希、結ばれる時

入賀ルイ

希、結ばれる時


 世界は残酷だ。 


 人間は平等な生き物ではない。

 生まれた場所、時、親、境遇・・・、誰一人として一緒な人間はいない。生まれた瞬間から優劣が付きまとい、それは時に差別、争いへと通ずる。


 世界平和なんてものをうたう人間がこの世界にはいるという。

 ・・・馬鹿げた話だ。何一つ見えちゃいない。


 俺という存在も、知らないくせに。


×××


「おい、ユイ。聞いているのか?」


「・・・んぁ、おはよう」


 低くしゃがれた爺さんの声で俺は微睡まどろみの世界から覚める。

 


 目覚めたここはスラムと呼ばれる場所。

 ・・・といっても、ホームレスの集まりというわけでもない。


 ここには家もある。衣服も、食料も、全部がかろうじてある。

 無いものは・・・、まあ、山ほどある。



 まず、ここに住む人間は誰一人として親がいない。

 俺もその一人。

 十年ほど前、俺はこのスラムに捨てられたと、ここの長をしている爺さんに聞いた。

 

 なぜ俺の親が俺を捨てたかなど俺は知らない。それどころか、自分の『苗字』と呼ばれるものすら俺は知らない。

 親に呼ばれていた名前『ユイ』。それだけが俺の所有物だった。


 俺達スラムの人間に法はない。ここは生き遅れた者たちの集まり、いわば政府から見捨てられた無法地帯だ。

 だから法もない。学校もなければ教育もない。あるのは我が身一つと悪知恵わるぢえ。時々誰かが送る配給もままならない。

 

