剣はただ其処に在りて

@jaywalk

第1話 過去の因縁

 私は誰なのだろう。


 いつものように目を閉じゆっくりと呼吸をしながら自らの過去を思い出そうと試みる。

 潮の香りが鼻腔を通り抜ける。浜は離れているがさざ波の音が耳に届く。

 それほどまでに夜のセレナ海岸は静寂に満ちていた。


 意識を記憶に集中する。


 私はある時より昔のことを思い出そうとするといつも強烈な頭痛が襲い、そこから無理にでも過去のことを思い出そうとすると景色が白飛び、耳鳴りが加速度的に大きくなっていきやがては失神してしまう。


「痛っ!」


 今回も例に漏れず頭痛が走った。

 しかしそこでもう過去を思い出そうとするのはやめた。以前実際に失神するまで過去を思い出そうとして周りの人たちに多大な迷惑をかけてしまったからだ。


(…やはり駄目か。)


 今度は思い出せる記憶を順に思い出してみる。とはいってもここ二十日ほどの前のこと程度ではあるが。


 私が思い出せる記憶はこの場所―セレナ海岸で目覚めた時の記憶が最も古い。

 経緯は不明だが、人通りの少ないここで意識朦朧で倒れており、そこをたまたま通りかかった一家に助けてもらったのが私の思い出しうる最初の記憶だ。

 私を助けてくれたその一家は父のジナフ、母のアトリ、幼い娘のアンの三人家族で皆とても優しく、得体のしれない記憶喪失の私を介抱してくれただけでなく、記憶が戻るまで利用していいと言って部屋まで貸してくれた。

 彼らはまだリンデに引っ越してきたばかりで、土地に慣れようと街やセレナ海岸を散策していた折に私を見つけたと言っていたが、正直自分たちもまだまだ忙しく大変な状況なのに私なんかにそこまでしてくれたことには感謝してもしきれない。

 そして、私は彼らへの感謝とあまりの申し訳なさに何とか記憶を取り戻そうと頭痛を堪えて懸命に過去のことを思い出そうとしたが、やりすぎてついには気を失ってしまい再び彼らに心配と迷惑をかけてしまったのだった。


(あの時一瞬見えたアンの泣き顔…あれが一番堪えたな。)


 その後気が付いた私はすぐに側にいたジナフとアンに謝った。

 正直追い出されることも覚悟していた私にジナフは、記憶を取り戻すのはゆっくりでいいから自分の体と心を労わりなさいと優しい言葉をかけてくれた。

 ダイニングに行くと丁度アトリが4人分の料理をテーブルに用意しているところで私は思わず泣いてしまった。


「良かった気が付いたのね。でもそろそろ目覚める頃だと思ってたわ。お医者さんの話でも大したことないっていってましたから。それよりお腹減ったでしょ?さ、ご飯にしましょ。」


 下らない邪推で失礼極まりないことだが、正直アトリは私が家にいることを快く思っていないだろうと思っていたから、アトリのその言葉を聞いた後私はありがとうとすみませんを只管繰り返していただけのように思う…。


(全く恥ずかしい奴だな私は。)


 その夜、私はせめて仕事をしたいとジナフに言った。

 私は仕事を自分で探すつもりでいたが、ジナフは私が仕事をしたいと言うとそれを待っていたかの如く間髪入れずに、


「ならいい仕事があるぞ!」


 と宿屋の給仕を紹介してくれた。

 なんで傭兵をやってるジナフが宿屋の仕事を紹介してくれたのか、聊か疑問に思ったがその答えは宿屋の女将さんから聞けた。


「あの、新しく越してきたばかりのジナフさん…だったかしら?あの人、近隣への挨拶のついでに女性に務まる仕事を探し回っていたらしいわ。最初は奥さんの勤め先を探してるのかと思ったけど、そう、あなたの勤め先を探していたのね。」


