死者は夢を見るか
お茶漬け
二人の日常
「時に、
「藪から棒になんすか、先輩。晩飯なら奢らないっすよ」
「きみは私をなんだと思ってるのかな……」
読んでいた本をぱたりと閉じ、文芸部部長、
良くも悪くも、昔から仲の良い友人のような——下北の放つ、どこか『悪ガキ』のような雰囲気が、二人の関係をそうさせていた。
古ぼけていながらも手入れされた文芸部の部室に、開いた窓から夕暮れ時の心地の良い風が流れ込んでくる。机の上に添えられたオレンジ色の花が、風で、ゆらゆらと揺れていた。
「で、なんすか、下北先輩」
滝田は本を閉じずに、文章を目で追ったまま、下北の話に耳を傾けた。彼女のことだ。どうせくだらない話なのだろうと、集中力の殆どは本に割いたままであった。
そんな様子を見て、下北は呆れたようにため息をこぼしながら、続けた。
「滝田くんよ。きみは、『死者』は夢を見ると思うかい?」
下北による今日のくだらない議題は……そんな内容だった。
滝田は内心呆れ返りながら、しかし、彼女とのそんなくだらない議論を楽しんでいる自分がいることも理解していた。故に、
「……見ないんじゃないすか」
「ほう。どうしてそう思う?」
窓際の席に座る下北は、興味深そうに微笑んだ。
「僕頭良くないんで、詳しい原理とか知らないんすけど。死んだら脳も死ぬわけだし、夢も見ないんじゃないすか」
「ふむ、確かにそれはそうだな。私も頭は良くないので分からないが」
因みに、滝田も下北も、学年全体で見れば下から数えた方が早いくらいには頭が悪い。二人とも本が好きだというのに、そこから得られる知識を勉学に活かせないのは残念極まりない。
二人とも、夢の原理には詳しくないが、人体に関することだ。脳の働きによって夢を見ているのなら、脳が死んでしまえば夢を見ることはない。その程度の結論には達することができた。
「なんでそんなことを?」
「いや何。物語で登場する悪役が、人を殺す時の決め台詞に『良い夢見ろよ』……なんて言葉を使っていてな。ふと、気になったんだ」
「ああ……」
見れば、つい先ほどまで下北が読んでいたのはファンタジー小説だった。そこに登場するキャラクターがそう口にしたのだろう。
またくだらないところを気にして……滝田は口には出さずとも、そう思った。本を読んでは、何か気になることがあればすぐに、こうして議論の場を設ける。平日、部活動に参加している日はほぼ毎日だ。そのせいか、体験入部でやってきた新入生は、下北の『変人ぷり』に少々引き気味で帰っていった。
「きみ、いま何か失礼なことを考えてはいなかったか?」
「いえ何も。この本があまりにも面白いんで」
……そのくせして勘は鋭いのが、この下北という女である。
いつもなら、ここから更に話題を広げるのが下北である。しかし、今日は何故か、そこで一度会話が止まった。珍しいこともあるものだと、瀧田は思わず本から目を外し、下北の方へと向けた。
彼女は、何を言うでもなく、じっと滝田の顔を見つめていた。笑うでもなく、至って真面目な面持ちで。
「……なんすか、先輩」
「いや……なんでもない。それよりも滝田くん。もう一つ聞いてみたいことがあるんだが」
「もう一つだけっすよ」
ケチ臭いことを言うな、と指摘する下北。事あるごとに飲み物を奢らせようとする人が何を、とツッコミを入れたかったが、また面倒な話になりそうなのでそれをぐっと堪えた。
「たとえば、今ここできみが死ぬとしよう」
下北は右手の人差し指をピンと突き立て、そして滝田へ向けた。
「もし、死んでからも夢を見ることができるなら……きみは、どんな夢が見たい?」
「僕が死ぬ前提になってるのが不服ですし、人に指差すのは行儀悪いっすよ、先輩」
「おっと、それは失敬」
滝田が揚げ足を取るようにそう指摘すると、下北はべろをちょびっとだけ出して、反省したのかしていないのか、一昔前のぶりっ子のような仕草をしてみせた。
前提はともかくとして……滝田は、読んでいる本に栞を挟んで閉じ、その話題について真剣に考えてみることにした。いつも話半分に聞き流している滝田にしては珍しい。なんとなく、その話題に興味が湧いた。理由は、そんななんでもないようなものだった。
