ…」




「これだけ毎日飽きもせず鍛練してたら強くなるのはわかるよ」




「毎度付き合うあんたも相当だけどねえ」




抱えていた足を伸ばして、浅めに座り直し思案に耽る振りをする。


答えなんてとうに出ていて、でもそれを口にするのは少し照れ臭くて、意味が有るようで無い時間を無駄に演出してしまう自分が少しおかしかった。




「あんたらを守るために決まってるでしょう」




「…本当にそれだけ?」




「理由なんて少ないに越したことはないわよ。さ、もうすぐお昼なんだから、もう戻りましょ」




手を使わず立ち上がり、組んだ両手を天井に押し当てるように伸びをする。


腰まで届く深紅の髪が左右に揺れる。




「さっきの答えだけどさ」




「うん?何の話よ」




「姉さんの髪、綺麗だなって」




「へ?」




面食らった彼女を尻目にドアを開け部屋の外へ歩き出す。


汗はすっかり引いていた。








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「また鍛練かい、シュラ」




シャワーを済ませ着替えた後食堂に向かったシュラに廊下で声がかかる。




「うん、まあ今日も勝てなかったけどね」




「そうか、そうか」




嗄れた声でどこか楽しげに相づちを打つ白い髭を蓄えた老人。


この孤児院の院長である。


背は低くないはずだが、曲がった腰を理由に十二歳のシュラと視点の高さはほとんど変わらない。


染まりきった白髪は短く揃えられ、清潔な印象を与える。


目線の高さゆえか高圧的な印象もなく、子供達にもよくなつかれていた。




「じいちゃんは昼御飯、いいの?」




「私はもう食べたからな。スープが冷めないうちにお前も食べてきなさい」




そう言って杖をついて歩き出す。


いつ頃からか彼は杖をつくようになっていた。


心配になって訊ね、目も腰も足も悪いと複雑そうな顔で返されたのは記憶に新しい。


そんなことをぼんやりと考えている間に廊下にはシュラ一人がぽつんと残されていた。


腹の虫に鳴かれる前にと歩み出そうとしたその時、視界の端で何かが光ったような気がした。


清掃の行き届いた床に物が落ちているのは稀だ。照明を反射して鈍く光るそれは、拾ってみれば銀で出来た普通の鍵だった。


持ち手の部分には妙な彫りが施されているが、それ以外は特にこれといった特徴もないどこにでもありそうな物だ。




(花…みたいだけどよくわかんないな。じいちゃんも行っちゃったし後で渡そう)




鍵を上着のポケットに仕舞い踵を返し食堂に再び向かう。




(スープ、冷めてないといいな)








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「シュラさん、レンさんから聞いたのですが、倉庫の掃除を手伝ってくれるというのは本当ですか?」




昼食を終えて食堂を後にしようとしたシュラに声がかかる。




「だってシスターが一人でやってるんでしょ?」




「誰に頼まれた、という訳ではなく私が自発的にやっていることなのでシュラさんが気を揉む必要はないのですが…」




「午後は予定無かったしいいよ。重い物だってあるでしょ」




「…わかりました。ふふっ、シュラさんも男の子、ですものね」




なぜ自分は笑われたのだろう、とシュラが眉をひそめるが、その様子もおかしかったのか、シスターと呼ばれた女性はくすりと微笑む。


彼女はこの孤児院の家事全般を担っている。


二十人余りの孤児と十人に満たない大人達、全員の身の回りの世話を一人でこなす彼女を軽んじるものはおらず、院長ですら(元々偉ぶるような人ではないが)彼女には頭が上がらない。




彼女はシスターと呼ばれているが、その意味もなぜそう呼ばれているのかもシュラは知らない。大人達がそう呼んでいたから、同じ様にしているだけだ。




「それでは行きましょうか。そういえば、三階に足を運ぶのは久々ですね~。なんだか楽しくなってきました」




「掃除しに行くだけだよ」




にべもないシュラの言葉に気分を害する様子もなく、二人がいなくなったことで無人になった食堂の鍵を彼女が閉め、ゆるやかなカーブを描く廊下を歩き出す。


広大な地下空間に建造された孤児院は、垂直に伸びた自動昇降機を中心とし、それをぐるりと円で囲むように廊下を作り一つの階層としている。


地上の入り口から最も近い居住層を一階とし、図書室と戦闘訓練室を二階に設け、三階はもっぱら物置として使われていた。




簡易ゲートを開き自動昇降機に乗り込み、液体燃料の残量をシュラが確認す


る。


以前に燃料が底をつきかけていたときに動かしてしまったことがあり、幸い階層の中間で停止することは無かったが、大人達にこっぴどく怒られた彼の苦い思い出は未だ色褪せていない。




目盛りは半分よりやや上を指していたため、そのまま階層を指定しレバーを引く。


問題無く動作したことに満足し浅い振動を感じながらふと視線を感じ後ろを見ると、よくできましたと言わんばかりに生暖かい目が向けられていた。少しばつが悪くなり口を尖らせそっぽを向く。




無造作に手を突っ込んだ上着のポケットの中で、かちゃりと音が鳴ったが気に留める者はいなかった。








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「お手伝い頂きありがとうございました、シュラさん。お陰で夕食の準備に間に合いそうです」




エプロンについた埃を手で払いながらはにかむ彼女はどこか忙しないように見える。


手伝って正解だったな、とシュラは思いつつ、倉庫の掃除の際に外に運び出した物を再び倉庫内に仕舞っている。


二十メートル四方のこの倉庫にはところ狭しとあらゆる物が置かれており、内蔵電池が切れかけている照明が頼りなさげに辺りを照らしている。




「それでは戻りましょうか。ふふっ、お夕飯はシュラさんの好きなもの、作って差し上げますね」




「………」




「シュラさん?」




両の手のひらを合わせて微笑む彼女だが相手からの返事が無いことで、ポーズはそのままにきょとんとした顔で固まってしまう。


シュラが慌てて取り繕ったのは数秒経ってからのことだった。




「…………え?あっごめんシスター!ちょっと…気になる物があって…」




「ふふ、ここには色んな物がありますからね。鍵は預けておくので好きに見ていってください」




「…ありがとう。夕飯までには戻るから!」




笑顔でうなずいて倉庫を去っていった彼女を見届け、シュラは再び"それ"へと向き直る。


彼の興味の対象は、床に置いてある家財や奇妙な機械などではなかった。


入り口から向かって左側の壁、他の壁となんら変わりないように見えるそれをじっと見つめる。


倉庫に入ったときに感じた妙な違和感の正体。




(やっぱり、ここだけ壁が極端に薄い)




がらくたの山を押し退け足の踏み場を確保し、件の壁と向き合う。


目を瞑り意識を聴覚だけに絞り、ドアノブがあるわけでもない壁を軽く一度ノックする。


遺伝子操作による先天的な五感の強化に加え、五つの感覚の内のいくつかを意識的に鈍化させることで残った感覚を鋭敏にする荒業で、跳ね返って来た音から頭の中で壁の向こう側の立体構造を想像する。




(この倉庫よりよっぽど大きいな。それに…障害物らしきものが全然ない。空っぽみたいだ)




閉じていた目をゆっくり開き、向かっている壁をもう一度よく観察する。


一階や二階と違い、この階には作られた部屋は今いる倉庫のみのはずだった。


倉庫から飛び出し、件の空間に当たる廊下の壁をくまなく触って確めるがどこもおかしな所は無い。


あるはずの無い謎の空間への入り口らしきものは廊下では確認できなかった。




倉庫に戻りしばらく考えた末諦めて帰ろうかと考えたその時、突然視界が闇に包まれる。


ふらついていた照明が遂に力尽きたのだろう、と特に慌てることなくシュラはそう推測し、闇に目が馴染むまで少し待とうとしたが、視界の端に捉えたかすかな燐光にそっと振り返る。


眼前、先程まで無地だった壁にいつの間にか淡い水色の線で描かれた模様が弱々しく浮かんでいた。




(蓄光塗料…?………違う。これはもっと……いや、それより)




浮かび上がったその紋様には、シュラは覚えがあった。


少しだけ早くなった鼓動を自覚しつつも、慎重に白地の上着のポケットに手を入れる。




「……やっぱりすぐに返しとけばよかったかな」




取り出した鍵の持ち手には、やはり壁に浮かび上がった紋様と全く同じものが描彫られていた。


逸る好奇心を自らなだめ、そっと壁に触れる。


鍵穴らしきものは無かったため、逆に持ち替え持ち手を紋様にかざすように当てる。


瞬間、星々が瞬く。








音と光の奔流がシュラの身を包み、流れ込んだ夥しい情報量は彼の意識を容赦なく刈り取る。


警告と歓迎を告げる機械音声が喧しく鳴り響き、銀の鎖で壁に縛り付けられた無数の祭具は主を求め暴れ、血を鉄で濾したかのような赤い香りが初めからそこにあったかの様に充満する。


その全てが彼の意識に届くことなく、五感を巡り抜ける。




数分後、鎚で脳を直接殴られたと錯覚するほどの頭痛に襲われシュラは目を覚ました。


痛みに顔をしかめ、廊下の冷たい感触を頬に感じる。


自分があの壁の向こうで何を見たのか、何故ここで倒れていたのか、なにより、胸に去来する締め付けるような得体の知れない悲壮感が、今は肉体的な痛みよりも気に障り酷く気分を害していた。


ゆっくりと立ち上がり、昇降機を覆う外殻に沿って設けられた手すりに体重を預け、いたわるように目を瞑る。


握っていたはずの鍵はいつの間にか無くなっていたが、今はどうでもよかった。








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あれから三日が経ち、正体不明の感情の波に悩まされることもなくなったシュラは、一階にある院長の書斎を訪ねていた。


一階の廊下は二階三階と比べて広く、ドアの数も多い。


孤児院の子供達に知られている中では最も広く多目的に使われている食堂、主に大人達が出入りしている指導員室、部屋の中央の通路を挟んで両脇に二段ベッドがそれぞれ四つずつ置かれている縦長の子供達の寝室が二部屋、太陽光発電で溜めた電気を使い動かす衣類用の洗濯機と乾燥機が置かれた部屋などがあり、それぞれのドアの上部には部屋の名前を描いたプレートが吊り下げてあり、開くドアを間違えたりすることはない。


ドアの前に立ち軽く深呼吸してから軽くノックをする。




「入りなさい」




かすれ気味だが低く響く声が扉の向こうから返ってきたのを確認し、シュラは部屋に入る。


いつ見ても飾り気のない部屋だと、彼は思った。


壁を覆い隠す様に部屋の両脇には本棚が置かれ、一分の隙間もなく書籍が収納されている。


床には埃一つ無く、壁と化した本棚を除けばこの部屋には白い片袖机と椅子だけしか無いように思える。


腰を折り本棚を眺めていた部屋の主はゆっくりと入り口の方へ体をひねる。




「すまないがここには椅子は一つしか無くてな。長話になるようなら食堂に場所を移すかね?」




「ここの方がいいな」




「……………わかった」




地下孤児院『償いの檻』院長ワイズ・ザルヴェイ。それが彼に与えられた名だった。


少し間を置いて答えた彼は、それとわかるようにわざと値踏みするような目をシュラに向ける。


いつもの好好爺然とした姿からはかけ離れた佇まいにシュラは臆した様子も無く、毅然としている。


長話になることは否定せず、他の者に(それが指導員か子供達かはわからないが)聞かれては困るものだということをシュラは隠そうともしなかったが、ワイズにはそれが少し有り難かった。