 宿屋勤め初日、私がジナフの紹介で来た事、ジナフ一家にお世話になっていることなんかを女将に話すと女将はそう教えてくれた。

 私はその時、ジナフ一家にはこれ以上絶対迷惑をかけられない、必ず恩返ししなければと強く思った。


 そういえば宿屋の食堂の忙しさが落ち着いてきたとき、女将が試しにと私に料理を作らせたけど、あの時なぜか具材を大きく切って煮込んだスープを自然と作ってしまったな。

 作っていて不思議と懐かしく感じたあれはもしかして、失った記憶の中にああいった料理でもあったのだろうか。


 その後の日々は宿屋勤めを一生懸命果たしていった。

 記憶探しは仕事の合間や街へ買い物にいったりしてるときに時折、私の顔を見て不思議そうな顔をする人がいたりすると必ず声をかけて自分のことを知っているかと声尾をかけてきたが皆一様に、どこかで見たような気がするが思い出せないと言うばかりで記憶探しは難航していた。

 …難航していたが、宿屋勤めも肌に合っているのか非常に楽しく、仕事の無い時もアンと遊んだり、アトリと買い物に行ったりとするような日々を過ごすうちに私の中で記憶探しを二の次三の次となっていき、正直もう記憶取り戻す必要はあるのかと疑問に思うことすらなくなりつつあった。



 今日あの時までは…



 始まりは今日の昼前からだ。

 今日の昼前、料理の配達の依頼がユニガンの兵の詰所からあった。

 宿屋の食堂業務の一環として料理の配達は何回か私も行ってきたがそれは全てリンデの街中だけだった。

 そして女将はその仕事を私に頼んできたのだった。

 私にとっては初めての厳密にはセレナ海岸に倒れていたから初めてではないが、それでも覚醒時に街を出るなんてことは初めてで幾ばくかの不安があった。


「分かりました。けど道中魔物や魔獣が襲ってきたらと思うと少し不安です。今リンデの兵は少数で街の出入り口を警備してる程度ですし護衛も頼めるかどうか…。」

「それなら聖騎士アナベル様がお作りになった錬仗兵器があるから大丈夫よ。」

「っ!」


 その時電流のように頭痛が走った。以前無理やり記憶を思い出そうとした時に近い鋭い痛みに私は思わずよろめいた。

 今の女将の言葉に一体何があったというのか、と困惑したが何も思い出せない私に答えなど到底出せるはずもなかった。


「大丈夫かい?」

「は、はい大丈夫です。」

「ならよかったわ。私みたいな一般市民はアナベル様の姿を石像でしか見たことないのがほとんどだけど、あの人のおかげでユニガンからリンデに至るまで本当に信じられないほど大きく発展できたのよ。ほんと立派な人よね。けど最近じゃアナベル様が失踪したとか変な噂を流す人もいたりするみたいね。あ、でも錬仗兵器はちゃんと動いてるから安心していってらっしゃいね。」


 そういって女将は料理の入った箱に蓋をし、それを布に包んで私に渡した。

 けど私がそれを受け取る時、女将は私の顔を見ながら言ったのだ。


「あなたよく見たら石像のアナベル様にどことなく似てるわね。けどアナベル様は美しく輝く金髪、あなたもとても綺麗な髪だけど金じゃなくて紫色だしきっと他人の空似ね。それじゃ気を付けて行ってきてね。」