 秩序なんてものもないから、誰も常識を知らない。俺も多分、そのうちの一人だろう。盗みなんて当たり前だ。


 皆暗闇の中で必死に生きている。

 そう考えれば、スラムの権力者の爺さんに拾われた俺はまだ恵まれていると思う。


 でも俺は、幸せを知らない。今の生活を幸せと思ったことはない。

 酷すぎるんだ、世界は。


 本で外の世界を読んだときは絶望した。


 俺のいる場所とはかけ離れた、楽園のような場所。

 俺は、その世界にいたはずだった。

 ・・・でも、捨てられたんだ。俺の両親は、俺の幸せだけ奪っていった。


 そして今日も俺はここにいる。薄暗い街で、細々と明日を待っている。



「・・・今日は、雨じゃな」


 憂鬱そうに、爺さんは割れた窓ガラス越しの曇天どんてんを見る。灰色の空はただ涙を流すように雨を降らせていた。

 俺はただ、口先だけで相槌あいづちを打つ。


「そうだな」


盗人ぬすっとが動くには十分な日じゃろうな」


「配給もまだだしな」


 スラムで盗みは仕方のないことだ。


 俺は特別思いもなく立ち上がった。何か出来るわけでもないのに体は独りでに動く。


「どこに行く? 今日は雨じゃぞ。・・・本探しはやめとけ」


「分かってる。けど、なんか今日はここに居たくないっていうか」


「同い年くらいの奴の盗みの手助けだけは、やめておくんじゃな」


「・・・分かってるよ。それじゃ」


 立てつけの悪いドアを閉めて、俺は外へと向かう。いつも鼻腔を突く悪臭は雨に濡れてか力を弱めていた。


「・・・甘いんだよ、爺さんは」


 そんなのじゃ、この街では生きられないって言うのに。


 朝の光も差し込まない薄暗い路地を行く。差す傘なんて当然なく雨に濡れながら何かを探す。



「あの!」


 ふと、聞きなれない声がした。少なくとも、ここの人間じゃない。

 誰だろうと顔を上げると、髪を短く整えた、傘を差してたたずむ同い年くらいの一人の少女がいた。


「・・・誰」


「初めまして。私、のぞみって言います。苗字は」


「いや聞いてないんだけど。てか、何の用?」


 急にスラムに来られて声を掛けられて、俺からすれば迷惑でしかない。

 第一、スラムは普通の人間はみ嫌う場所である。来る以上、この女はさぞ物好きなんだろう。


 この女―――希は一つ息を整えたかと思うと、俺の死んだ目をはっきりと見つめて、いたずらっぽく微笑ほほえんで言い放った。


「ね、出かけましょ?」


「・・・はい?」


 俺は何を言われたのか全く理解できなかった。


「出かけましょ、街へ。私、あなたに興味があるんです。えっと、名前は・・・?」


「・・・ユイ。というか、俺はお前・・・えっと、希か。には興味ないし、てかなんでこんな場所に」


「つべこべ言わずほら、行きましょ!」


「え、あ、ちょっと・・・」


 半ば強引に腕を引かれ、俺の身体はいつの間にか雨から守られていた。希のいる傘の中に俺はいた。


「おい、何のつもりで・・・」


「お願い! 今日一日だけでいいからさ! 付き合って!」


 その声は、確かに俺の胸に響いた。

 正直なその言葉に俺は答える術を無くし黙り込む。


「・・・」


 そのまま俺は何も言えないまま、スラムを後にした。


×××


「んー、よし! この服でどうかな?」


「・・・別に頼んでもないのに」


 希に連れられた俺は、街の服屋にいた。

 コーデと言われ様々な服を見繕われて、慣れない服に袖を通しては講評されている。訳の分からない状況に俺は困惑した。


「やっぱり、楽しくない?」


 俺の反応が薄かったせいか、希は申し訳なさそうにこちらを見つめている。


「俺がスラムの人間だからって、同情してこんな行動をしてるのなら俺は怒るぞ」


「ううん、同情じゃない。それは確かだよ。だから・・・率直な感想を教えてほしくて」


 その言葉が嘘じゃないと信じるのは容易たやすいことだった。信じて、俺は正直な自分を少し述べてみる。


「こういう服、着るのなれてなくてさ。お洒落しゃれとか、贅沢ぜいたくとか、分かんない。・・・ごめん」


「ううん、いいんだ。それより、ちゃんと答えてくれてありがとう。ちょっとすっきりした」


 気にしてないよと希は笑う。俺もつられて不器用な笑みを少しだけ浮かべた。


「それで、その服はどうかな?」


「・・・今着てる分は、見てもらった中で一番好き・・・かな」


「分かった! じゃあ、お会計行こうか! 服は私からのプレゼントってことで」


「いいのか? こんな贅沢ぜいたくな物」


「うん。私の意志だしね。受け取ってもらえるかな?」


「・・・まあ、そういうことなら」


 そのまま俺は今試着している服を買ってもらうことになった。


 この贅沢ぜいたくは許されるのだろうか。そんなことばかり、俺は気にしなってしまう。

 ただ、満足そうな希の笑顔の前では、文句を言うことは出来ずにいた。



×××



 街を彷徨さまよい歩く。二時間も経つ頃には、傘の中で隣り合うことに違和感をもたなくなっていた。

 希はふと疑問の言葉を漏らした。


「ユイはさ、どんな大人になりたいとかある?」


「・・・それ、スラムの人間に聞くことか?」


「相手が誰だろうと私は聞くよ。だって、誰だって等しく生きる権利はあるんだから」


「それは生きる権利だけだろ。神様は人を平等に作っちゃいない」


「・・・うん、分かるよ。・・・平等じゃない。本当にね」


「・・・」


 一瞬だけ、希は悲しげな顔を浮かべた。