隠れて調べられたり、会話の中でそれとなく探られるよりかは幾分かは気が楽だと彼は目の前の少年の素直さに感謝していた。




「『星の船』ってなに?」




随分と遠慮も加減も無いな、とワイズは口ひげの下で薄く苦笑いを作る。


素直さを認めたばかりだが、こうも直球で主題に入られると面食らってしまう。


この子には交渉の才能が有りそうだ、などと場違いで親馬鹿な感想を抱きつつも茶化すような真似はしない。


射抜くような視線がそれを許してはくれないだろう。




「見たんだ、三階の倉庫で」




「……入ったのか」




「入ろうとしたんだけどさ、駄目だったよ」




嘘は言っていない。


シュラは確かに入り口で"何か"を見て気を失った。


少なくとも本人の記憶では。かの部屋に足を踏み入れることは出来なかったとぼんやりと覚えている。


ただ、あの場所で音と光に打たれている中、外ではなく内で『星の船』という言葉を聴いた気がした。


シュラが"見た"と言ったのは、その時は文字をそのまま脳に叩きつけられたようなイメージが根底にあり、五感のどれで受け取ったものなのか判然としなかったためであった。


ワイズは受け答えこそしていたものの、彼の頭の中では何をどこまで話していいのか、ただそれだけをひたすら思案していた。




「……順を追って、話すとしよう」




結局自分を見つめる空色の視線に根負けし、知っている全てを打ち明けることにした。


決して抱える秘密の重さを分かち合うためではない。


灰と黒が混ざりあった髪を人差し指で弄りながら、シュラは話の続きをただ待っている。


全てを話すことに変わりはないが、それは言葉を選ばなくていいというわけではない。


覚悟を決めたワイズはゆったりとした口調で語りに入った。




「この施設はな、元々は孤児院などではない」




それはシュラもどことなく察しがついていた。


居住区だけならまだしも、戦闘訓練室などという孤児院には不釣り合いな物が存在すること、なにより入院している孤児達は例外無く何かしらの異常を抱えている。


そのことにシュラが気付いたのは十歳になってからのことだった。




「魔法の使えぬ我々『耳無し』が人類に対抗するために作り上げた存在、それがお前達だ、シュラ」




「……」




「この地下シェルターの元々の役割は『研究所』、『監視塔』、それから『墓』だ」




衝撃を受けるほどの事実ではない、とシュラは拍子抜けしていた。


自分の身体が生まれつき人と違うことも、孤児院の指導員のこちらを見る瞳に猜疑に似た物がたまに混じっていることも。




「私の祖先は間違えたのだ。人の道を軽んじ、踏み外し、消えぬ呪いを振り撒いた。地上を追われる恐怖はかろうじて機能していた倫理観を狂わせ、結果、数千の同胞を犠牲に特異な身体を持つ者達が誕生した。代を重ねるごとにその異能は血に馴染み、骨と交わり、やがて地上の人々に対抗し得るまで昇華された」




━━最も、そのころには地上に『耳無し』達の居場所は無く、手段と目的は入れ替わったまま研究は続けられていたがな、と、目を細めうわ言のようにワイズはこぼす。


その瞳には一分の哀愁も無く、口許には皮肉げと見てとれるほど薄い笑みが浮かんでいたが、彼らの背景事情にそれほど興味が無かったシュラは無言で話の続きを促す。




「ここ二百年で風向きは変わり、地上ではどこの国も耳無しを受け入れる動きが活発になっている。結局、祖先のしたことに大した成果は無く、意味の無いものだったのだ。……いや、お前達に降りかかった『呪い』を考えれば、独善的ではた迷惑な悪行とすら言えるだろう」




「……うん」




実を言えばシュラは他人と違う自分の身体のことは悪く思ってはいなかった。


平均的な寿命の半分ほども生きられないと伝えられたときは世の理不尽さに憤りそうになったが、この力があったからこそ今生きていられるのも事実だった。


ただ、段々と熱を帯びていくワイズの語りを邪魔するのは悪いと思っただけだ。




「お前達を作り上げた我々には責務がある」




我々、と言ったワイズだが、先の彼の言の通りシュラ達を作り上げたのは彼の遠い祖先であり、彼自信が発案したわけでも研究に携わったわけでもない。


しかし彼の声には自責にも似た重苦しい響きが醸されていた。




「私の父はいつも悔いていた。その身の強さゆえ争いに用いられ、その身の脆さゆえ人知れず苦しみ、その身の儚さゆえ死は重く映る。お前達のそばに常にいたからこそ、治せぬその病は父を苦しめたのだ」




「……医者、だったんだ」




「ああ。正確には研究者だが…、表向きには南方国境の野戦病院の院長だったのだ。遺伝するお前達の呪いを治すために、日夜机に向かって分厚い資料と独り会話していたよ。


そんな姿を見て、そしてお前達のように生まれながらにして苦しまねばならぬ存在に触れ、いつしか私も父の背を追っていた」




先程より穏やかに、感情の色を瞳ににじませ語る彼をシュラはただじっと見ていた。




「今述べた通り、お前達の身体の"それ"は一代限りのものではない。継承し、骨身に馴染ませ、先鋭化していく。能力はより顕著になり、かつて祖先が夢見たものを体現してくれるだろう」




「そして、大人になる前に死ぬ」




継ぐ言葉をシュラに取られたワイズは思わず閉口してしまう。


元々この少年は感情を表に出したがらないところがあったが、体の芯まで凍りつくような冷たい目と声色は意識して作られたものなのか、はたまた自分の意識がそう見せているのか。


今のワイズには判断がつかなかった。




「……………私の父は危惧していた。お前達の三代前、曾祖父母にあたる代から急激に平均寿命が縮み始めたのだ。死因は例に漏れず多臓器不全だが、それにしてもあまりにも早すぎた。


その事態を受け、父は自らの病院を後継に任せ、忌むべき地に足を運んだのだ」




「……それがここなんだ」




「地上の人々が寄り付けぬ、血と錆と瓦礫の海。その地下に祖先は根城を構えた。


祖父に場所を知らされていた父は、私を連れてこの場所を訪ねたのだ。


無人ではあったが施設も資料も生きていた。


それから私達親子は研究を続け、協力者を募り、やがて大人の被検体が少なくなっていき今に至る。


お前達に少しでも恐怖を与えないため、…………いや我々の罪悪感の表れか、いつしか孤児院を名乗り、耳無しの戦争孤児を引き取るようになっていた」




地上の人々に身体能力で劣る耳無しだが、『呪い』を身に負っている場合は別だ。


高い戦闘力と再生力で相手を選ばず重宝される。


そして、その場合人々に利用され、望まぬ戦場に駆り出されることも少なくない。


死亡率の高さとそもそもの寿命の短さも相まって、『呪い』を受けた親の子は戦争孤児になりやすい。


なんとも醜い打算だ、と心の中で毒づき、ワイズは皮肉げに笑うことすら出来ず顔をしかめる。




「『償いの檻』と銘打った通りだ。ここは私にとっての檻だ。無論、お前にとっても、だがな」




「俺はここが檻だなんて、思ったことないけど」




あっけらかんと告げられた言葉にワイズは驚くことはなかった。


この子はそういうものだった、と改めて思い知らされただけだ。


外の世界を知らないからだ、とは言えなかった。




「………………ひとまず、一区切りだ。


……あまり、驚いてはいないようだな」




「うん、まあ。実は悪い人でした、とか言われたらちょっと困ってたかもしれないけど。でも、今の話からどうやって『星の船』に繋がるの?」




ワイズが話したのはあくまで"今の"この施設の成り立ちだ。


シュラは与えられた情報を噛み砕くために変に思考を巡らせようとはせず、聞きの姿勢に徹していた。


ワイズもそれがわかっていたのだろう。これまで纏っていた重苦しい空気は脱ぎ去り、普段の好好爺然としたものともまた違う、どこか若々しさをたたえた笑顔で語り始める。




「父が死んで少し経った頃だ。研究内容の引き継ぎの際に資料の整理をしていたのだが、三階の旧資料室、今の倉庫に当たる場所だな、そこで奇妙なものを見つけた。ぼろぼろの装丁と掠れたインクで表紙に書かれた『日誌』の文字。