「はい、行ってまいります。」


 私は料理の包み片手に宿屋を後にした。


 そう、その後すぐアンに会ったのだ。


 私がリンデからセレナ海岸に今まさに出ようというとき、後ろから声をかけてきたのだ。


「おばさん!あたしも一緒に行く!!」

「だめよ。危険な魔物に襲われるかもしれないわ。」

「いや!おばさんと一緒にいたい!行きたい行きたい!」

「困ったわ…。いくら錬仗兵器があるといっても危険なことに変わりは…。」

「だいじょうぶだよ。道が”せいび”されてるところは街の中と同じくらい安全ですごいってパパ言ってたもん!」

「そう、ジナフが。分かったわ一緒に行きましょう。けど絶対に私から離れちゃだめよ。」

「うん!」


 そうして私はアンと一緒にユニガンに向かったんだ。

 ユニガンへ向かう道中色々なものに釣られてアンが整備された道から離れそうになったけど、私はそのたびにアンの腕を引っ張って止めていった。

 往きは本当に何事もなく無事に辿り着いた。


「頼まれてた料理お届けに参りました。」


 ユニガンの門の詰所の扉の前に立っている兵士に私は声をかけた。


「ん?ええ!?…あ?ああびっくりした。すまない失礼した。配達ご苦労、これは代金だ。」


 私は包みから箱を出すと兵士に渡した。

 しかし私は料理の入った箱を渡しながら思った。


(今の反応、今までで一番私の顔を見て驚かれた。何か知ってるのかも…勇気を出して訊いてみよう。)


「はい、ありがとうございます。…あの今私のことを見て驚かれませんでしたか?」

「ああ、すまないね。知っている人にあなたがあまりにもそっくりで驚いてしまったんだ。」

「そう、でしたか。恐縮ですがそのお知り合いの名前を教えていただくことはできませんか?実は私記憶喪失で昔のことを何も思い出せないんです。だからどんな些細な情報でも欲しいんです。」

「んん、参ったな。こればかりは公にはできないことでな。気の毒だが教えることはできないんだ。」

「そうですか…。ありがとうございました。」


 私はアンの手を引いてとぼとぼとリンデへの帰り道を歩き出した。

 ユニガンとリンデの中間あたりに来た頃、アンが私に慰めの言葉をかけてきた。

 私は記憶を取り戻せなくてもいいのかもしれないなんて思っていたが、どうやらその時私は端から見て分かるほど落ち込んでいたらしい


「だいじょうぶ!平気平気の錬仗平気だよおばさん!」

「アン…。」

「あのねあたしはね、おばさんのこと大好きなの。記憶があってもなくてもおばさんのこと大好きなの。あたしにはおばさんと遊んだ楽しい思い出いっぱいあるよ?おばさんはアンとの思い出ないの?」

「ううんそんな、そんなことないわ。私もアンのこと大好きよ。アンとの思い出だってたっくさんあるわ。」


 アンは本当にいい子だ。


 …まったく、私の涙腺の緩さは記憶を失う前からだったのだろうか。

 そんな私の対称的にアンは嬉しそうに、


「にへへ、でしょでしょ?」


 なんて笑いながら照れくさそうにくるくる回りながら言っていた。


「心配かけてごめんなさいね。さ、リンデに帰りましょ。」


 しかしこの時だった。


「あ!」


 というアンの声が少し遠くから聴こえた。

 どうやら私が涙を拭っている隙に、くるくる回っている時に見つけたのか、アンは岩陰に咲く花を取りに行ってしまったのだ。

 私が気づいた時にはアンはてくてくと走りながら遠く離れた岩陰にすっかり近づいていた。


「ダメよアン離れちゃ!」


 私はアンを呼び止めたがすっかり手遅れだった。

 錬仗兵器の偵察範囲外で待ち伏せしていた魔獣に見つかってしまったのだ。


「人間はみぃんな殺してやるぜ~。」


 アンの3倍はあろうかという身の丈の魔獣だ。アンのような幼い子が地面の花を探していては視野が低すぎて魔獣の存在に全く気付かなかったのだろう。

 アンは声の聴こえた遥か頭上を見上げた。


 アンが見上げたそこには魔獣騎士が狩りやすそうな獲物を見つけてニタニタと笑っているのが目に入った。


「きゃああああっ!」


 アンが悲鳴を上げた。

 しかし魔獣は容赦なくその斧でアンを斬ろうと振りかざした。

 私はその時妙な感覚に襲われていた。

 アンの傍に魔獣の姿を見た時、私は恐怖を感じる一方でとても冷静に無意識のうちに足元の石を料理を運ぶのに使った布にくるみ、ぶんぶんと回して投擲の要領で魔獣の顔に布ごと投げつけた。


