失くしもの / 蟻酸

追手門学院大学文芸部

第1話

 人が重要な何かを失ったときどんな行動をとるだろうか。多くの人は失った直後はしつこく執着しようとも、いつかは忘却に至るだろう。しかし私の場合は違う。忘却したままとはいかないのだ。いや、忘却すら許さない程に重要なものをなくした。もしも、失ったままならば私がこの先、一生を過ごす中に生じる不都合は多大なものになる。


 傷つくのは道理だと自身に言いたくなるが、このままじっとするままだと何もならない。昨日は確かにあったのだ。きっとどこかに落としたのだろう。そう思ったならば、まずすることは通った道を遡ることだ。立ち上がり、自宅の戸を開く。記憶を探りながらに歩き出す。そうだ、先ほどは雑貨屋に用があったから向かったのだった。


 ならば、その道中に落としたのか。不安と期待が入り混じりながらアスファルトを隈なく探す。高価なものとは思わないが、特徴ある物だ。盗みの被害にあうだろうことも想像がつく。俯きながら歩くという物探しの際には通途のポーズが理由となり気付かなかったのだが、すぐそばに人がいた。その人物も、私と同じく余所見しながらだったからだろう。危うくぶつかりそうになった。


「ああ、申し訳ありません。余所見してしまっていました」

「いやいや、こちらこそ。ときに、この辺りに私の落とし物を見ましたか?」


 たまたまだが、こうしたとっかかりが生じたのだから使う他ない。聞き込みもまた捜索の基本だ。


「落とし物、ですか。それはどんな物ですかね」

「私の語彙の中から表すなら──」


 一拍置き言う。


「道にあったら異彩を放ち、かつ非常に大事だと分かりやすいものと言いましょうか」


 私の言葉を聞き、首を傾ぐ。確かに伝わりにくい言い方だが、そうとしか表す言葉はないのだ。より分かりやすく伝わるだろう方法を私は知らない。ちなみにイラストを用いる手段は思いついたのだが、私の美術の技量を鑑みると代替手段にならないということは明らかになる。


「すみません、ちょっと存じ上げないですね」

「分かりました。こちらこそ、お時間頂きありがとうございました」


 思った通り、収穫はなかった。しかし私は変わらず失ったままなのに、周囲の人々は所有したままなのだという事実に焦燥を感じる。何か足掛かりとなる情報を欲したから話を聞いたというのに、その事象が心の余裕を奪うことを引き起こすとは。仕方ない。きっと捜索を続行する以上は仕方ないことなのだ。


 失ったことにより私は普段よりもその存在に敏感なのだ。気を取り直し雑貨屋に向かう道を歩く。もちろん注意を散漫にしないよう気を遣いながら。


 その後、しばらく歩いたのだが私の落とし物は見つからなかった。ついには雑貨屋に到着したのだ。道中、一つの物も見逃すまいと気を張りながら歩いたのだ。見逃したということはない。見逃しがない確固たる証拠となるのは、道端にあった財布だ。他の人の落とし物に違いない。何の因果が私に他人の落とし物の拾得に導いたのか。厄介事が一つ増加したのみだ。同様に道行きを辿るなら雑貨屋から郵便局に向かうのだが、先にこの財布を交番に差し出す必要がある。拾得物横領の罪が理由となり捕まるなどまっぴらだ。


 いや、交番ならば。そうだ交番だ。今しがたにやっと気づいた。同じように私の落とし物を拾った者が交番に持ち込んだ確率は無だと限らない。落とした物の価値を考慮するなら尚更だ。


 一度、顔を出そう。活路を見出したようだ。足取りは軽くなり、少し早足になるのを感じる。ちなみに所有者不在の財布はきちんと持った。私の用事の副産物のようなものだが、拾った以上は義務を果たす。


 自宅から最も近い交番に着くと、まずは財布のことを話した。私の用事の方が重要だろうとも、素直に言うことこそがいつも最良とは限らない。


 財布を拾ったらどうするか、というもしもの話を何度かした記憶がある。その記憶は小学校に通うような年の頃か。純粋な厚意によるものにあらずとも、幼少の折の語った倫理に則った人の行動をとる自分を、少しばかり喜ばしく思った。


 交番の事務処理は、私が思ったよりも短かった。住所や通話をする番号などの個人情報を記した後に、拾得物を確かに預かったという証書を貰う。その際に、色々と細かな事を話したのだが、私の認識におくところの本題はここから先にある。気もそぞろだ。


 話の隙間を察知した私は、その期を見逃すことなく話す。


「ちなみに、私の落とし物はありますか?」

「あなたのですね。何を落とされたんですか?」

「失くしたら、日々の暮らしすらままならなくなります。そういった物はありますか」


 私が言った言葉の理解に少し頭を使ったようだが、すぐに思い至ったようだ。引き出しから、何やら小さく簡素な金庫を取り出すと衣嚢から鍵を出し、開錠した。


「これで間違いありませんね」


 金庫の中には黒く、光を反射する材質による球体があった。


「はい、はい!間違いない。私が落としたものはその球に違いない!」


 やや興奮しながら応答する。一時はどうなることかと思ったが、最後は無事に探し出した。やはり善いことはするものだ。もしも交番に行かず財布を盗んだとしたら、交番に行くという発想が生じず、無意味な捜索をしたまま日が沈んだことだろう。


 何とも喜ばしい。受領するにも、またもや事務処理が生じたが、今の高揚や安堵と比較したら些事に過ぎない。


 処理が終わったら公式に私の所有物だ。私は球を掴み──丸ごと飲み込んだ。


 大きさが親指ほどはあるものだから、丸のみするには少し突っかかる感覚がある。


「えー、え。ああ良かった!やっと戻ってきた!」


 不自由なく話せる。警官に改めて感謝し、私は家路についた。僅かに歩けば、空腹感が頭に根付いた。遺失物について集中し過ぎたからか昼飯について失念していた。すでに日が傾いている。軽く何か食べてから帰る。決めて近場にある店に向けて歩き出した。踏み出してすぐ、何か違和感に気付いた。




 あれ、また何か失くした気がする。








「あ」「と」「か」「き」


 最初に示さなくてはならない。この小説はリポグラムだ。この単語を始めて知る者も少なくはないはずなので、説明させてもらう。リポグラムは定められた文字を使用せずに文章を記す一種の縛りだ。英語圏で生まれたらしく、現在でもこのルールの内で執筆された小説はいくつも出版されている。検索エンジンで検索すれば、先人たちの素晴らしい作品を見つけられるだろう。この度私はそれをやりたい、その一心だったせいで少々複雑なものになってしまった。そういうわけでネタバラシをさせてもらう。用いない文字は「e」。つまりエ段の文字を用いないようにした。主人公の失せ物は文字だったわけだ。失くしたのは主人公だけなので、通行人や交番の職員は平時のように話している点は了承してもらいたい。


 追伸

 この「あとがき」もまたリポグラムだった。

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