死んでから夢を見ることができる。そんな大前提がある中で、自分ならばどんな夢を見たいと願うか。
考えてみると、意外にも難しい。漠然としたイメージや、輪郭のない光景は描けるが、具体的にどういう夢が見たいか、と問われると思わず考え込んでしまう。
「珍しいね。きみが本を閉じて、そこまで真剣に考えてくれるなんて」
「意外に面白そうな話題だったんで。珍しく」
死後に見る夢……もし夢を見られるならば、きっと、『幸せな夢』を願うだろう。死んでまで苦しい世界を描こうとは思わない。だから、幸せになりたいと願うのは確かなはずだ。
問題は、滝田にとっての『幸せな夢』というのが、一体どんな夢なのかということだ。
幸せの形は、人それぞれ違う。家で趣味に没頭するのが幸せな人間もいれば、むしろ、働いているのが幸せだという人間もいる。
千差万別、十人十色。滝田にとっての幸せがなんなのかは、彼自身にしか分かり得ないことだ。
「悩んでいるね。きみは案外、すぐに答えを出す方だと思ったよ」
下北が、俯く滝田の顔を覗き込んだ。二年もの付き合いになれば、お互いがどういう人間なのかは大体把握が済む。下北からすれば、滝田は物事に対して即決型。何かに悩むことは珍しい人間だという認識であった。
「そういう先輩はどんな夢が見たいんすか?」
「私かい? 私は……そうだね」
悩む素振りを見せ、顎に手をやって暫く考えた下北は、やがて自分の中で納得のいく答えが出たのか、こくりと大きく頷いた。
「この景色を、見ていたいかな」
「景色?」
「そう。『日常』と言い換えてもいい」
滝田が聞き返すと、下北はどこか満足げな表情で、そう答えた。
ああ、なるほど……滝田は成績こそ良くはないものの、察しが悪いわけでもない。日常、と言った下北の言葉で、その意味の概ねを理解した。
「どうせ夢を見るなら、幸せな夢がいい——きみも、それは同じだろう? わたしにとっての幸せは、何一つ変わらないこの日常なんだ」
『毎朝ご飯を食べて、学校に来て、授業を受けて、ここに来て、帰り、そして眠る。やっぱりね、そういう日常ってやつが、一番幸せなんだよ』
下北は、憂いを帯びた表情で、そう言った。
分からない話でもない……滝田にとっての日常というものは、酷く退屈なものだが、後になって考えてみると、そんな酷く退屈なものが幸せな時間だったのだと気付くのだ。
特に、彼にしてみれば……身近にいる頭のおかしな先輩の存在が、そう思わせている。
「達観してんすね、先輩」
「まあね。特に私は、今年で高校生が終わりだから。高校生活ってのは、何より幸せな日常なのだよ」
下北は現在高校三年生。来年の春には卒業してしまう。『華の高校生活』という言葉もあるように、若者にとって、このくらいの年頃は幸せな時期なのかもしれない。
自分の高校生活を懐かしむかのように、下北は机の端にあった小さな写真立てを手に取った。映っているのは、スキーを楽しむ下北の姿だ。高校二年の冬、その修学旅行の写真。写真映りが良かったから、と言って、何故だかこの部室に飾り始めた。
「きみはどうだい? なんだかんだ言って、こうして私と話してる時間が、一番幸せだったりするんだろう?」
「起きながら寝言を言うのが得意なんすね」
「寝言とは失礼な……」
呆れた表情をして、下北は写真立てを花の横に戻した。
「まあでも……そっすね」
彼女の言葉を噛み砕きながら飲み込んで行く滝田。誤魔化すように悪態をついたが、下北の放った言葉は、彼にとっても決して間違いではないようなものだ。
文芸部、とは名ばかりのもので、部員は下北と滝田の二名だけ。仮に下北が卒業したのち、新たな部員が加入しなければ、滝田の代で部は潰えてしまうだろう。
それもそのはず。主な部活動の内容らしきものが、この部には存在しない。二人は放課後にこの古ぼけた教室に集まり、各自本を読みながら、くだらない議論を交わし、時間がくれば解散する。部活動として成立しているとは、とてもではないが言うことはできないだろう。