 アンが悲鳴を上げ、魔獣が斧を振り上げた瞬間私の投げつけた石が魔獣の顔に当たり、布が広がり魔獣の視界を塞いだ。


「っ!」


 その瞬間魔獣が怯んだ。


「走って!!」


 私は大きな声でアンを呼んだ。


「おばさん!」


 アンは猛ダッシュで私の方へ走ってきた。


「急いでこっちへ!」


 私はアンの手を引いて懸命に走った。


(おかしい。錬仗兵器が来ない。けど錬仗兵器に頼れないなら私がアンだけでも逃がさなくちゃ…。)


 しかし幼い子供を連れての逃亡を魔獣の訓練された騎士が許してくれるはずもなかった。

 ほどなくして私たちは魔獣に追い付かれてしまった。

 私は素早くアンを自らの後ろに置いて魔獣に立ちふさがった。


「小賢しい真似をしてくれたな。」


 魔獣は怒りを露わにしていた。

 アンは酷く怯えている。


「うぅ……おばさん、こわいよぅ……。」


 私も怖くて仕方がなかったがアンがいるのだ。精一杯強がって言った。


「大丈夫……あなただけは必ず逃がしてあげるわ……!」


 恐怖で震えそうな声を抑えて言った私の強がりを魔獣は鼻で笑った。


「ハッ!人間の女ひとりでなにができるってんだ!俺の視界に入ったことを後悔するんだな!」


 その時だった。

 不意に後ろから女性の声が聴こえてきたのだ。


「…いいやひとりではない。」


 そして声がしたかと思うと2人の人影が後ろから駆け抜けていって、私たちと魔獣の間に立ちふさがった。


 1人は男性で女性の方に比べると軽装だったが素早く剣を構えて敵を睨みつけていた。腰には大きな剣を佩いていた


 そしてもう1人。

 紅い鎧を着た長い黒髪の女性。

 背負っている布にくるまれた大きな剣。


 それから彼女たちはあっという間に魔獣を倒して、私とアンは無事リンデに帰ることができたんだ。


 ただ紅い鎧を着た女性、あの人は私のことを初対面って言ってたけど、どうもそうは思えない態度だったし、私自身彼女のことがとても気になっている。


 リンデに帰った後、私はジナフ一家を集めて今日あったことを話した。

 ジナフとアトリはアンのことをとても心配していた。

 当たり前だ。娘が下手をすれば死んでいたかもしれないのだから。

 私が起こしてしまった取り返しのつかない不始末のせいだ。


「今日のこと本当に申し訳ありませんでした。アンを街の外へ連れ出しただけでなく、命の危険に晒してしまって…。」


 私から話を出した。

 今回の問題は明らかに私が目を離してしまったことが原因だったからだ。そして


「私はもうここを出ようと思います。これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません。」


 ジナフとアトリは黙って聞いていた。けれどアンは


「ちがうの。あたしが勝手に離れちゃったから悪いの。おばさんは悪くないの。」

「ありがとうアン。けどね親切にしてもらったからこそ、お世話になったからこそきちっとしないといけないことなのよ。」

「…うぅ、アン分かんないよ!おばさんと離れたくないよ!」


 半泣きのアンにアトリはそっと近づくと頭を軽くなでながら言った。


「よしよし……ママもパパもお別れは寂しいのよ。でもね、ネーサさん自身の気持ちの整理の問題でもあるのよ。だからアンもネーサさんの気持ちを尊重してあげましょう。」


 ネーサ…。

 名前も忘れていた私はここでネーサという名前で暮らしてきた。なんでも気絶した時に譫言のように言っていたからとアトリが付けたらしい。


「うぅ…。おばさんは出ていきたいの?」


 アンは泣き顔でこちらを見てきた。


「出ていくことはね何も悪いことばかりじゃないのよ。私も今日のことで記憶を取り戻す必要を強く感じたし、そろそろ自立しなきゃとも思っていたしね。」


 ここから自立しようと思っていたのは本当だった。ただこんな迷惑をかけたから去るような形でなるなんて思ってもみなかったけれど。