「・・・どんな大人になりたいとか生きる理由とか、考えたことなかった。さっきも言ったけど、スラムは生きるのさえ必死なんだ」


「生きる理由、かぁ・・・。難しいよね」


「・・・お前に何が分かる?」


 分かる。そうだよね。思えばこんな言葉しか先ほどから聞かされていない。

 分かった気でいるのだろうか。俺は正直、腹が立っていた。この苦しみをただの人間の誰が分かろうか。


 しいたげられて、日射しのない生活を送って、それで・・・。


「・・・ごめん」


 そんな思いは勝手に表情に出ていたのか、希は深々と頭を下げた。顔を上げてからも、深い反省の色が瞳に映ったままでいる。


 本当に、混乱させられる。希には。

 頭を掻きながら、俺はその場しのぎに言葉を並べた。


「・・・なあ、この世に希望ってあるのか?」


「・・・あるよ」


 希は少しの間無言で、しかしはっきりと自分の言葉で希望はあると告げた。


「希望はあるよ。私が見せてあげる」


「どうやって」


「さあね。分からない。でも絶対、私がユイに希望を見せてあげるから」


 自信ありげな希を前に、俺は黙り込む。

 ただ、心のどこかで思う。


 ・・・一度くらい、誰かを信じてみてもいいか。



「ね、次はあそこ行こう?」


 希は嬉々ききとして近くのしゃれた時計店を指差す。


「時計なんてガラクタを直せば使えるし、時間は月明かりや日光で分かるんだけど・・・」


「いいから行くの! とにかく今日は主導権、私に譲って!」


「・・・了解」


 雨はまだ、止まない。


×××


 少々歩き疲れてきたのだろう、希が次に選んだのはファミリーレストランと呼ばれる店だった。

 もちろん、スラムの人間である俺には初めての体験。俺は慣れない風景を右に左に見回した。


「どうしたの?」


「こんな店、来たことなくて」


「そっか。とりあえず注文決めちゃおう。何食べたい?」


「・・・なんでもいい。満腹になれるなら」


「分かった。じゃあドリンクバーだけつけて、後は私が適当に頼んじゃうね。結構食べるかな?」


「あるだけは食べる」


「分かった」


 俺からの注文を承るなり、希は迅速じんそくに店の人間を呼び、テキパキと食べ物を告げた。店員が去ると、希は一息ついてまじまじと俺の顔を覗き込んだ。


「・・・どした?」


「ようやく落ち着いたから、ちょっとゆっくり話がしたいなって。・・・ダメ、かな」


「話・・・か」


 出会った時の希相手なら間違いなく俺は拒んでいただろう。今日初めて出会ったような相手に、みすみす自分の弱い部分を晒したくはなかった。


 けれど、今の希は違う。一緒にいてどこか居心地がいいとも思えた。

 少々無神経なところがあるのは承知している。それでも、本気で俺のことを理解してくれようとしているのは十分に伝わっていた。


 だから、自然と肯定の言葉は生まれた。


「面白くない話ばかりだぞ。所詮しょせん、生き遅れの集まりのスラムの話だ。聞いてて気持ちの良くない話ばっかりで、それでもいいのか?」


「うん、いい。私ね、何度も言ってるけどユイの事知りたいの」


「分かった。・・・けど、なんで俺なんだ?」


「この際だから白状すると、ユイ目当てでスラムに来たわけじゃなかったんだ。最初は誰でもいいと思ってたんだ。誰かいるなら、ね」


随分ずいぶんあっさり言うんだな。・・・じゃあ、俺以外の人間ならどうしてたんだ」


「ユイ以外が今日、私の傘に入ってたことを想像できないな」


「なんだそれ」


 頓珍漢とんちんかんな希の発言を、俺が理解できるはずなど当然なく。しばしの無言の後に、気まずそうに席を立ったのは希だった。


「・・・とりあえず、飲み物でも入れに行こうか。ドリンクバーの使い方、教えてあげるね」


 立ち上がった希についていき、慣れない機械を扱う。すると、水が出る。

ボタン一つで飲み水が出るなんて、スラムの生活からはとても想像できないものだ。

 この贅沢ぜいたくを、俺は罪に思ってしまう。


 グラスを持つ手は、自然と止まった。


「どしたの?」


「・・・いいのかな。俺、こんなところにいて。ちゃんと元のさやに納まるべきというか、スラムの人間らしくあるべきというか・・・」


「それじゃ、希望は見つからないよ」


 希の声音は鋭かった。その声音には怒りすら混ざっているように思えた。

 眉をひそめて希は続ける。


「ユイは、スラムの生活だけで希望を見つけようとしてるの?」


「・・・それは」


「誰にだって幸せになる権利はある。無いといけない。だからさ、こうして外の世界に飛び出すことは何も悪いことじゃないと思う」


「そう、か」



 その後は無言で、適当に飲み物をついで席に戻る。

 さっきの一件もあってか、顔を合わせづらい。しかし、話を望んでいる希を前に、躊躇ためらってばかりいられなかった。


「・・・なぁ、希」


「ん?」


 しかし、望んだ言葉は出てこない。


「お前・・・俺と初めて会ったとき、どう思った?」


「どう思ったって?」


「その・・・汚らしい人間とか、そんなこと思わなかったか」


「どうしてそんなこと聞くの?」


「・・・怖くて、さ」


 自分を卑下ひげすることを嫌ったのだろう希は怒っていたが、俺は素直にその理由を述べた。


 怖い。

 どれだけの差別が外で待っているのだろうと思う。どれだけ下に見られているのだろうと思う。同じ人間でありながら、そこには大きな壁がある。

 だから、今ここでこうしていることも怖かった。

 

