第3話「本題に入るわよ」

階段を上ると、廊下が左右に伸びていた。危なかった、もし案内してもらうのを断っていたら間違って妹や姉の部屋に入ってしまっていたかもしれない。


母さんは左へ曲がり奥の部屋へ僕を案内する。


「ここよ。さあ、開けてみて」


僕は部屋の扉を開いた。

当然ながら、家具なんて置かれていなかったけれど。

それどころか、部屋の隅には埃が見受けれられ、掃除をしないといけない、なんてことを思ったけれど。


「これから僕が住む部屋になるんだ」と、そう思うとわくわくしてきた。


「ごめんなさいね、掃除がちゃんとできてなくて。後でわたしがやっておくから――」


「いえ、いいですよ。僕が掃除します。僕の部屋ですから」


僕は母さんの言葉をさえぎって言った。

というかまた敬語になってしまったな。やっぱり意識してないとどうしても敬語になってしまう。


「そう?なら、いいけど・・・・・・じゃあ、本題に入りましょうか」


「え?」


「本題に入るのよ、本題」


「本題って、案内することじゃ・・・・・・」


「違うわよ?本題っていうのは、軽音についてのこと」


なんとなく親父と気が合う理由が分かった気がした。

軽音。さっき僕や親父に嫌悪感を示していた僕の姉になる人か。


「ちょっと驚かせてしまうかもしれないけれど、ごめんね?」


そう前置くと、母さんは自分の服の袖をまくった。

今は夏場で、半袖でいても外に出ればそれなりに汗をかくほどの暑さだ。

それにも関わらず、長い袖の服を着ていたのには、やはりわけがあったらしい。

そして袖をまくり顕になったその腕には、信じられないものがあった。

数え切れないほどの傷と、痣が浮かんでいる。

それも軽度なものばかりではない。物によっては、今なお触れれば痛みを感じさせるであろうと思えるようなものもいくつもある。

夏場なのに長袖だったのは、その傷を隠すだめだったのか。


「え……」


僕は何も言えなくなった。


目の前にある腕が現実のものとはとても思えない。

これほどまでに人を傷つけることができるような人間が、この世にいるのだと、僕には到底想像もできなかったからだ。

けれど、母さんの腕に刻まれたその傷は、そのような人間は実在するのだと、そうはっきりと、痛々しいほど僕に伝えてきた。


「見苦しいものを見せてしまって、本当にごめんなさいね。ただ、知っていてほしかったの。私は、元夫にひどい体罰を受け続けて、離婚したの」


それがどれほどひどいものだったのか、腕を見ただけで相当ひどいものだったろうと、予測はつく。だが、それがどれほどのものだったのか、どんな仕打ちを受けたのか。そこまでは僕には想像もできなかった。


「今はもう、喜彦さんのおかげでだいぶ大丈夫になったけれど、以前はこの傷を見るだけでもう、吐き気どころじゃすまないくらい、気分が悪くなったわ……」


母さんは苦しそうな顔をして、昔を思い出すように、顔を上に向けながら話す。


「それで、私が体罰を受けているのを、軽音だけははっきりと見てしまったみたいで……あの子、軽度の男性恐怖症で、男性不信になってしまったの。だから、あんな当たり方をしてしまったの・・・・・・ごめんなさい」


そして、母さんは袖を戻して言うと、頭を下げた。


人には誰だって何かしら嫌な過去があるのだ。触れてほしくない、思い出したくもないような、過去が。きっと母さんの腕の傷は、それに当たるはずだ。にもかかわらず、僕に見せてくれた。


それが何を意図してのことかは、今の僕には全くわからないけれど――。


「そんな、頭を上げてください。そんなにひどいことをされたのに、僕の父親と結婚することを決めてくれて、本当にありがとうございます」


今度は僕が頭を下げた。


本心だった。


これほどの傷を負ってなお、親父と結婚することを決めてくれたのは、ありがたいことだと思った。

本来ならば、きっと軽音姉さんの比じゃないくらい、男性のことを信じられず、結婚をしよう、なんて思えないはずだ。

そう決めさせた親父の凄さにも驚かされ、そして若干の尊敬を抱いたのだが、それは秘密にすることにした。


「頭を上げてちょうだい。お父さん思いなのね、あなたは」


ニッコリと笑って、母さんは言った。

そして、少しの間言いづらそうにしてから、口を開く。


「……そして、わたしも4人で暮らすことに不安がないと言えば嘘になる。何故だかわかる?」


「僕が男・・・・・・だからですか?家族になるとはいえ、血のつながりなどない。彼女たちを襲うかもしれない、みたいに」


突然の言葉に少々面食らいそうになったが、僕は少し考えた後、思いついた答えを口にした。

それこそ、元夫の件もあり一般的な人たちよりそのあたりには敏感になっているはずだ。


「その通り。家族になるからと言っても、ね?本当は信頼したいけど・・・・・・」


「大丈夫で・・・・・・大丈夫だよ。言いたいことはちゃんとわかるから。僕が母さんだったらそんなふうに心配するだろうし」


「そう・・・・・・話には聞いていたけど、本当に賢いのね。少し安心したわ」


母さんはそういうとにっこりと、快活に笑う。

そして僕の体を扉の方向へ向けさせて、背中をバンッ、っと押す。そして、


「さあ!今日は晩御飯一緒に食べるでしょう?作ってあげるわ!」


と言った。

僕は母さんに向かって、笑いながら言う。


「晩御飯までまだまだ時間あるよ、それに、背中痛いよ力強すぎ、母さん」


母さんはふふふ、とまた笑ってくれた。それがなぜだかちょっぴり、嬉しかったのを覚えている。


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