当時、ここにある物は全て漁りきったと思っていた私は、これで研究が進むと小躍りをして喜んだものだ」




「……その口ぶりだと」




「ああ、私が望んでいたものはそこには無かった」




陰りを差すワイズの顔をじっと見ていたシュラは、どことなく不自然さを感じていた。


随分と"明るく"曇るその表情は、まるで物語の起伏を演出するような恣意性を孕んでいる。




「がっかりしたものだ。


人類の発展だの、自由の奪還だの、言い訳がましく毎日毎日飽きもせず、名も知らぬ誰かへの恨み言が書き込まれていた。


いい加減嫌気が差し、紙を捲る手を止め帳を閉じようとした時に、ふと最後のページが目にかかった」




「………」




「綴ることに飽いたのか疲れたのかはわからんが、日誌は半分から先が余白になっていた。


しかし、余白を飛ばした終の頁には確かに文字が刻まれていたのだ」




ワイズは白衣のポケットからおもむろに鍵を取り出し、白い片袖机の一番上の引き出しの鍵穴に差し込み半回転させ解錠する。


取り出したのは薄汚れたノートだ。


シュラは一目見て、それが件の物だろうと推し量る。


何も言わなかったシュラを見て、説明は要らぬだろうと思いワイズはそっと、ノートを手渡す。








『━━━━━━━━空より高く、『星の船』。


それが"ここに着いた"時に聴いた、音ならざる声だ。


古き神々の戦の地だ。不可思議なことなど起きて当然だろう。


興味が無いわけではないが、私にはやらねばならないことがあった』








ノートの最後のページをそこまで黙読し、シュラは少し狼狽していた。




「ここに……着いた…?」




シュラはこの地下施設はワイズの祖先である彼らが作った物だと半ば確信していた。


だがこれではまるで




「この『祭壇』を作ったのはおそらく私の愚祖ではないだろう。奴らはあくまで元々あった物を利用していたに過ぎん」








『いつか、いや、あり得ぬことだが、私の悲願が成されることがあれば。


伝えたいことがある。


神なる彼らに』








シュラは確かな胸の鼓動を感じていた。


突如溢れだした未知に、彼は好奇心を隠そうともしない、いや出来なかったと言った方が正しいだろう。


食い入る様にノートを見つめる彼を、ワイズは微笑ましげに眺めている。


『終の世代』の長兄であるシュラは孤児達のリーダー的存在であり、感情は表だって見せず行動で妹や弟に示しをつけていた。


それを子供らしくないと咎める大人はここにはいなかったが、どこか心苦しく思っていた者は少なくない。ワイズも例外ではなかった。


久しく見ていなかった少年らしい年相応な表情に、彼もまた自然と頬が緩む。




「『星の船』が何かは私にもわからない。確かめようにも、老い先短い私に一から研究する時間は残されていないだろう」




「そんなこと……!」




「だから、シュラ。お前が確かめるんだ」




たしなめるような優しい口調でワイズはそう告げる。


シュラは再び視線をノートに落とし、薄い表情に悲痛さを滲ませる。




「研究なんてどうやればいいのかわからないし!答えがわかる保証だって無いよ…


それに…」




「…」




「それに…じいちゃんより、俺の方が先に死んじゃうから」




十二歳の少年にさせていい顔ではない、とワイズは彼から目を背けず、頭の中に浮かんだその場凌ぎの慰めをかなぐり捨てる。


自分の運命をわかっていながら、それでも自暴自棄にならず弟や妹の手本になろうと誰よりも努力していた彼に、随分と酷なことを言ったことは理解していた。


ゆえに、考え無しにこんな話はしない。




「聞きなさい、シュラ」




言葉の代わりに返される瞳は、雨の色。


決壊しそうな感情を理性で押し留めているのが手に取るようにわかる。


ワイズは逸る心を抑えつけ、優しく、まるで寝物語を読み聞かせる様に、告げる。




「お前達を縛る短命の檻は、過剰な細胞分裂に伴う若年での細胞分裂限界によるものだ。


高い身体能力を得るために外された筋力へのリミッターと、それに付随する自壊への回答である再生。


厄介なのはこの再生の方だ。


今はまだいいが、年頃が二十を超え身体が出来上がると活性が顕著になる。


分裂組織を過剰に働かせ、極限まで高められた自然治癒力によって、内外問わず傷や病に強くする。


それに伴い、常人の数倍の速さで消費される定められた細胞分裂の回数に従い、若くして死ぬ。


戦士として作られた宿命だ」




用意していた原稿を読み上げるような淡々とした硬質な喋りになっていたのは意図してのことだったのか。


ワイズもそれを自覚できないほどには緊張とも呼べる強ばりを面に出していた。




「父はそれを早期に見抜いていた。


だが、同時に対処の困難さも理解していた。


お前達の呪いを解く事は、言わば寿命の延長。医学、神学への挑戦だ。


たった二代で結実へ漕ぎ着けたのは数多の犠牲があったからだ」




大人しく話を聞いていたシュラがそのこわばっていた目を見開く。


叫びだしそうな衝動を抑え、聞きに徹する。




「死ぬとも知れぬ薬品を、笑顔であおいだ者がいた。


震える腕に爪を立て、痛みを痛みで拭う者がいた。


明日を捨て、未来を願う者がいた」






「お前達は確かに、怨嗟に抱かれて生を受けた。


だがな」






「生まれてから…いや。


生まれる前からずっと、祝福され、願われているのだ。


名も知らぬ者達が、お前に生きて欲しいと。先の無い身体を笑って差し出したのだ。


長い臨床試験を経た今、最終的な調整に入り二ヶ月後にはお前達に少しずつ、経過を見ながら投与することになっている。


随分と、かかってしまったがな」




涙は見せない。


彼らが大人になった時に、取っておこうとワイズは努めて笑顔を作る。


彼の歪んだ背中も、くぼんだ左目もまた、治験によった生じた"犠牲"であったが、それを自ら口にするのは憚られた。


『雪解けの薬』と名付けられたその薬は、細胞分裂回数の限界を延ばすのではなく、分裂組織の活動を抑えるものだ。


単純で至極まっとうな答えだったが、途中式には親子二代五十年の時を要した。


分裂組織の抑制は加減一つ誤るだけで死に直結する。


年齢による活動状態も異なるため、膨大なサンプルが必要とされ、『呪い』の強大さにワイズは屈しかけた事も何度かあった。


一人では到底成し得なかっただろう。






「つまらぬ檻は、もうどこにも無い。


お前も、イリスも、子供達も。


みな、大人になれるのだ」




「………………姉さんも?みんなも?」




シュラは、未だに信じられないという顔をしていたが、それは猜疑とはほど遠い。


本当に信じていいのかと、ただその瞳は問うていた。


顎を軽く引き無言で頷いたワイズはとても満足げだった。


シュラの頭からは鍵の事などすっかり忘れ去られていた。






━━━━━━━━━━━━━━━━━








神歴644年。非管理区域よりさらに東、旧戦場跡『羊の寝床』。


古戦場を謳うその地に実際に血が流れたのは数世紀も前だが、未だ鉄錆の匂いが色濃く漂っているこの場所に人の気配はない。


辺りに散らばる瓦礫の山は見渡す限りどこまでも続き、鈍色の空をそのまま写している。




「そろそろかと」




短く切られた言葉。最低限に絞られた報告は事態の性急さを表しているかのようだった。




「本当にこのような場所にあるのですか?」




「確かな情報だとは残念ながら言えんな。


上からは具体的な話はされなかったが、ともすれば我々の国そのものを揺るがすものだと捉えてもなんらおかしくはない」




沈みかけている夕陽が伸ばす影の数は六つ。しかし古戦場跡に入ってからは先頭の二人以外は相づちすら打つこと無く、何かを堪えるように奥歯を噛み締め苛立たしげに足下の瓦礫を蹴飛ばすように歩いている。




神室直属戦闘部隊『天の槍』。神国ヴェスタの非公表戦略部隊である彼らが自国領土から更に東にあるこの場所を(禁域への侵入が他国に知られた場合国際的な場での批難は避けられないにも関わらず)闊歩しているのには当然理由がある。




「決議無しで我々が即時召集されたのだ。不確かな情報筋、作戦会議の省略、なにより兵装の制限無しときたものだ。上もおそらく相当焦っている」




「……………やはり歴史書絡み、でしょうか……?」




「我々にも詳細な内容は伏せられていた。つまりはそういうことなのだろう。余計な詮索は命を縮めるだけだ」




丁寧な上官の返しの中に硬質な響きが混じる。


彼らの過去の任務には常に柔軟な対応力が求められてきた。


情報目当ての潜入から大規模破壊工作に至るまで、幅広い能力が求められ、また一つの失敗も許されることはない。


敵国の機密を握ったことも少なくなく、表だって戦う兵士達よりも間接的に背負う命の数は多い。ゆえに入念な作戦会議や、過剰戦力投入による過ぎた破壊への懸念ゆえの兵装の制限が常に慎重に行われてきた。




実を言えば数日後に隣国への領土返還要求を旨とした国際会議が控えていた。会場になる場所はヴェスタ側で指定することが出来たが、その譲歩を引き出すために屋内での護衛、警備はあちらの意を大きく汲む形になっている。


少数かつ閉所での戦闘に優れた彼らの部隊が要人の警護に選ばれたのは半ば当然であり軍上層部で異を唱えるものはいなかった。


そこに舞い込んだ今回の任務は異質だった。




「…杞憂で済めば良かったのだがな」




後ろで部下の身体がこわばるのを感じる。


眼前に広がる辺り一面の波立つ瓦礫の海に一ヶ所だけ、ひどく凪いだ異様な空間が存在している。


同心円状に等しい力で押し退けたとしか考えられない寄せられた瓦礫が半径二十メートルほどの円を作り、赤茶色の地面を露出させていた。




その中心とも言える場所には、一辺が大人の背の二倍以上もある正方形の鉄製の板が一枚、何かに封をする様に置かれている。


あまりにも不自然なその光景に自然と隊員達の警戒は高まっていた。




「………隊長」




「…ああ」




鉄板の厚さは五センチほど、特殊な素材でも無い限り持ち上げて退かすことは難しくない。


辺りに罠らしき物も無いが、しかし任務の重要性が警戒度を下げることを許さない。


部下一人に指示を出し、両端を向かい合って持ち上げ慎重に鉄板をずらす。


意外なほどに簡単に動いたそれをそっと地面に置き、隠されていた何かが沈みかけの夕陽に照らされる。


現れたのは地下へと続く石で出来た階段だった。






少しの水分補給と簡単な段取りを決めるミーティングを済ませ、隊長と呼ばれた男は、最後に部下を一人ずつ視線を気取られぬ様に見遣る。


四人はいずれも顔色が優れず、たゆまぬ鍛練によって身につけた気丈な振る舞いは、逆に痛々しささえ感じる。


唯一、先程から報告を兼ねた雑話をしている部下は慣れか耐性か、自分と同じくらいには意識が回るようだ。


ただそれでもやはり違和感は拭えないのか、苦虫を噛み潰した様な顔で拳を閉じたり開いたりを繰り返している。




(仕方ないとはいえ、やはりこの地にあてられているか。かの学院の推薦などでなければ新米など……いや)




先の思考を頭の隅に追いやる様にかぶりを振り、自分の装備の確認へと戻る。


連れてきてしまったものはもうどうしようもなく、今考えたところで苛立ちの種にしかならない。




(『工房』につき戦闘員は配備されてないというのがもたらされた情報だ。真偽はともかく地下空間で大規模な破壊を招く真似は避けたい。)




「総員聞け」




重く響いた声に背筋を正す隊員達の顔は少し前に比べて血色が戻っていた。


それぞれが装備の確認を終え、今は指示を待っている格好だ。




「これより突入を開始する。先ほどのミーティング通り新入りの内二人はここで待機だ、残り二人はついてこい」




「はっ」




揃った返事に満足し、腰に差した愛用の剣の柄を軽く撫でる。




乾いた風が一陣、戦場を洗うように野吹く。


血が流れるのはこれからだと、知らぬがままに。








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とある日の午後。


いつものように近接戦闘訓練を終え、射撃訓練用の的を並べながらシュラは上機嫌を隠そうともせず問いかける。


月に一度見られるかどうかの彼の薄い笑顔は、この日は大安売りと言わんばかりに振り撒かれている。




「あんたねえ…一回勝ったくらいでそんな長年の夢が叶ったみたいな顔やめなさい」




対するイリスは少し不満げだった。


シュラの顔に浮かんでいるのは客観的には微笑と捉えるのが精一杯の控えめなものであり、見る人が見れば彼女の表現は少し大げさであった。


ただ、シュラの心情的にはあながち的外れでもなく、人より"感情豊か"であるがゆえ表情や纏う空気をコントロール出来る彼にしては、発露がわかりやすいのも事実だった。




シュラは的を並べ終えると床に置いた横長の黒い工具箱から、自分の愛用する回転式拳銃『薄月ネメア』を取り出し、動作の確認を施す。


彼は就寝前には必ず薄月に触れ、細部の点検を行っているため錆はおろか埃一つ付いていないのは当然である。


毎日触っては逆に汚れたり傷がつくのではとイリスは思っていたが、何事にもそう大きく心動かされない(ように見える)彼がここまで夢中になっているのなら水は差さないでおこうと決めていた。


それに彼がここまでこの拳銃に心酔している理由の一端はイリスにもあった。


シュラが射撃訓練で初めて的に弾を命中させた日、イリスが彼に褒美として与えたのが薄月だ。


灰色のグリップが彼の髪色と同じだという理由で、以前地上の骨董屋で気まぐれに漁って以来もて余していた物を渡したのだった。


だがそれにしても彼の薄月、ひいては銃や刀剣への傾倒は少し行き過ぎではないかとイリスは懸念していた。


そんな彼女の考えが伝わったのかどうかは不明だが、シュラは点検の真似事を辞めグリップを握りイリスに向き直る。




「そうだね。そろそろ姉さんが本気で不機嫌になりそうだし」




「私はそんな大人げなくありませんー!」




腰に両手を当て膨れっ面で抗議する彼女はどう見ても大人げなかったが、シュラは気に留める様子もなく離れた的に向かって薄月を構える。


入り口側を背に、二十メートルほど離れた木の的へ向かって引き金を引く。


立て板は元々真ん中がくり貫かれているため、中心への狙いを外さない限りは的を起こす必要は無い。


背後の壁の材質上跳弾は生まれにくく、そもそも拳銃の弾丸程度ならばこの二人はある程度離れていれば回避はそう難しくない。


淡々と的を揺らさず六発撃ち切ったシュラに、両手を雑にぶつけただけの拍手が送られる。




「動かない的じゃ、自慢にもならないよ」




「あんたの目なら関係無いと思うけどねぇ」




イリスが嫌々拍手を送ったのはその命中率に、ではない。


横に歩きながら無造作に片手でグリップを握っているにも関わらず、正確無比な射撃を行えるシュラの空間認識能力に対してだった。




「まあ、私は躍りながら全弾当てられますが?」




「危ないからやらないでね」




どちらが大人かわからないやり取りの後、二人は並んで立ち、シュラは右手に薄月、左手には自動式拳銃を握るアンバランス極まりない格好で。


イリスはそれと同じ型の自動式拳銃を左手に持ち、それぞれ訓練を再開する。




二人が薬莢や銃弾を掃除し終えた頃には既に午後五時を回っていた。


射撃訓練は、近接戦闘訓練に比べ運動量こそ少ないものの、集中を強いられるため消耗が激しく、シュラとイリスはいつものように訓練室の壁に背を預け座り込んでいた。


相応に汗はかいていたが、二人とも気にする様子はなく肩を寄せ合っている。


かれこれ十分ほど、お互い無言でいたが、心地よさに眠気を覚えたシュラが意識を繋ぐために口を開く。




「今日の夕飯なんだろ」




さあねぇ、とイリスが答えようとしたその時、二人の鋭敏な聴覚が階上で鳴ったその音を捕捉する。


一階で鳴り響いたけたたましい音色は、シュラには聞き覚えの無いものだった。


だからこそ、それが何を告げたのか、彼にはわかってしまった。




「シュラ!」




「…いつでもいける」




跳ね起きた二人は工具箱からコンバットナイフを一本ずつと、それぞれの拳銃を取り出し装備する。


訓練室のドアノブにかけようとしたイリスの手は、空中で止まることになった。




一階で起きた事態の対処を急ぐ二人は、しかし訓練室のドアを挟むように立ち、壁に背をつけ息を殺していた。




(昇降機を使って降りてきたのはおそらく二人。足取りからして軽武装の兵士…?)