「うん。あたし分かったよ。それがおばさんの”けじめ”ってやつなんだね!あたしはおばさんが大好きだからおばさんの気持ちをそんちょーするの!」


 アンが涙をこらえながら言っている姿はとても愛おしかった。

 本当にアンはいい子だ、だからこそ私は…。


「行く当てはあるのかい?」


 ずっと黙っていたジナフが訊いてきた。


「とりあえずはユニガンに行こうと思ってます。この街では私のことを知っている人はいませんでしたが、ユニガンなら私を知っている人がいるかもしれませんので。」

「そうかい…。それで出立はいつにするんだい?」

「今夜すぐにでも…。」

「…!」

「わかってます。今日魔獣が出たばかりのセレナ海岸を夜通るのは危険だというのは重々承知してます。ですが今日の内にでもユニガンの酒場へ行きそこで情報を集めたいのです。ユニガンは人の出入りの多い街、今夜酒場にいる行商人も明日の朝にはどこかへ行ってしまうことも考えられるので、それで…。」

「ああ、わかった。……よし!アトリ、荷造りを手伝ってやってくれ。」


 私は嘘を吐いた。

 急いでユニガンの酒場に行かなくとも私の過去を探る宛てはあったのだ。

 今日会った門兵、あの者なら何か知っているだろうということはおおよそ予測はついていた。

 だから本来なら宿屋の女将や世話になった人たちに挨拶してから出立するべきだったのだ。


 しかしあの時…もし魔獣の斧がアンに振り下ろされていたら…


 そう考えると恐怖と申し訳なさが湧いてきて、ああ自分はこの場所にいるべきじゃない、とそう思えて仕方なかったのだ。

 ジナフもきっとそんな私の気持ちを理解していたのだろう。

 取ってつけたような理由でリンデを離れることを分かってくれたのだから。


 その後私は感謝の意を告げてアトリと共に家を出る荷造りを始めた。

 しかし荷物のほとんど無い私の荷造りはほどなくして終わりすぐ家を出る次第になった。


「大変お世話になりました。」

「ああ…気を付け行くんだぞ。」

「体には気を付けてね。いつでも帰ってきてね。」

「そうだ。ネーサももはや我が家の一員なのだから例え記憶を取り戻せなくてもいつでも帰ってきてくれよ。」

「アトリ…ジナフ…。ありがとう。ですが私は必ず記憶を取り戻した良い報せを持って帰ります。必ず…。」


 アンが私の足元によってきてスカートの生地をきゅっと掴んだ。

 その目には涙が滲んでいた。


「おばさん、ごめんなさい。あたしのせいで…あたし…うぅ。」


 私はアンの頭を撫でた。


「泣かないでアン。アンは何も悪くないんだから自分をせめないで。それにおばさんアンが泣いてるととっても悲しいわ。」

「でもぉ…。」


 私はアンの前に屈みアンをぎゅっと抱きしめた。


「パパとママの言うことをちゃんと聞いて元気にすごすのよ。」

「…うん。あたしいい子にしてる。だからきっと帰ってきてね。」

「……ええ、きっとまた会いましょう。」


 私はアンを離すと旅装束のフードを目元まで深く被った。


「それでは本当に…本当にお世話になりました……。」

「ええ…。」

「気を付けて…。」


 フードで視界を塞いでも三者一様に声が震えていてはあまり意味は無かったな。

 私はジナフ一家に背を向けて歩き出した。

 アンの声が最後まで聴こえてきていた。



 ひときわ強い波がセレナ海岸の岩に打ち付けられた。

 今まであったことを思い出してみてもやはり記憶を失う前のことは思い出せないか。

 それにしても今日魔獣が出たことは衛兵たちにも伝わっているだろうに、随分と警備が少なかったな。

 リンデを出る時に場合によっては衛兵を回避しなければと考えていたが結局正面から街を出られてしまい、なんとも拍子抜けだった。


 私はユニガンへの道を進み始めた。

 背の高い岩の多い道に差し掛かる。

 ここは魔獣が潜んでいたり、罠を仕掛けていたりと要警戒地点となっていたはずだ。

 そこにも衛兵や警備用の錬仗兵器の影も形も見当たらない。


(さすがに何かおかしいな。静かすぎる。)