それでも、滝田が来る必要のないこの部室に、毎日足を通わせているのは……それ相応の、『理由』というものがあるからだ。
「別に来る必要のない部活に毎日来てるってことは、そういうことなんすかね」
ぼそりと、呟くように言った。いや、そのつもりだったが、耳聡い下北は、その言葉を一字一句違えずに捕らえてしまった。
「……デレ期っ!?」
「別にデレてないっす」
大仰なリアクションを取る下北と、ため息をこぼす滝田。これも、二人にとってはいつもの『日常』だ。
……そうだ。彼もまた、もし死んだ後に夢を見るとするならば、幸せな夢が見たいと願っていた。いつもと変わらぬ、こんな日常の夢を見たいと、心のどこかで願っていた。
「……滝田くん」
それから少しして、下北が何やら改まった様子で滝田の名前を呼ぶので、彼は不思議に思ってしまった。
下北が滝田の名前を呼ぶのは、大抵がくだらない話を始めるためである。故に、彼の名前『だけ』を呼ぶというのは、非常に稀なことである。彼が不思議に思ったのは、そういう理由もあってのことだった。
「なんすか、先輩」
再開したばかりの本を閉じた。始まるのはまたくだらない話か、それとも、何か真面目な話か。
「『死者』の定義って、なんなんだろうね」
「……どういうことっすか?」
察しの良い滝田でも、その言葉の真意は理解できなかった。
『死者の定義』
それはつまり、何をもって人を『死者』とするか、ということだろう。普通に考えれば簡単な話だ。心臓が止まり、命が尽きれば、その時点で人は『死者』となる。或いは、心臓が動いていても脳死だと判断されれば、それも『死者』ということになる。
だが、彼女のことだ。きっと、そんな単純な話ではないのだろう。
「ほら、よく言うじゃないか。『人が本当に死ぬのは、ほにゃららな時だ』……なんて台詞」
「ああ……言うっすね」
要は、人が死ぬのはその命尽きた時ではない。こうこう、こういった時に、人は本当に死んでしまうんだよ、と。下北はその定義を問うているのだ。
有名な作品では、しばしば取り扱われることがある話題だ。だが、そういう面倒そうな話題は無視して読み進めるのが、滝田のスタンスであった。小難しい話は苦手なのである。
「滝田くんなら、あの定義、どう考える?」
「難しいっすね。『死ぬのは』『死んだ時だ』って思ってるんで」
「ふむ、実にきみらしい」
それは褒めているのか貶しているのか。思わずそう口を挟みたくなった滝田だったが、ここはなんとか堪えた。
「私はね。人が『死者』となるのは、『生者』でなくなった時、だと思うんだ」
「……なぞかけ、すか?」
「いや。簡単に言えば、『生きる意味を失った時』だよ」
そこまで言って、下北は滝田を指差した。
「滝田くん。きみは今、生きているかな?」
「生きる意味を持ってるか、って意味すか」
「ああ。『死んだように生きる』、『生きているけど死んでいる』っていう言い回しもあるだろう? それはつまり、生きていても、何の意味も目的もなく生きているだけでは、それ即ち死んでいることと同義だという意味だ」
少々小難しい話になってきた、と滝田は頭を悩ませる。そういう言い回しは確かに見たことがある。彼女の言っていることも理解はできている。
何の意味も目的もなく、ただ生きているだけの人間は、彼女の理屈では『死者同然』である。酷く暴力的で、自分勝手な理屈ではあるが、確かに。言われてみれば、そういう捉え方もできなくはない。
そうなれば、彼自身……彼は、生きている、と言えるだろうか。努力もせず、生きるための目的もなく、ただのうのうと生きている『だけ』。それでは、ただ人を喰らい徘徊するだけのゾンビと同じような存在なのではないか。
「どうなんすかね。特にこれといって、生きてる意味とか分からないすけど。僕って死んでるんすかね」
「駄目じゃないか……えらく卑屈だな、きみは……」
自分から話題を振っておいてこの言いようである。
生きるための目的。何か、自分を『生者』たらしめる存在意義。