地上での戦闘経験があるイリスは、ゆっくりと警戒しつつ足音を隠そうとする歩き方からそう推測していた。


ちらりとシュラの方を見遣ると、彼はナイフを小指と薬指だけで握り人差し指と中指を立てている。二人組なのは間違いないようだ。


軽く頷いたイリスを見て彼は目を瞑り音に耳を傾ける。




そのまま一分が経とうとしたその時、壁の向こう側で膨大かつ不明瞭な力の奔流を感じ、シュラとイリスは壁を蹴り、訓練室の中央へ避難するように跳躍する。


その直後、凄まじい轟音と共に壁が爆ぜた。








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「投降しなさい」




立ち上った煙の向こう側からそんな声が聞こえる。


女性と思われる声ながら、低く、威圧するようでいてそのどこかに若々しさが残る、そんな響きだ。




「この杖では楽に死なせることが出来ません。耳無しの醜い悲鳴など、私は聴きたくはないのです」




そう言って、瓦礫と化した壁を踏み越え訓練室に入ってきたのは、白い軍服に身を包んだ若い女だ。


装飾は無いに等しく、腰より少し高めに留められた黒いベルトが白をよく映えさせていた。


首もとで揃えられた黄色みの強い金髪、端整な顔立ちは眉間に寄せられたしわによって不愉快さをこれでもかと推し出している。


長く尖った耳は地上の人間の証だ。


礼装紛いの格好にも関わらずその一挙手一投足に隙らしいものは見受けられない。


右手に握られた金属の杖に似た何かは、おそらく先ほどの破壊をもたらしたものだろう。


厄介だ、とイリスは分析と直感の両方でそう感じていた。




(神国の隊服……魔装まで持ち出してこんな僻地の地下施設に何の用事…?)




にじるように距離を取るシュラとイリスに対して、白い軍服の女は鷹揚な姿勢を崩さず足を止め、二人に相対する。




「アウラ隊員、お喋りをしている時間はありませんよ」




アウラと呼ばれた白い軍服の女の背後から声がかかる。


それほど大きなものではなかったが、よく通る低い声だった。


声の主は瓦礫を避け、先んじた軍服の女の横に並び立つ。


二階への侵入者が二人いることはシュラもイリスもわかっていたため驚きはない。


腰を少しだけ下げ左半身の体勢のイリスに対してシュラは構えらしいものは作らず見に徹している。




「わかっています、ロバト隊員」




「ならばさっさと焼き払いなさい」




あまり折り合いが良くないのか、同じく白い軍服に身を包んだ男は随分と素っ気なく言葉を返す。


百八十センチはゆうに超えているだろう長身に、それに見合う筋肉を伴っているのが、シュラには服の上からでもわかっていた。


短く刈り上げられた黒い髪、長く尖った耳、整った顔立ち、纏う空気は軍人然としていた。




「爆ぜなさい」




アウラが右手に持った金属杖を軽くもたげそう言い放つと同時に、シュラとイリスが立っていた場所で小規模な爆発が三回発生する。


魔装によって拡張された『爆破』は目立った兆候も無く、初見での回避は熟練の兵士と言えど難しいだろうとアウラは自分の魔法に自信を持っていた。


火薬による爆発と違い煙は立ち上らず、攻撃の正否はすぐに彼女の目に入った。




(どちらも無傷…赤髪はともかく灰の子供の方は偶然でしょうか)




必殺だったはずのそれが、人間の出来損ないである耳無しに苦もなく躱されアウラはさらに眉間に皺を寄せる。


どういうわけか、この耳無し達は爆発の直前に自分達から距離を取るように後ろに跳んだのだ。




(耳無しに希想を知覚する術は無いはずですが…)




魔装杖に希想セレンを巡らせ装填を完了させ、今度は杖を横薙ぎに払う。


地下空間での『爆破』の連続使用は崩落を招く恐れがある。


一見したところかなり頑丈に作られてはいるようだが正確な強度まではわからず慎重にならざるをえない。


威力を調整し、灰髪の子供と赤髪の女それぞれ二回ずつ、彼らの背面に爆発を発生させる。




まただ、とアウラは苦虫を噛み潰す様に奥歯を軋らせる。


回避はされども何かしらの負傷、そうでなくとも体勢を大きく崩すだろうと踏んでいた。


しかしこの耳無し達は爆発の直前にそれぞれが左右の壁に引かれる様に真横に跳び、結果傷一つ負わず、こうして自分達を試すような視線を投げている。それが彼女にはたまらなく癪に障る。




「見えた?シュラ」




「音と光と衝撃波と少しの熱。燃焼による酸欠の心配は無し」




たまらずアウラは舌打ちしてしまう。


たった数度見せた魔法を看破されたことよりも、灰髪の子供のあまりにも不遜な態度が彼女のプライドを大きく傷付けた。


強大な魔法という力の前にも関わらず、恐れも緊張も無いように見える。




「ロバト隊員!あなたも手を貸しなさい!」




「ええ。このままあなたに任せていては日が暮れてしまう」




「……ッ!」




嫌味を隠そうともしないロバトを、アウラは顔を動かさず強く睨みつける。買い言葉が口をついて出なかったのは、それくらいの理性は残っていたのか。


そんな彼らを尻目にイリスとシュラはお互いが十メートルほど離れているにも関わらず、"小声"で会話をしていた。


世代が一つ違うためシュラほど発達はしていないが、イリスの五感もまた常人とはかけ離れている。


それぞれが聴覚に意識を割けばある程度の密談は可能だった。




「━━━━━シュラ、わかってると思うけど」




「銃は効かない。狙うのは首か心臓。侮られてる今が好機」




「わかってるじゃない」




表情にこそ出ていないがシュラの心の裡は焦りと後悔に滲んでいた。


警報が鳴らされたということは一階も同じように強襲されているかもしれない。


そして目の前に相対するこの二人の兵士は躊躇せず攻撃してきた。


おおよそ捕縛など考えていない、殺傷性の高い爆破を用いているところから殲滅を任としているのだろう。


ワイズやシスター、それになにより弟達の事がとにかく気がかりだった。


今この時間一階に居るであろう大人達も有事の際の心得が無いわけではないだろうが、魔装まで持ち込んでいる戦闘部隊に対して有効だとは思えない。


どうして自分達がこのような目に遭わねばならないのか、などと考える余裕は無い。


平静を装うイリスも焦りと無縁とまではいかない。


非常ベルはとうに鳴り止み、時おり昇降機が動く音が微かに届くだけだ。


地上への避難が叶ったのか、それとも。




「ああ、上階の掃討はとうに終わっていますよ。助けに向かっても死体が転がっているだけでしょう。ぎゃあぎゃあと喚くものでしたから、形が残っている物は少なくなってしまいましたが」




上階、とは一階のことだろう。


男の放った言葉の真偽を確かめる術は無く、イリスは焦りを加速させられる。


言の主のロバトの見立てでは、彼らは、またはそのどちらかが激昂するか、絶望するか、どちらにしても戦闘を有利に運べるだろうと思い発したものだ。


幸いにしてその奸計は正しく機能することとなる。


灰色の髪の少年の顔から元々乏しかった表情らしきものが完全に消え失せた。


先ほど見せられた高い身体能力から、実験かなにかで感情を喪失でもしたのかとロバトは見込んでいたが、どうやらそういうわけではないらしい。




ロバトは彼が激情に任せて突っ込んでくるだろうと踏んでいた。


動きを見る限り十歳そこらにしては洗練されている、だが所詮は子供だ。


一直線に突っ込んできたところを『貫撃』で蜂の巣にして終わりだ、と口許を少しだけ緩める間に、灰髪の少年に動きがあった。




シュラはロバトの思惑通りにただ真っ直ぐ突撃した。


この日、立て続いた、決して愉快とは言えない出来事の連続は、彼の心を大きく乱していた。


結果、無策に思える突貫だったが、刹那の攻防で渋面を浮かべることになったのはロバトの方だった。




灰髪の少年は順調に彼の筋書き通りに動いた。


想定外だったのはその速さだった。


頑丈に作られているはずの訓練室の白い床を抉るほどの脚力で駆け出したシュラは、三歩目でトップスピードに乗り二十メートル近くあった間合いを秒に満たない速さで詰めきっていた。




「…なっ!?つらぬ…」




「死ね」




ロバトが自信の魔法である『貫撃』を放つより速く、シュラの刃がロバトの左鎖骨下の肉を真横に引き裂く。


首を狙った一撃だったが逸った気持ちが刃一つ分の間合いを狂わせていた。


アウラもその事態をただ静観していたわけではない。


追撃を行おうとしていたシュラに対してロバトを巻き込む覚悟で『爆破』を行使する。


しかしその攻撃もまた一拍遅れて駆けてきたイリスの右足による大振りな上段回し蹴りによって中断させられる。


アウラの意識外から放たれたそれは、回避ではなく魔装杖による物理的な防御を余儀なくさせる。


イリスがわかりやすく攻撃的な動作にしたのは、万が一侮られて攻撃が中断されない事態を恐れてのことだった。


止める者のなくなったシュラの追撃は、体勢を崩し後ろに倒れかけていたロバトの心臓に容赦なく刃を突き立てる。


彼が無意識的に纏っていた希想の鎧はシュラの膂力に屈し、刃先は皮膚を突き破り柔らかな臓器を蹂躙する。




軍人としての矜持か。貴族としての誇りか。


ロバトは絶命する直前、最期まで離さなかった魔装杖を握り締め、振り絞る様に『貫撃』を放つ。


瞬間、シュラの腹部に三ヶ所、ボタン程の大きさの風穴が出来る。


どちゃり、と二人がもつれるように倒れこみ、血だまりをゆっくり作りあげる。




「シュラ!?」




「み、耳無し風情がぁ!」




イリスはシュラへと駆け寄りかけた身体を無理矢理アウラへと直し、突き出したナイフをフェイントとした本命の前蹴りを腹部に命中させることに成功する。


希想の壁の上からの攻撃であるにも関わらず、衝撃は彼女の腹を突き抜け希想による加護の伴わぬ身体の内部を破壊する。


本来であれば耳無しに足蹴にされた事実はアウラにとっては耐え難い屈辱だったが、それ以上に鈍く重く響く腹部への攻撃は感情に押し込められた理性を掘り起こしていた。


破壊された壁の瓦礫まで蹴り飛ばされたアウラは、破滅的とも言える笑顔を面に張り付けイリスを睨みつける。




「…それ以上動かないで……ください。あなた、の、大事なあの子を…、吹き飛ばし…て、しまいそう」




吐き気を堪え膝に片手を置き息も絶え絶えながら、アウラはもう片方の手で魔装杖を構える。


あの死にかけの少年が人質として機能するかは一か八かだったが、どうやら感触は悪くないようだった。


イリスは忌々しげにコンバットナイフを足元に捨て、両手を空にする。


それを見たアウラは満足げに頷き、後方を一瞬だけ確認する。




「利口、ですね…。私はここで、退散させて……いただきます。」




形勢不利だと判断した彼女は任務の達成より自信の命を優先した。


先ほどの一撃はおそらく骨に届いていると自覚があった。屈辱的ではあるが今の自分には赤髪の女を打ち倒す術は持ち合わせていない、逃げるべきだと理性が必死に警鐘を鳴らしていた。