 いくら夜とはいえここまで警備が手薄になることはないはずだ。

 私は警戒心を強めてなるべく足音を立てないように歩いた。


(あの時、アンが魔獣に襲われたあの時もそうだが、私は荒事が起きそうな時や実際に荒事が起きている時に無意識にそれに体が対応しようとするな。もしかしたら記憶を失う前の私は兵士だったりしたのかもしれないな。)


 それは突然だった。

 どこか悠長にそんなことを考えていた時まさにその戦う者の直感に悍ましいほどの戦慄が走った。

 この世の全ての悪意を束ねたのような害意、生きている者すべての命を奪おうとする圧倒的殺意。

 その底知れない悪意だけで相手を呪い殺せるんじゃないかというほどの恨みつらみに憎しみ。


(一体なんだこの気配は!?)


 気配の正体は気になったが私はその正体を知るよりも逃げる方が生き残れると直感的に感じ取りすぐにでもリンデへ逃げようとした。


 リンデ…アンの顔がよぎる。


 この悍ましいほどの悪意は街の兵士たちでは太刀打ちできないだろうといいうことは直感的に分かる。ユニガンの親衛隊が総攻撃を仕掛けてやっと止められるかどうかだろう。


(このまま逃げてはきっとアンにまで危険が確実に及ぶ。この気配はそれほどまでに強い…。せめて気配の正体だけでも衛兵たちに持ち帰らねば…。)


 私は気配のする方向へ足を向けた。

 比較的大きな岩の数十メートル向こうの砂浜ににその気配を感じる。

 私は完全に自らの気配を断ち切って、岩陰から覗いた。


(…!!)


 そこには地獄のような光景が広がっていた。

 粉々に壊された錬仗兵器の残骸の山に囲まれて十人ほどの、おそらく海岸やリンデ入り口を警備していたであろう兵士たちの死体。

 風向きによっては血の匂いでむせ返ってしまっただろう。


 そしてその中心に悍ましい気配の正体はあった。

 魔獣。


(あれがこの気配の正体…いや。)


 魔獣は


「人間は皆殺し……。」


 とぶつぶつ言いながら死んだふりをしている者がいないか兵士の死体を順々に剣で刺していっていた。

 そのとどめに使っている剣は刃の色は黒く、ぐねぐねと波打ったような形状をしていて、なぜか取ってつけたような突起が刃の先端に取り付けられているその剣。


(あの禍々しい剣あれからものすごい力を感じる…。あの剣のせいで魔獣はおかしくなっているのか?)


 とにかく事の次第をリンデの兵士たちに知らせねば。

 しかし私が岩陰から動き出そうとした次の瞬間、ぶつぶつと言いながら兵士たちを刺していた魔獣が動きを止め鼻をひくひくさせてこちらの方向を見た。


(しまった!風向きか!?)


 私はリンデのアンたちに危険が迫っていることに動揺していてこちらの匂いが相手に届いてしまう可能性を失念していた。


「…やっと見つけた。」


 魔獣はぽつりと呟くとものすごい勢いでこちらに走ってきた。


「くそ!」


 私は全力で走りだした。


(…どう逃げる?このままリンデへ戻るか。だめだ今リンデは兵が少ない。複数の錬仗兵器と兵を一人で倒せるあいつを街に入れたらリンデは壊滅するかもしれない。)


「その顔!匂い!間違いない!」


 魔獣が迫っていた。

 わたしは一か八か岩陰に隠れ魔獣の動きを観察した。


「隠れても無駄だああ!」


 そういうと魔獣は私が隠れている岩を飛び越えようとジャンプした。


(今だ!)