それは何だっていい。趣味だっていいし、仕事だっていい。家族だっていいし、何なら、一人でいる孤独な時間が生きる意味だという人間もいる。
毎日のように本を読んではいるが、別にそれが生きる目的だというわけではない。誰かのために生きているわけでもない。日常というのは幸せなものだが、酷く退屈なものでもある。
ふと、それに値するようなものが頭をよぎった。そして、下北の顔を、じっと見つめる。
「生きてる意味、すか……そうすね。無いかもしれません」
「どうした? 何か言いたげじゃないか?」
「先輩、すぐに調子乗るんで言わないっす」
「言えよ! 気になるじゃないか!」
勿体ぶっていると、痺れを切らした下北が滝田の肩を掴み、前後に揺らした。観念した彼は、仕方なく、本心を彼女に打ち明けることにした。
「先輩っすよ。先輩といると楽しいんで。生きてる目的かどうかはともかく、毎日部室に来るのは……先輩に会うためっす」
別に愛の告白だ何だというつもりではない。ただ単に、生きている目的はあるか、と問われたから、それに値するものを答えただけだ。
その言葉を聞いて、下北は手を止めた。数歩後ろへ下がり、そして、今まで滝田が見たことがないくらい————、
————悲しい表情をしていた。
「……先輩?」
「……それが、きみの本心なんだな」
今の彼女は、何か、はちきれんばかりの感情を抱いているようにも見えた。その理由が分からずに、滝田は何か触れてはいけない領域に触れてしまったのかと、内心困惑する。
「先輩?」
「きみも、心のどこかでは気付いていたんだろう? もし自分が死者となるなら、そのあとに見る夢は、いつもと変わらない日常……そんな、幸せな夢がいいって」
「えと……何言ってるのか、さっぱり……」
突然何を言い出したのか。下北の意図が、彼には分からなかった。ただ一つ言えるのは、これが普段の彼女ではない、ということだけだ。
いいや。彼女は彼女のまま。驚くほどに、『下北』という人間そのものだ。おかしいのは、彼女ではなく、彼……滝田の方かもしれない。
「でも、悲しきかな……きみが描いたのは『私』だった。きみの記憶が、『私』をそう描いてしまった」
「だから、何言って……」
脳内をちりちりと、静電気のようなものが駆け巡っていく。小さな衝撃は、やがて大きな稲妻へと。
彼女は、優しく微笑んだ。そっと、滝田の頬に手を添えると、愛おしそうに撫で始める。しかし、撫でられたその頬に、温もりは感じなかった。
「……どれだけ忘れようとしても、嫌な記憶というのは脳裏に焼き付いて離れないんだ。だから、私にこんな話をさせてしまう」
「せん、ぱい……」
彼女は、記憶の中の下北に忠実だった。あまりにも、忠実すぎた。妙に聡いところや、達観したところ。独特の持論や価値観を持っているところも、時にくだらない話から真理を突くところも。
それが……今回は、裏目に出てしまったのだろう。
彼女は依然として優しく微笑んだまま、ほんの少し首を傾げ、滝田に問いかけた。
「もう一度聞くよ。滝田くん、きみは今、生きているのかな」
「僕、は……」
少し俯き、答えを捻り出そうとした。何も答えられず、悩んだまま顔を上げると、先程までいたはずの彼女が、まるで幻のように消えてしまった。
「……先輩?」
辺りを見渡し、彼女の姿を探す。しかし、その姿はどこにもない。
脳内を駆け巡る稲妻が、ばちりと、大事などこかに衝撃を与えた。
消えてしまった彼女と、忘れようとしていた記憶。嫌な記憶というものは、脳内に焼き付き、どれだけ忘れようとしても……なかなか、忘れられないものだ。
「ぅ……ぁっ……?」
思わず泣き崩れそうになり、机に手を付いて体を支えた。机の天板と目線が水平になり、視界の端に、小さな写真立てが映り込んだ。
私が主役だ、と言わんばかりに、一人だけが映った、幸せそうに笑う下北の写真。花瓶に添えられたオレンジ色のキンセンカの花が、風に吹かれて揺れていた。
死者は夢を見るか お茶漬け @shiona99
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