無論、ただ引き下がるわけではない。


後ずさりながらも魔装杖に希想を込め続ける。これまでのように手加減する必要はもう無い。


自ら作り出した瓦礫をなんとか踏み越え訓練室を脱し、昇降機の外周の手すりを空いた手で握り息を整え直す。


アウラはこのまま地上まで逃げ仰せた後に入り口を破壊してしまおうとも考えたが、ここでもまた、彼女の高すぎるプライドが災いした。




暗い笑みを浮かべ彼女は照準をシュラとイリスへ固定する。


爆破地点はそれぞれの頭上。装填にかけた時間の長さゆえ規模と威力は今までの比ではない。


若さゆえか元来の性根か。自分の"記念すべき初任務"を散々こけにしてくれたこの耳無し達をこのまま生かしておく気など更々無かった。




この時点で彼女が『爆破』を使うことを選ばず昇降機で地上に戻っていれば。


少なくとも数分後までは、誰も死ぬことはなかっただろう。




主の願いに従い希想は変質し、望まれた現象を引き起こす。


イリスは爆発の直前に真横に駆け出し、ロバトの屍の隣でぐったりと横たわるシュラを抱き抱え走り出そうとする。


踏み出した一歩目が地面を離れる前に轟音が彼女の耳朶を打つ。


魔装杖に溜め込まれた希想が続けざまに放たれ、同じ規模の爆破を三度発生させる。


部屋の隅まで吹き飛ばされた彼女はシュラを抱えたまま動かない。


その体は左脇腹、左肩口、そして右足膝先を吹き飛ばされており、断面から止めどなく赤黒い液体が流れ出している。


衝撃波が訓練室の天井の一部を砕き、小規模な崩落が起きるが、アウラは気に留める様子もなく振り返り昇降機を操作しようとする。


即死だろう。


爆発で死なずともこのまま放っておけば瓦礫の山に飲まれるだろう。




シュラは耳をつんざく爆音で痛みによる気絶から覚醒していた。


初めに飛び込んできたのは鉄の香り。


次いで生ぬるい液体の感触、そして夕日を落としたような赤い髪。


腹部に走る痛みに一瞬顔を歪めつつも身体を起こす。


誰よりも敬愛していた姉が、血の海に沈んでいる。




「姉さ…ん……、…?」




顎が震え上手く言葉が紡げない。天地が揺らぎたたらを踏んでしまう。


庇われたのだ、と望んでもいないのに考える事を辞めてくれない脳が結論付ける。


息が苦しい。陸で溺れているかのようだ。


目眩に襲われ膝立ちになる。


小さな水音と共に足に伝わる人肌より少し下がった温度の液体。


失いかけたシュラの意識を繋ぎ止めたのは、か細く空気を震わせた声にならない声だった。




「シュ……ラ…?」




「ぇ………」




見ればイリスの口許が微かに動いている。


虚ろな瞳はもはや見えていないのか、半開きの瞼の下で誰かを探すように頼りなく動いている。




「姉さん、ここだよ…?俺…なんで…?俺のせいでこんな……!」




「…そんな顔、初めて…見た」




笑いかけるような優しい口調にシュラの顔が歪む。


イリスの左手を両手で包み、囁くように顔を近づける。


握った手を通して伝わる段々と熱を失う身体を少しでも暖めたくて、震える手に少しだけ力がこもってしまう。




「髪、汚れちゃったね」




「え……?」




「おそろいだね」




灰色の髪はイリスの血で一部が赤く濡れていた。


なぜ彼女がこんな時に、こんなことを言っているのか、シュラには理解できなかった。


ただ、姉が少しだけ申し訳なさそうな顔をしたような気がして。


シュラは震える表情筋を動かし、無理矢理笑顔を作ろうとする。




「姉さんの髪は、血なんかより……ずっと綺麗だよ」




「……そう…?………うれしい」




その声は弱々しくなっていく一方だったが、反してイリスの表情は段々と和らいでいる様に見えた。


気付けばシュラの頬には大粒の涙が伝っていた。


自分の目から流れ落ちたそれが、抱き締めている姉の手より随分と温かく感じ、そのことが酷く不快で、恐くて、心臓を握り潰されるような錯覚を覚える。


気付けば自身の腹部の痛みなど消えていた。


終わりの時は、近く。




「…………ねぇ、…シュラ」




「…………」




イリスは迫り来る確かな死を感じていた。


逃れる術は無いだろう。


かろうじて機能している呪いの産物である『再生』が、ひとしずく程の時間を与えてくれていた。


霞む眼前で、ぼろぼろと涙を流す少年をとても遠くに感じる。




六歳下の彼は、思えば初めて会ったときから随分と無愛想だった。


本を読んで聞かせても、歌を共に歌っても、眉一つ動かさない。


強い感情を抑制されているのかと疑ったこともある。


長く共に過ごし、彼は耐性があるのではなく許容量が大きいだけだとわかってからは実の弟の様に可愛いがった。


自分の命なんて投げ出しても構わないと思えるほどに。


ただ同時に、この少年の前ではそれをしてはならないと決めていた。


共感性がとても強く、誰かの痛みを本人以上に感じる節が大きく見られた。


きっと、自分を庇い誰かが傷付いたら、この子は壊れてしまうのではないか。


杞憂に終わることを願い、日々を過ごしていた。


一人で行っていた訓練に、いつからか彼が加わっていた。


新しく『終の世代』の孤児が施設に運び込まれた次の日だった。




存在が終わってしまう事への恐怖が無いわけではない。


ただそれ以上に、この少年の事が気がかりで、心配で、辛かった。


年相応な表情で泣きじゃくる彼を抱き締めてあげたかったが、冷たい身体に感覚は既に無い。


気の効いた事を言ってあげたくても、靄がかかった頭では上手く言葉が見つからない。


放っておけば彼はずっとここで立ち尽くしているかもしれない。


回らない頭でも、今この場所が朽ちかけていることはわかる。


抱き締められながら死ぬのも悪くない、と心のどこかで思い、すんでの所で考え直す。


恋人ならばそれも悪くないだろう。


だが、今は、彼は大切な弟だ。


最期まで彼が慕ってくれた姉らしくありたい。


だから全てが終わってしまう前に、無愛想な彼を笑わせようとイリスは決めた。


今笑えなくてもいい。


いつか彼が本当に笑えるその日まで。


呪いでもなんでもいい。


強くて脆いその心を、支えてあげたい一心で。


命を声に、絞り出す。




「……私が、いなくなるところ…見ないで、ほしいの」




わがままが許されるなら、その身が果てる瞬間まで彼を見つめていたかった。


彼に見ていて欲しかった。


許されぬ想いでも、今さら捨てることなど出来ない。


優しく抱き締め、ここではないどこかまで持っていこう。


だから今は、




「…あなたは……生きて、色んな物を見て、触れて、…泣いて……、……怒って………。


それで、………笑うの」




掠れきった声はもはや自分には聞こえない。


それでも、届くと信じよう。






「それまで、…あなたの心に……いさせて…?」






天井の一部分が大きくひび割れ本格的に崩落が始まる。


頑丈に、堅牢に作られた地下施設がゆえに、内部からの強い衝撃による崩壊は免れない。




彼が必死に自分に語りかけているのが薄目ごしにわかる。


口の動きだけではわからなかったが、きっと色んな想いを伝えてくれているのだろう。


感覚の無い手から感情が流れ込んでくるようだった。






ふらふらと立ち上がったシュラは、イリスに背を向け歩みだす。


天井の破片が肩を汚すが


破けた靴底が床に張り付いているのかと錯覚するほど、足取りが重く感じる。


この場所を離れたくない、彼女と一緒に楽になってしまいたい。


そう強く願ってしまうほどに、心は疲弊し、すり減っていた。


自分以外の全てを奪われて、それでも生きたいとは思えなかった。


それでも、引き裂かれた思考の中で、最愛の姉が告げた言葉が何度もこだましていた。


ただ肩に繋がっているだけに見える力無い腕で、入り口があった場所の瓦礫をどかす。


廊下の床に足をつける寸前で振り返りたくなる衝動に駆られる。


まだ彼女は生きているだろう。


駆け寄って泣きつきたかった。わがままを言えるのならずっとあそこにいたかった。言い足りない言葉が山を埋め尽くすほどあった。


ただ、他ならぬ彼女に優しく拒絶されたから、シュラは振り返るのをやめる。


彼女は今、生きているから。そして間も無く死ぬから。


だから、別れないために、シュラはぐちゃぐちゃになった心に鞭を打って、生きることを選んだ。








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アウラ・カラルナディアは困窮していた。


戦闘による負傷もさながら、自身の置かれている状況が刻一刻と悪化しているのが要因だった。


耳無し達との戦闘後下階を後にし、上階で待機していた昇降機を操作盤で呼び一階に降り立ったまではいい。


ただ、上官達の姿が見えない。


合流の予定が変更されたならば無線機で連絡が取られるはずだ。


白い隊服の内側に忍ばせていた無線機の端末は、大きくひしゃげ無残にも内側の配線を露出させていた。


おそらく戦闘中に破損したのだろう。これでは連絡のしようもない。


この階に人の気配は無いように思える。ならば上官らは先に地上に向かったのだろうか。


破壊の痕が残る円形の廊下で手すりに身体を預け、自分も地上に戻ろうかと考えていた所で轟音に襲われた。


下階の崩落による余波だろう。


生き埋めの危険を負ってまで待機する必要は無いと決め、昇降機を操作しようとしたが足場に動きがない。


何事かと錆びかけの操作盤の表示を一つずつ確認し、そう時間をかけず原因を突き止める。


液体燃料が尽きていたのだ。


余りの間の悪さに苛立ちが募り、思わず昇降機の操作盤を蹴りつけるがそれで何が解決するわけでもない。


地上へ連絡しようにも無線機は壊れている。


幸いにも昇降機通路である巨大な円柱の内部には緊急避難用の梯子が取り付けてあった。


崩落は心配だったが今すぐ起きるものでも無いと考え、彼女は白い廊下の床に腰を下ろし、少しだけ休むことを選ぶ。


戦闘から時間が経ち、興奮状態で誤魔化されていた腹部の痛みが正常な活動を阻害していたためだ。




一息入れ冷静になったことで、今さらになって彼女の頭の中では後悔が渦を巻いて荒れている。


家柄により、幼い頃から文武に抜かること無く、弱冠十五歳で国定三法四剣を修め神都の総合教育学校ではその代の首長を務めるにまで至った。


能力が認められ、神軍の中でも神室の直属である部隊に配属されたのだ。


無論、背景には家や学校からの強い打診があり、それが彼らの私欲に伴うものだとアウラは知っていた。


そんな中でも腐らず日々の厳しい訓練をこなせたのは、ひとえに家族のお陰だった。


金に魅了された父や血の繋がっていない母ではない。年の離れた弟妹達の存在がアウラを支えていた。




(…次の休みには、久々に実家に帰りましょうか)