 私は魔獣がジャンプするのと同時に魔獣のいた方向へ全力で走り、魔獣が岩を飛び越えようと高くジャンプしたその滞空時間分距離を稼いだ。


「ぐぅ、こざかしい。本当にこざかしいまねをおお!」


 着地した魔獣は激高し、私をさらに追いかけ始めた。

 私はユニガンへの道を走った。


(ユニガンの兵力ならきっとあの魔獣を倒せるはず…)


 ユニガンへの道中魔獣に殺された兵たちの近くにさしかかった。

 目を背けたくなるほど惨たらしい有様ではあったが、私は必死にあるものを探した。


「…!借ります!」


 私は走る速度を落とさないようにすばやく兵の使っていたであろう剣を拾った。

 私に何ができるわけでもない。

 しかし剣を取って戦うという選択肢も残しておかなければならないと、おそらく記憶を失う前の自分の直感がそうさせていた。


「逃しはせぬ!逃しはせぬぞお!!」


 やっとユニガンの門が見えてきたところで魔獣に追い付かれてしまった。


(くそ!門が開くのを待つ余裕はあるか?)


 私が門に着いた後のことを考えていたその時、空から目の前にさっき見た魔獣の剣が落ちてきて地面に突き刺さった。

 焦って武器を投げたか、今の内なら…


「きゃああっ!」


 何が起きたか分からなかった。

 剣の横を通り抜けようとした瞬間、ばちばちっと弾けるような音と共に私の体は大きくユニガン裏の森の方へ弾き飛ばされてしまった。


「ぐぅ…一体何が…。」


 しかしなぜか剣を拾い上げた魔獣はすぐに斬りかかろうとしてこず、こちらへと歩いてきていた。


「ああ、ありがとうみんな。こんな私に力を貸してくれて。ああ、大丈夫大丈夫だよパパももうすぐみんなに会いに行くからね。お土産たのしみにしててね…あぅぐぅあああああ!」

「はぁ…はぁ…一体何を言って…。」


 私はその時初めて魔獣の顔をはっきりと見た。

 薄明りに照らされた魔獣の顔は苦悶のそれで悲しみや苦しみ、憎しみがいりまじっているかのようでその目からはずっと涙が流れていた。


(この魔獣はいったい…。しかし今はそれどころじゃ。)


 私は魔獣のことも気になったが今は我が身に迫った危機をどう乗り切るかが最大の課題だった。

 ユニガンの門からもセレナ海岸の道からも大きく離された私にはもう後ろのユニガン裏の森の中の道なき道を走り抜けるしかなかった。

 迷っている暇はない。


(逃げなきゃ!)