 想いを一から十まで述べた俺の卓上に放り投げだされた手を、希は暖かい自分の手で覆った。



「大丈夫、だよ。ユイがどんな人間でも、可愛い一人の男の子だと思ってる」


「・・・」


「どしたの?」


「いや、可愛いなんて初めていわれたからさ・・・」


 その言葉にはどこか、確かな温もりを感じた。胸の奥底から温まるような、そんな感覚。初めての感覚だった。

 俺の様子に気づいた希はくすくすと笑う。



「何?」


「耳、赤くなってる。可愛いなぁ・・・」


「・・・やめてくれ、ほんと」


 こうしている今も照れが止まらない。

 思えば、親はもちろん、爺さんにも褒められたことはなかったっけ。


 ・・・いい気分だな、褒められるのって。


 そんな甘い時間の陰で、いつのまにか卓上には料理が次々と並べられていた。ここまでの量は見たことがない。


「・・・いいのか? こんなに」


「いいのいいの。それとも、食べれない?」


「全然」


「じゃ、頂こうか」


 全てが揃ったところで各々が目の前の料理に手を付ける。

 しかし俺が料理に手を付けようとした瞬間、希は俺を言葉で静止した。


「ユイ、箸の握り違うよ?」


「そうなのか?」


「うん。ちょっと待ってね。教えてあげるから」


 希は自らの席を立ちあがると、俺の隣に座り、俺の箸を持つ右手を掴んだ。

 

「まずは一本目をもって・・・。そう。それで、二本目をこうして・・・、うん、こんな感じ」


「難しいんだな」


「誰だって最初はこうだよ。そう考えたら、ユイの飲み込みは早いと思う。掴んでみて」


「くっ、こう・・・か?」


 震える箸先で料理の一欠片を捕まえる。途中何度か落としそうになりながらもなんとか保ち、口の中に運んだ。


「・・・できた」


「・・・驚いた。ユイ、ほんとすごいね」


「でも、普通の人間は簡単にできるし、ちゃんと出来るように教育をされてるんだろ?」


「うん、されてるよ。でも出来ない人は出来ない。・・・いくら教養があっても、富んでいても、完璧な人間なんていないよ」


「そうか」


 そうこうしているとだいぶ感覚をつかんできたのか俺の腕は震えを止めていた。目の前の料理を確かに口に運ぶ役割をしっかり担えている。

 その事が嬉しかったのか、俺は人知れず笑みを浮かべた。

 

 笑みに安心してか、希も自分の席に帰る。

 そこからはお互い箸を進めて食事を続けた。


 料理が半分ほど無くなったところで希は俺の顔を真っすぐ見つめてきた。逃げられない視線に、俺は目をらしながら反応を伺う。


「・・・どした?」


「スラムの話を聞きたいって言ったら・・・教えてくれるかな」


「・・・いいよ。ここまでしてもらってるのに、してもらいっぱなしは嫌だから」


 俺は口周りを紙ナプキンで拭いて、唾で潤ったのどを震わせた。


「スラムは、外の連中が思ってるような場所なのは間違いない。食料も衣服も、住まいも辛うじてあるくらいのところ。学校もないし、勉強もままならない。・・・それに、誰一人親がいないんだ」