連絡無く帰ったところで怒る人間もいない。両親と顔を合わせなければいけないのは気が進まないが、仕方がないだろう。




時おり地鳴りのような震動が不安を掻き立てる。


段々と腹部の激痛が薄らいでいくのを感じ、立ち上がったアウラは、そこで奇妙な音を耳にする。




「誰っ………!?」




一定の感覚で響く金属同士を軽くぶつけたような音は、昇降機を覆う通路壁に反射して聴こえているようだ。


誰かが非常用の梯子を登っているのだと、冷静さを取り戻した彼女は推測する。


もしかしたら下階に置き去りにしてきた同僚かもしれない。


即死だったように見えたが希想での防御がかろうじて機能したのだろうか。


昇降機がほんの少しだけ動いたように感じる。梯子から昇降機に移ったのだろう。


ロバトとはあまり仲が良いとは言えないが、それでも生還を讃えるべきだろう。


二階に捨て置いた事は素直に謝ろうと考えた所で、彼女は信じられない面のを目にする。




現れたのは、少し気にくわないあの同僚ではなかった。




血を被った灰の亡霊が、虚ろな眼差しでこちらを見ていた。








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右手に握ったコンバットナイフが、時たま壁に当たり甲高い音をたてる。


血に濡れた手は、しかし梯子をしっかりと掴んでおり、万が一など起きそうもない。


誰がこの身体を動かしているんだろう、とシュラはぼんやりと考えていた。


最愛の姉を"捨て"、醜く生き延びるこれが本能だと言うのなら、自死が随分と高尚な物に思えてくる。


結局あと数年したら自分は死ぬのだ。


『雪解けの薬』によって成されるはずだった解呪は今日の出来事で無に帰した。


『星の船』も、もはやどうでもよかった。


これだけ死にたいと考えているのに、生きることを辞められない愚かさ、みっともなさで狂いそうになる。


憎悪と後悔と悲歎と混乱と、絶望。


それらがない交ぜになり無数の針を象って、頭の中で感情の深部を突き刺し抉る。




気付けば頭上には鳥籠のような大きな機械の底面が近づいていた。一階に止まっていた昇降機だろう。


このまま地上を目指してもよかったが、気まぐれよりも小さな心の動きで、昇降機の内部の手すりに手をかけそのまま足場を確保する。


大した期待もせずに一階に降りたシュラは、眼前に人影を捉える。


よく見れば先ほどまで殺し合っていた相手だった。




こちらを見るなり尻餅をつき、大きく見開かれた目は右に左に忙しなく動き、だらしなく空いている口は上手く言葉を発せないようだ。




一体何に、そんなに怯えているのか。


聞いても答えは期待できないだろうと思い、殺すことにした。




飛ぶように軽やかに、相手のもとへ跳び込み、


握手を求めるように柔らかに、順手に握ったナイフを無防備な首に突き刺し横に軽く薙ぐ。


それだけで、一人の命が終わってしまう。


なぜだか罪悪感は無かった。








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一階の食堂ではエプロンに身を包んだ女性がうつ伏せに倒れていた。


その優しい黒髪には見覚えがあった。


子供達に慕われ、他の大人達ですら頭が上がらない、記憶の中の彼女はいつも柔らかな日差しの様な笑顔を浮かべていた。




血にそぼつ背中には拳大の穴が空いていた。


その屍の下からは子供の手が伸びている。


この階から、呼吸の音は聴こえない。


子供を庇った彼女ごと殺したのだろう。


涙は、流れなかった。








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ワイズの私室は酷い有り様だった。


大きく切り裂かれた空っぽの本棚、原型を留めていない机、そして、奥の壁に背中を預けた首の無い死体。


その屍の格好には見覚えがあった。


この部屋の主だ。


目的は情報の隠滅か、媒体を紙とするものはその一切が消されていた。おそらく魔法によるものだろう。




ワイズの屍は、よく見れば後ろ手に何かを庇うように背中に隠している。


身体をかがめ、既に固まってしまっている手からそっとそれを抜き取る。


手のひらに少し余る大きさ、年代を感じさせる装丁の日記帳だ。


記されている文字から伝わるのは、ワイズの苦悩と葛藤と、少しばかりの喜びだった。


最も新しく記入したと思われるページには、普段のワイズからは想像も出来ないような口汚い『呪い』への罵倒と、子供達への祝福がこれでもかと載っていた。


隠滅から見逃されたのか、彼が守りきったのかはわからない。


少し悩み、シュラは上着の内ポケットにそれを入れ、部屋を後にした。


自分の頬に一筋の雫が伝っていた事に、彼は気が付かなかった。








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ブランド・ローグルは地上で部下の帰還を待っていた。


上階で別れた二人の新米隊員は経験の浅さは否めないが能力は確かなものだ。


前もって知らされていた情報通り、この地下施設には武装の気配は無く、掃討自体は速やかに終わった。


多少のトラブルであの二人が手こずるとは考えられない。


無線機に応答は無く、それに加え地響きにも似た揺れを感じ、ブランドは共に行動していた隊員を連れ先に地上へと戻っていた。


何かがあったのだろうがその『何か』の正体が掴めない。




『目標施設の破壊及び住人の殲滅』。


命令系統最上位である神室からの伝令が述べたのは目的の場所と刻限とその一言だけだった。


自分の職業は自身の命を持って全うするものだ。


余りにも足りない情報に文句を言いたい気持ちを堪え、今もこうして大切な部下が戻るのを待っている。




無力な耳無し達を蹂躙することに躊躇いが無いわけではない。


現にブランドの精神は今、冥い影に覆われていた。


民族主義、血統主義が強い他の隊員と違い、ブランド本人はそういったしがらみにあまり興味がなかった。


魔法が使えない、希想に愛されていないからと言って無闇にその命を奪って言いはずがない。


軍人である以上ある程度の盲信は必要だが限度と言うものがあった。


相手が軍人ならば躊躇などしない。だが、抗う術の無い、こちらを傷つけることすら出来ない者達を理由無く痛め付けるのは強い抵抗があった。


ゆえに、彼は独断で任務内容の更新を行っていた。




『目標施設の破壊及び住人の捕縛』。


抵抗があった場合を例外としたそれを突入直前に部下達に周知させた。


昇降機の搭乗人数の関係と、本人達の強い希望もあって先に突入した部下達は、残念ながら住人達と衝突し、結果その半数を手にかけたようだ。


戦闘の音を聴きブランドが押っ取り刀で上階に駆けつけた頃には数人の泣き叫ぶ子供達を廊下に残し、白を基調とした施設は真っ赤に彩られていた。


子供も大人も、等しく血に沈んでいた。


だがブランドに部下を叱る意思は無かった。


元より自分のわがままなのだ。




時計を確認する素振りで、捕らえた子供達を横目に見遣る。


数は六。見た目の幼さから、全員が十やそこらであることは明白だ。


ある者は放心し、ある者は泣きじゃくり誰かの名前を叫んでいる。


当然の反応だろう。家族を、住処を、安寧を、思い出を、一瞬で奪われたのだ。


以外なのは彼らの中に耳無しではない者が一人いたことだった。


他の子供達と同じ、上下とも七分で揃えられた白い患者衣の少女だ。


透明度の高い金髪、鋭さはまだないが耳無しのそれとは形が随分と異なる耳の形、なにより身に纏っている希想セレンが彼女を他と分け隔てている。見間違えようがない。




「隊長、どうされるおつもりですか」




ブランドの視線の意を見抜いたのか、彼の真横に立つ部下の一人が小さな声で問う。


今回の作戦で引き連れてきた五人の部下の内の四人は入隊して半年も経っていない、言わば新入りだ。


事前に知らされていた情報の限りでは今回の任務は難易度自体はそう高くないと判断し、場数を踏ませるために半数以上が新人の不安定な分隊が構成されてしまったが能力的な心配はほとんど無かった。


今声をかけてきたのは五人の内の一人の方、入隊して既に六年が経っている、腹心とまではいかないが信頼のおける部下だ。


どうされる、とはおそらく彼ら、捕らえた子供達の処遇についてだろう。


実を言えばブランドは今の今まで決めかねていた。


生かすとすれば、祖国に連れ帰り名を与え然るべき場所に預けなければならない。


任務の更新などという大それた真似をしでかしてる以上神室は頼れない。


決して少なくない額の給料を貰っているとはいえ、自分の家で養おうとも思えない。


結局、この場で処分するのが自分にとっても、そしてこの子供達にとっても最善なのではないか。




そうブランドが決めあぐねていたその時、彼は地下の昇降機に繋がる階段に対して背を向けていた。




"それ"に気付いたのは、ひとまとめにした子供達を挟むように立たせていた隊員二人だった。


ブランドから少し離れて待機状態を保っていた彼らが見たのは、ぼろ雑巾の様な人の形をした何かだった。








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突然現れたとしか形容できないその存在に、二人の若い隊員は下手に動こうとはせず、静かに魔装杖に力を込め魔法の発動を可能にする。


その様子と視線から背後の存在を知覚したブランドと彼の部下はその場から弾ける様に前へ跳び即座に振り返る。


腰に差した魔装剣の柄に触れようとした所で、対峙する存在を改めて観察し、ブランドは言葉を失ってしまう。




(人なのか……?これが、…"こんなもの"が?)




捕縛した少年少女同様の白い患者衣から察するにおそらく彼ら同様ここの住人"だった"者だろう。


昇降機が動く音は聴こえなかったが何らかの手段で脱出を成し得たのだろう。


よく見れば地下への階段の入り口近くに黒い上着が無造作に置かれている。


先ほどまであんな物は無かった。


なぜ今まで気配に気付けなかったのか、地下に向かった自分の部下はどうなったのか、疑問は尽きないが今はそれどころではなかった。


灰色の髪、簡素な患者衣、右手に握られているナイフ、そのどれもが血で彩られている。


何度も擦られた目元は赤く腫れ、双眸は焦点を求めゆっくりとさ迷っている。


何よりブランドに緊張を強いたのは、押せば倒れるようなその身体から漏れ出る濃密な殺気だった。


後ろの若い隊員二人は朽ちかけの様なこの少年の姿を見て、張り詰めていた気を少し抜いているのをブランドは背中越しに感じていた。


彼らは気付けずにいるのだ。


この波立たぬ激情を、波伴わぬ慟哭を。


経験の差か、それとも上官の機微を読んでか、ブランドの隣に立つ隊員は警戒を解く様子は一切無い。


ふと、少年の瞳が自分達の背後、捕らえた子供達を見て微かに揺れる。


ブランドはそれを見逃さない。魔装剣に希想を込め、五メートル近い少年との間合いを一瞬で詰められるよう足に力を込め、






「助けていただき、ありがとうございます」






不意の言葉にこめかみを殴られ、ブランドの頭の中で描かれていた一連の行動は形にならず霧散する。


彼には一瞬その言葉が誰によって発されたのか、わからなかった。


そして、それが目の前の血と灰に汚れた少年が吐き出す様に口にしたものだと理解して、更なる混乱に襲われる。


空気にでも語りかけるような指向性の無さにその場の誰もが言葉を返せないでいる。




ブランドは耳無しを同じ人として扱ってきた、これまでも。これからもその意識は変わらないだろう。


ただ、今日この日だけは。


彼は目の前にいる少年を、人として見ることが出来なかった。








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生きていた。


自分の家族は皆殺されたものだと思っていたシュラにとって、その事実は汚泥にまみれた心の裡にほんの少しの喜びをもたらす。


黒い髪の少年が唖然としたままこちらを見ている。


茶髪の少女がすがるような目で虚ろに空を仰いでいる。


金髪の少女は泣き疲れたのか顔を両手で覆って座り込んでいる




(レンも、メアもシエルも、……生きてる)