 私は全速力で森の中へと走って行った。


「ああ、またあいつは逃げた。本当にとんでもな悪いやつだね。パパが必ず殺してくるからね。ああ、うああああ。」


 魔獣が後方でまた妙なことを言っているようだったが私はとにかく走った。



「貴様はなぜ生きようとする!殺してやる殺してやる!にげるな…逃げるなああ!」


 さきほどまでの意識が混濁したような言動をしていた時と打って変わってはっきりとした殺意を向けて魔獣は私を追いかけてきていた。

 私は森の中の比較的整っている道ではなく、なるべく魔獣の巨体で走りづらいような木々の合間を縫うように逃げた。

 これが意外と効果的だったのかセレナ海岸を逃げていた時より距離を詰められにくくなっているようだった。

 しかし振り切れるほどでもないようだった。


「逃すか逃がすものかあああ!!」

「はぁ…はぁ…あいつは私を諦めてくれそうもない。けどこのまま逃げていてもいつかは…。」


 私は覚悟を決めた。

 兵士から借りた剣を強く握りしめ少し開けた場所に出たあたりで、魔獣を迎え撃つことにした。


「おいついたぞ…。」


 魔獣が森を抜けて私の前に現れた私は自然と剣を構えていた。

 記憶は全くないが体が覚えていることだけは感じ取れていた。

 長年の鍛錬による剣の技が自分には使えると記憶ではなく体で確信できていた。


「私は…やられるわけにはいかないんです!」

「ほざけ!!貴様には俺がこの剣で裁きをくだしてやろう。」


 魔獣の剣が禍々しい瘴気を帯びていった。


「死ねえええい!」


 魔獣が斬りかかってきた。

 すっと魔獣の剣の軌道を逸らそうと構える。


(…!?)


 刹那死を直感した私は剣を下げ大きく横に飛んで飛んで魔獣の剣から逃げた。

 そして次の瞬間、私がいた場所を轟音と共に黒く禍々しい剣気を纏った斬撃が地面を大きくえぐりぬいた。


(なんて威力…。私の持っている剣で受け流すこともできないわ…。)


 私は冷や汗が流れるのを感じた。

 剣を握ったはいいが勝ち目が無いのは明らかだった。


「逃げてるんじゃねええ!!」


 魔獣はまた私に斬りかかってきて、私もまたそれを避けた。

 死ね、逃すか、許さない、殺してやる…。

 なぜそこまでの感情を私に向けてきているのかは分からなかったが、殺意の言葉と共に魔獣はひたすら斬りかかってきて、私はそれをギリギリかわし続けた。


 しかし魔獣の斬撃が起こす激しい風圧に押され、私は少しずつ避けるタイミングが遅れていっていた。

 私はそれでも大きく後ろに飛び下がり避けて避けて避けまくった。


(…!?)


 しかし最後の攻撃を避けた時死を悟った


「くくく、もう逃げられないなぁ?」


 いつの間にか私は泉の前にまで追い詰められていたようだ。

 どこに逃げるのも間に合わない。

 魔獣の次の一撃で私は死ぬ。

 なぜ、なんでこんなことになってしまったのか。


「なぜ…なぜ…あなたは私にそんな殺意を向けてくるのですか?」

「きっさまぁ!」


 魔獣は私の言葉に心底怒りを覚えているようだった。


「とぼけても無駄だ!髪の色まで変えてやり過ごせるとでも思ったのか!ああ、だめだ。この森にいるとあの子の笑顔が、あの子の声が聴こえてきて…はっ!うわああああああ。」


 魔獣は苦しみながら腕を振って何かを払おうとしている。

 髪の色まで変えて?

 記憶を失う前の私はこの魔獣に何をしたというのか。


「あの、ごめん…なさい。私…その本当に昔の記憶がなくて…。」


 魔獣の動きがぴたりと止まった。


「なんだと…!?まさかそんな言い訳で命乞いするつもりか。きたない、汚すぎる!お前さえ殺せば全て終われると思ったがやめだ。お前を殺したら次はリンデの人間全員とユニガンの人間全員を殺してやる。いや、世界中の人間一人残らず殺してやる。女子供も一人残らずだ…。ああ、待っててねパパちょっと遅れちゃうかも…ああああ、うわあああああ。」


 魔獣は再び苦しみ呻きながら左手で顔を覆いながら剣を持った腕をぶんぶんと振り回した。


「待ってください!私の命は差し上げますから、どうか関係ない人たちには危害を加えないで!子供には何の罪もない…。」

「あの子に罪があったのかあああっ!」


 その時魔獣が適当に振った剣の風圧が私を大きく吹き飛ばし、私の体は泉落ちた。

 しかし私の体は泉の水面を波立たせることもなく静かに泉の中へ吸い込まれていった。



「はっ!どこだ。どこへ消えやがった!」


 夜の闇に包まれたユニガン裏の森のそのまた奥、女は消えただ魔獣の咆哮だけが響いていた。


「どこへ逃げようと必ず見つけ出し貴様を殺してやるぞ!聖騎士アナベルっ!!」

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