彼らの影に隠れて見えないがおそらくあと三人、合わせて六人が生き延びていた。


鼓動が速くなったのをシュラは自覚する。


全部奪われたと、思っていた。


生きるのも死ぬのも独りだろうと諦めていた。


自分達を守ってくれていた大人達は、もういない。


沸々と想いが溢れだし血で固まった心を溶かしていく。


ただ、心配そうに怯える弟に勇気を与えたかった。


身の丈を遥かに超える暴力に晒され、枯れるまで涙を流した妹達に、笑ってほしかった。


生きる理由も、死ぬ理由も、それだけで十分だった。






自分の存在に気付くやいなや大袈裟に飛び退き、立ちはだかる男達がいる。


服装からして地下で戦った兵士達の仲間だろう。


既に臨戦態勢に入っており、交渉の余地は無さそうだ。


殺そう、と間髪入れず思い至りすぐに撤回する。


相手の数は四人、それも大切な弟妹を人質に取られているに近い。


相手にそんな意志があるのかは不明だったが、万が一にでも彼らに危害が及ぶ事を考えると無茶は出来なかった。


シュラは未だに悲喜渦巻いているはずの頭の中で、なぜか冷静な自分の存在を認識していた。


きっと、人の心が無くなってしまったんだろう、と思い、やがて一つの答えに至る。


この絶望的な局面を誰一人欠けることなく乗り切るには、気は進まないが仕方がない。




その選択が、自分の訳も無く頑丈な心に消えぬ傷を残すとわかっていても。


シュラは躊躇うことはなかった。






「助けていただき、ありがとうございます」








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機先を制することにはどうやら成功したようだ。


かちゃりと音をたてたのは大柄な男の剣だ。


本身を抜くには至らず、柄を握る右手は完全に硬直している。


他の兵士達もまた、構えた杖にはっきりとした意思は無いように思える。


何も返されないのなら、語りを続けるだけだった。




「あの"地獄のような場所"から、救ってくださったあなた方は僕の、いや僕たちの恩人です」




「…………君は…何を言って……?」




「忌まわしきあの施設を、破壊してくださった事は、………いくら感謝してもしきれません」




頭が、痛い。


誰が喋っているんだろう。


何を語っているんだろう。


わからない。


ただ、一番近くから聴こえてくる音はとても不快で、それなのに随分と馴染みがあって、まるで自分の声のようだ。




込み上げる吐き気を何とか抑えてシュラは正気と狂気を跨ぎ続ける。


熱に浮かされているような表情は、酸素に溺れどこか苦しげだ。




「日毎夜毎に酷い実験が繰り返されました。被検体は僕たちです」




芝居がかったシュラの語りは、ブランド達の胸中に猜疑心だけでなくある種の不快感を生んでいた。


人形が、独りでに踊りだしているような、そんな錯覚を覚える得体の知れないそれは原初の恐怖に近い。


肝心の人形はそんなことはいざ知らず、ぼとりぼとりと泥を吐く。




「針を刺されました。胸を開かれました。あらゆる苦痛を、意識あるまま教えられました」




語る誰かと違う誰かが記憶をかき混ぜ掬い上げる。


六歳の時、地上で『呪い』を負う者を探していたワイズ達に拾われたのが始まりだった。


あの頃は誰も信じられず、脱走を図ったこともあった。


見つかったときは怒られると思ったが、意外にも大人達は辛そうな顔をして頼み込むようにここに残れと言ってきたのを思い出す。


段々と過ごしていく内に居心地が良くなり、大人達の言うことも聞けるようになっていた。




「身体を弄られ、脳を弄られ、寿命を代償に人を傷付ける力を得ました」




イリスに心を開いたのもその頃だった。


彼女はとても強かった。


力も心も。自分の為ではなくいつも誰かの為に行動していた。


彼女は守る力を与えてくれた。


理不尽から、不条理から、世界から。


今こうしてここに立っていられるのも、彼女の教えあってのことだ。




「毎日最低限の栄養だけを土を溶かしたようなスープで摂らされていました。


飢えを抑える為に木を齧ることもありました」




シスターはずっと自分の味方だった。


いや、そもそもあの孤児院には敵なんていない。


それでも彼女の優しさと献身は眩しく温かいものだった。


幼くして両親を失っている者達にとって、それは救いだった。


毎日の献立を予想する時間は子供達にとってとても幸せなものだった。


可愛い服が欲しいとねだる妹に自ら仕立てた服を贈っていたのは記憶に新しい。


もっと家事を手伝ってあげればよかった。


もっと美味しいと言ってあげればよかった。


もっと、ありがとうと言えば、よかった。


大粒の涙が溢れて、止まない。


でも、どうしてこいつが泣いているんだろう。


ずきりと頭が痛み、境界線が曖昧になる。




「大人は、苦しむ僕達には目もくれず、どれだけ泣こうと叫ぼうとも実験から解放しようとはしませんでした。命を落とした兄妹も少なくありません」




ワイズについては、最初の頃は少し怖かった。というのが正直な感想だった。


最年長である彼の落ち着き払った雰囲気は、幼い頃はとても硬質な触れがたいものに思えた。


彼はある日、一冊の本を読み聞かせてくれた。


本の内容は少し難解で、その時は理解することは出来なかった。


ただ、その声色はとても優しくて、語る目はとても楽しげに見えた。


字を与えられた。読みを与えられた。知識を、感情の名を、学ぶ楽しみを、愛情をもって与えられた。


彼がどれだけ自分達のことを大切に思っているかなんて、きっと今の自分にはまだわからない。


想いを馳せ一端に触れただけで、感情の雫が溢れ落ちる。


きっと誰かが、泣いているんだろう。




「僕は、僕たちはあなた方に、あなた方の国に、恩返しがしたいです」




どうやって、殺そうか。


拷問の知識は残念ながら持ち合わせてはいない。


どうやって、生きようか。


弟妹達に不自由無い暮らしをさせるには、必要なものが余りにも足りない。






「僕たちを、兵器として、使ってくれませんか」






さっきから、ぺらぺらとよく喋る口だ。








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ブランドは今自分が剣の柄を握りしめたままでいることも忘れ、目の前の少年に傾注していた。


場に漂う希想が随分と乱れている。


誰かの動揺が伝播しているのだろうか。


部下か、金髪の少女か、それとも自分か。


少年の語りは、筆舌に尽くしがたいほどに真に迫っていた。


血を被った凄惨な見た目と、子供達の啜り泣く声にあてられた結果、程度の差はあれど罪悪感と同情心に蝕まれるのは避けられなかった。




だが、ブランドだけは妙な違和感を感じ取っていた。


"これ"がそんな単純な了見のはずがない。


荒れ狂う感情の暴風。


怒りも悲しみも併せ呑んだこの瞳は、感謝の念など微塵も感じさせない。




(壊れている…、いや壊れることが出来ないのか)




強さゆえに壊れない。


壊れないゆえに、傷付き、汚れ、立ち向かわなければならない。


いっそ折れてしまえばいいものを、最善のために動き続ける理性を止められないのだろう。


目の前のそれは心無い人形などではない。




(感情の、化け物だ)








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「た、隊長!?……私は反対です!」




呑まれかけていた若い隊員の一人がやっとの思いで放った一言で、ブランドは思考の世界から連れ戻される。


その言はもっともだ、と彼は口には出さず賛同する。




(こんな危険な存在を国内に招くわけにはいかない)




この場で消し去るべきだと、理性より深くにあるものが告げていた。


管理者のいないこの地で耳無しを処断しようと咎める者はいないだろう。


しかし、彼の脳内では対立する思考が落としどころを求め言い争いを始めていた。




ブランドには今年で七歳になる娘がいる。


自分達の後ろですすり泣く少女達の姿が嫌でも重なってしまっていた。


任務に私情を挟むなどもってのほかだ。


そんなことはわかっていても、躊躇うことをやめられない。




「何を示せばいいでしょうか。忠誠ですか?それとも、力ですか?」




意識の間隙を縫うように放たれた言葉に、ブランドはびくりと身体を震わせてしまう。


思わず少年の瞳を覗き込んでしまうが、その深い海の様な蒼が揺れることはない。




普段の冷静なブランドなら、ここで刃を抜いていたはずだ。


だが今日の彼は大いに疲弊していた。


無力な耳無し達を何人も手にかけた。


命よりも大切な娘と同じ年頃の子供達を殺めようと葛藤した。


身体的な疲労は無いに等しい。


自国領の東端から十数キロ歩いた程度なら問題ない体力を全隊員が有している。


経験ゆえに希想を乱す古戦場にあてられることもなかったはずだ。




「……図に、乗るなよ。薄汚い耳無し風情が…」




ブランドは自分の背後から漏れでた声を聞いていた。


首だけで振り返り見れば、我慢の限界と言わんばかりの表情の赤茶色の髪をした若い隊員が魔装杖を握る手を震わせていた。


フォート・ランバルジャム。


魔装戦闘の名門ランバルジャム家の次男であり、その秀でた能力から学校側の強い推薦もあり、半年前に入隊した男だ。


何から来るものかまではわからなかったが、その胸中が怒りに燃えているのは確かだろう。




「隊長、私がこの者を処断します」




「………逸るな若造。


彼らの処遇は本国に戻り神室に問う」




「なっ!?正気ですか!いや、そもそも神室が処分以外の判を押すはずがない!


神都を汚い血で汚す必要なんてあるはずが…!」




任務は住人の殲滅だ。


それをわざわざ連れ帰ってきたなどと宣うのはおかしな話だ。


だが、ブランドの見立てでは神室はおそらく耳無しの子供達を処分するどころか、連れ帰った事を咎めすらしないだろう。


ブランドは二十代の頃、先代の『天の槍』の隊長にとある話を聞かされたことがあった。


『神の秘密』についてだ。


それが何かは先代隊長は言わなかった、おそらく知らないのだろう。


ただ、祖国には触れてはならない秘密がある。


それこそ噂が呼んだ噂程度でさえ、ここまでの蹂躙を要している。


今回の任務では『神の秘密』足り得るものは全く発見されなかった。


たとえあったとしても、末端である耳無しの子供達が何か知っているなどとは思えない。




「耳無しなんて戦闘じゃなんの役にも立たない…!せいぜい囮がいいとこだ!それとも…地方の娼館にでも売るつもりですか!?」




ブランドにはなぜ部下がここまで声を荒げ言葉端を汚くするのか理解出来ないわけではなかった。


自分が新入りの彼らを信用していないのと同様に、彼らも上官である自分を見定めている途中なのだろう。


無断の任務の更新という組織への裏切りと見られても仕方の無い事をしでかしている以上あまり強く諌めることも出来ない。




「ならばお前が見定めろ。日暮れも近い、いつまでも地の底から帰ってこないお前の同期を迎えに行くことも考えろ。


悠長に議論している暇はない」




その言葉を待っていたと言わんばかりに若い隊員、フォート・ランバルジャムはブランドの前に踊り出す。


何の感慨も無く一連の流れを見ていたシュラは構えを作ることすらしない。


それを挑発と捉えたのか、フォートの眉間に筋が立つ。


両者の爪先とを結ぶ線は三メートルも無い。希想の加護の無い耳無しにとっては決死の間合いだった。




鋭く尖った耳の形は神に祝福された証拠だ。


身体を巡る希想セレンが全ての動作の補助を成し、希想循環保持量の少ないとされる老人ですら耳無しの成人男性に膂力で大きく劣ることはない。


フォートが本気で立ち回れば十を過ぎたばかりの『愛されぬ者』など赤子同然だった。


意思を流し込まれた魔装杖は結晶となった希想によってその形を槍へと変えていた。


『結晶化』がフォートの体外放射の魔法の形質だ。


保持者の強い意思によって形を変え願いを叶えるとされている希想は、保持者の身体を離れればその願いを保つことが困難になる。


よほど強い意思と願いでなければ、放ったそれは霧散し効果を発現すること無く地に還る。


ゆえに、人は一つの魔法しか体外放射を成功させる事が出来ない。


一つの魔法ですら形成させることは難しく、神室直属の部隊である『天の槍』の入隊の際に問われる資質でもある。


想像することとこいねがう事は似て非なるものであり、どちらも体外放射の形成には欠かせないものだ。


あらゆる物を武器へと変えられるフォートの魔法はブランドの目から見ても見事なものだとしか言いようがない。




動いたのはやはりフォートだった。


五十センチにも満たなかった魔装杖は蒼い結晶に象られ二メートル近い槍を成し、その穂先は鋭く尖り孕んだ殺意を映している。


風を起こすほどの速さで突き出されたそれは、躊躇い無く耳無しの少年の腹を食い破り貫通する。


背後で子供の甲高い悲鳴が一瞬聞こえたが気に留める程のことではない。


なんの抵抗も感じられないことにフォートは疑問を覚えなかった。


避ける暇さえ無かったのか、そもそも攻撃が見えていたのかもわからない。




あっけない幕切れに満足し口端を歪め、結晶槍を引き抜こうとしたフォートは奇妙な感覚を覚える。


"何か"が槍を伝って這い上って来るような、得体の知れない気色悪さに身震いし慌てて槍を引き抜く手に力を込める。


よく見れば槍が、希想の結晶がうっすらと赤みを帯びている。


耳無しの血かとフォートは一瞬考え、すぐにその考えを改めることになる。




(俺の希想が喰われている…?)




どういう理屈かはわからない、ただ自分のものとした希想達が見たこともない色に染まりつつある。


普段の透き通る蒼とは真逆だ。赤黒く濁り鉄の匂いすら漂わせている。


侵食するように段々と染め上げていく"何か"が、フォートの槍を持つ手に一瞬触れる。




希想は強い感情によって活性し、強い想いで形を作り、強い願いによって魔法になる。


耳無しと呼ばれる者は感覚器としての耳は持ち合わせているが、希想に触れ身体に循環させることは出来ない。


魔法を使える者とそうでない者の対外的な大きな違いはその耳の形だ。


長く鋭く尖ったその形こそが神に愛された者の証明だとし、そうでない者を誰が言ったか『耳無し』とした。




耳無しは希想に対応する神経を持ち合わせていない。


それが通説のはずだ。


自分に言い聞かせるようにそこまで考え、


フォートの意識は赤の混濁に呑まれた。




強すぎる想いが、主の異なる希想を塗り替える。


体外放射の魔法と魔法がぶつかり合ったとき、事象の相性的な問題を除けばその優劣を決めるのは放射された希想量とその活性の強さだ。




ブランドはその光景を目を大きく開き見逃さんとしていた。


槍が崩れていく。


赤に染まった結晶が願われた形を忘れたような崩れ去る。


少年の腹部には血の跡こそあれど空いたはずの風穴が見当たらなかった。


からん、と音が鳴る。フォートが魔装杖をその手から落としたのだ。




(なんだ、あれは…?希想が……狂っているのか……?)




その様子は尋常ではなかった。


目は血走り焦点が合うことはない。


口の端からは泡を吹き、がちがちと歯を合わせる不快な音が響いている。


何より異様だったのは彼を取り巻く赤い希想だった。


既に人生の半分近くを戦場で過ごしているブランドですら、こんな現象を目の当たりにするのは初めてだった。


隣の隊員が指示を仰ぐようにこちらを見ているが、彼には正確な指示を出す自信が無かった。


思考を巡らせるブランドの頬を何かが掠める。




「暴走だと!?」




次いで眼前に放たれた何かを素手ではたき落とし拾う。


赤く濁った結晶だ。


誰が放ったかなど考えるまでもない。


フォートはうずくまるように頭を抱え、うわ言のように言葉にならない音を口から漏らしている。


見れば、その周囲では空気が凍るように、希想が結晶となりかけている。


このままでは無差別に攻撃が放たれるであろうことは想像に難くない。


ブランドが腰に差す魔装剣に手を伸ばそうとしたその刹那。




瞬間、灰が踊る。




その光景はまるで絵画のようだった。


うずくまっていたフォートが顔を上げた眼前には、血に濡れた灰髪の少年。


跪くようなその体勢は、まるで大いなる存在に許しを乞うような気配を漂わせている。




赦しは、一振りだった。


少年がいつの間にか右手に握っていたナイフが一閃する。


フォートの喉元が割れ、少年の裸足を赤く汚す。


どさり、と頭から落ち、それから二度と動くことはない。


半開きになった瞳に浮かぶ安堵の色は、誰に見られるでもなく。




動かなければいけない、と漠然とした思いを抱きながらブランドは身動じろぎ出来ないでいた。


目の前で部下が殺されたというのに、なぜか怒りも悲しみも湧いてこない。


隣と後ろにそれぞれ控えている部下も同じ心情なのだろうか、叫ぶことすらしないでいた。




「きっと、安らかなる地で、彼も認めてくれているでしょう」




ブランドにはその言葉の意味がわからなかった。


いや、意味自体は理解できた。


だが飲み込むことが出来ない。頭が情景のちぐはぐさに理解を拒んでいる。


同じ言葉を喋る別の生き物が、目の前にいる。




少女の泣き声が耳に障る。


一際大きな地震と、地下から響く轟音が異常を知らせる。


ますますその身体に血の色を濃く纏った灰髪の少年が、夕陽に照らされ薄く笑ったような気がした。






(ここは、……地獄か?)








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「本格的に崩落が始まったのでしょう」




「……なんだと?」




「直接見たわけではありませんが、深部で爆発音が数回響いていましたから」




灰髪の少年が、微塵も興味など無いかのように吐き捨てる。


無慈悲すらぬるく感じる凍りついた相貌には、その足元に広がる血だまりが随分とよく似合っていた。


ブランドにはその言葉の真偽を確める術はない。


次から次へと矢継ぎ早に発生する異常な事態は、豪胆と表現してなんら問題のない彼の精神を困窮させていた。




異様な精神状態にあるのはブランドだけではなかった。


短い者で半年とは言え共に鍛練し学び高めあってきた仲間が殺されたのだ。


それなのになぜか、彼らは憎むべき少年にを糾弾することが出来ない。


理性ではなく感情に従った結果、彼らは結局最後まで握りしめた魔装杖を振るうことが出来ないでいた。


ブランドが何も言わないのなら自分達もそれに従おう、心に疲れ思考に病んだ彼らがそう諦めるのも無理の無いことだった。








「………隊長、もうすぐ日没です」




「やむを得ん。荷を纏め帰還の用意をしろ」




「はっ!……あっ、…それで、"あれ"は………?」




"あれ"、とは灰髪の少年のことだろう。


頭を垂れたフォートの屍の前から一歩も動かず立ち尽くし、虚空を見下ろしている。


不気味としか形容できないそれに関わり合いたいと考える物好きはここにはいない。


出来ればそのままこの地で風化してくれと願いたいブランドだったがそういう訳にはいかない。


放置するには危険すぎる。


何らかの理由で暴走していたとは言え、自分の部下を葬った者であるという事実は揺るがない。


だが、こうも隙だらけな上に表面上は服従の姿勢を見せられている以上、素直に手を出すのは躊躇われた。


そこまで読んでいるのなら随分と悪知恵が回る子供だが、おそらくは考えすぎだろう。




「………名は何という」




結局ブランドが苦し紛れに絞り出せたのはその程度の言葉だった。


たっぷりと時間をかけて、灰髪の少年が薄く口を開く。




「シュラ」




「…………それだけ、か?」




「はい」




それだけ、とは属するところを示す姓が無いことへの確認だった。


嘘を言ってる様にも見えず、そもそもこな状況下では必要性を感じない。


身支度を終えた隊員達が目配せをしてきたのを確認し、ブランドは苦々しげに口を開く。




「要求を全て飲むことは出来ない。お前達の身柄をどうするかは、……本国に連れ帰ってから決める手はずになっている」




「ありがとうございます」








怒りに狂っているのなら、叫べばいい。


掴みかかってくるべきだ。拳を振るえばいいだろう。


悲しみに溺れているのなら、大声で泣けばいい。


溜め込めばそれはやがて、うろに溜まった泥蜜のように拭えぬ感情になるだろう。




胸ぐらを掴みあげ恫喝に走りかけようとする衝動を、ブランドは深呼吸することで鎮静を試みる。


なぜここまで心が揺さぶられるのか、自分ではわからない。


あるべきものが、そうでない状態を維持したまま世界に存在し続けていることへの、漠然とした不満。


不自然なものを許せない、そんな子供じみた感情などでは決してないと胸中で言い聞かせる。




「拘束に対する不満はあるか」




「いいえ」




シュラの背中に回された両腕を縛る鉄製の鎖は、同じく彼の首に嵌められた鉄製の首輪に繋がっている。


誰もやりたがらないだろうと考えブランド自身がこの拘束を施したが、なんとも見るに堪えない痛々しさが罪悪感を刺激していた。


他の子供達にはこんな大仰なことはしていない。


六人の少年少女はそれぞれが疲弊しきっており、皆一様に一筋の涙の跡を残し両頬を土で汚している。




最後尾をシュラと並び瓦礫の獣道を歩くブランドは後悔に後悔を重ねていた。


大切な部下を三人失った。


言い訳のしようなどあるはずがなく、自分自身の責任だ。


深層に送った二人はおそらく『爆破』の魔法を行使したのだろう。


屋内での『爆破』は崩落を伴うことくらいわかっていたはずだ。


何かが深層で起きていた。だがそれを確める術はない。


地上の昇降機操作盤はもはや応答すらせず、もぬけの殻となった昇降機通路からは時折瓦礫が崩れるような微かな音が響くだけだった。


フォートに関しては未だに何が正解だったのか、ブランドは見出だせないでいた。


希想が赤く染まることも、それに伴って術者が錯乱し魔法が暴走したことも、初めて見る現象だった。


古戦場と呼ばれるこの地は確かに特殊な環境下に置かれている。


慣れない者は身体を巡る希想が"揺さぶられる"ような、錯覚に陥ることがある。その現象が何に起因するかは未だはっきりと解明されておらず、不干渉地帯として国際的にももて余しているのが現状だった。


何にせよ部下を狂わせた何かと無関係ではないだろう。




あの時灰髪の少年、シュラを止める事が出来ていれば。


そもそも、任務の更新などしたことが間違いだったのか。


今さら考えたところで何が変わるわけでもない。


陰鬱な気持ちを加速させて得になることなど皆無だとわかっていながらも、思考は独りでに歩き出す。




前を歩く耳無しの少女の一人が石に蹴躓き小さな悲鳴とともに前のめりに倒れる。


隊員達の手にはそれぞれ想光照明(希想に反応し光る鉱石を仕込んである取手のついた照明器具)があるとはいえ辺りは日が沈み夜の帳が降り始めている。


すぐに立ち上がった少女の姿が思いがけず娘と重なってしまい、腹に重石を投げ込まれたような錯覚を覚える。




(どこで、……何を間違えた)




未だ月の見えない夜空を睨み放たれた声無き問いに、当然返される言葉は無かった。

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