「じゃあ、ユイもそうなの?」


 俺は短く一度頷いた。


「俺がまだ小さかった頃に親は俺をスラムに捨てたらしい。それからは、スラムの長をやってる爺さんと暮らしてる」


「そうなんだ・・・。あのさ、質問なんだけど。そのお爺さんがユイの名前をつけたの?」


「・・・いや、ユイって名前は俺の両親が付けたみたい。・・・なぜか覚えてた」


「漢字は?」


「分からない。でも、俺は『ゆい』って漢字をつけた。唯一の唯。ほら、独り身だからさ」


「唯一って・・・。うん、そっか。私と一緒なんだ」


 呟いた希の瞳は、一瞬だけ光を失っているように見えた。


「何が」


「何でもない。ありがとう、話聞かせてくれて。・・・それじゃ、冷めても嫌だし、食べちゃおっか」


 そこからは二人、何も発さずただ目の前の食事を平らげた。

 会計を済ませて外に出たとき、雨はもうすっかり止んでいた。太陽は・・・まだない。


×××


 歩き回り、時間は過ぎる。

 それからはというと、ただ当てもなく歩きながら、いろいろな話をした。

 スラムでの暮らしに何を思ってるか、希が生きる世界では何が見れるのか。

 でも、希は自分の夢だけは話すことをしなかった。


 そうして、夕暮れ時。

 俺と希はいつの間にか近くの学校に辿り着いていた。


「・・・なんで、ここに?」


「ここね、私の学校なんだ」


「それがどうした・・・って待て」


 俺はあることを思い出す。

 今日は、平日だったはず。


 つまり、希は。


「お前、学校は?」


「ごめんね。休んじゃって」


 希は自身の教育を受ける権利を放棄してこの場にいたことになる。

 怒りより、疑問が先だった。


「なんで・・・どうしてそんなこと」


「あれ、希じゃん?」



 ふと、俺の右奥の方から嫌らしい女の声が聞こえる。はっとして希の方を向くと青ざめた顔で下を向いていた。


「なんで学校来ないし? あたし、超暇なんだけど」


 女は明らかに品のある人間ではなかった。嫌な予感が背筋をさする。


「さぼり? いい度胸だねぇ。男なんて引き連れて」


「・・・やめて」


「あ?」


「おい」


 希の小さな助けの声を受け、俺は立ち上がらずにはいられなかった。


「嫌がってんだろ。やめろよ」


「はぁ? お前、何様のつもりで・・・」


「行くぞ、希」


「え?」


 俺は希の震える腕をつかむと、一目散いちもくさんに駆け出した。今なら、二人だけの世界にでも行ける気がした。


×××


 近くの公園に辿り着くと、もう女の姿はなかった。


 希をベンチに座らせて、俺は一度大きく息を吸う。


「なあ」


「ねえ、今日は楽しかった?」


 機を制すると言わんばかりに口を開いた希は、俺の顔を見ずに、ただ声を張った。


「・・・なんで急に」


「いいから答えて!」

  

 今にも泣きだしそうな声。湿ったその声を俺は裏切れなかった。


 だから、はっきりと言う。

 楽しかったと。


「・・・楽しかったよ。ずっと、こんな日が続けばなって今でも思ってる。・・・今日一日で何かが変わるわけじゃないけど、俺は希望を見つけることが出来た気がするんだ。もっと生き生きと生きていいって。生きる権利は、自由は、誰にでもあるんだって。希は・・・そう思わせてくれた」


「そっか。・・・よかった」


 満足そうな呟き。それが誰に宛てられたものか俺は分からなかった。


「・・・なぁ、希。俺は・・・お前の事」


「ごめん! 私、もう帰るね! さよなら!!」


 希は俺の言葉を遮るように大声を上げて立ち上がり、ただ遠くへ走り去っていった。

 結局、ここに来てから一度も顔を見せることもなく。

 ただ、走り去ったその後には、涙が降っていたような気がした。



「希・・・」


 俺は力ない腕を前に伸ばした。

 ・・・今なら、『好き』を言える気がしていたのに。


×××

 

 その晩は眠れなかった。

 頭の中が希の事でいっぱいだった。

 俺は爺さんが寝ているのをいいことに夜中やちゅう、家を抜け出し町中を駆け回った。昨日、希と一緒に巡ったところを探せば希は見つかる気がしていた。


 けど、見つからない。


 諦めかけ、空を見上げた時、光が差し込んでいた。厚い雲の間をって俺を照らす。

 その時、サイレンの耳障みみざわりな音が耳を打った。

 その方向を聞き分けて、全力で走る。


 俺が辿り着いたのは一件の家の前だった。

 見れば、沢山たくさんの人が群れている。先程の、サイレンを鳴らしていた車も止まっていた。

 俺は近くにいた一人の人間の服を引っ張って尋ねる。


「あの、ここで何かあったんですか!?」


「ああ、ここの家の一人娘が、首を吊って自殺したんだよ」


「一人娘・・・?」


 嫌な予感がする。目まぐるしい吐き気が襲う。


「そう。ちょうど君くらいの中学生の子でね」


「名前は!?」


「・・・確か、希ちゃんって言ったかな」


「・・・嘘、だろ?」


 目の前の光景がぐにゃりと歪む。



 希が、死んだ。



 その事実は、俺を狂わせるには十分なものだった。


 俺はその場で、ただ呆然と立ち尽くす。

 今日もまた、雨が降っていた。


×××


 あれから、どれだけ時がたっただろう。

 俺に希望を見せるといった少女は、俺に絶望を与えたまま消えてしまった。


 それでも俺は、希と過ごしたあの日のことを忘れることは出来なかった。だから今もこうして、希の家に通う。


 騒ぎがあって一週間くらいたった頃、一人の女性がドアを開け、俺に一冊のノートを手渡した。

 希の母親だった。


「・・・あなたが、ユイ君?」


「はい」


「・・・そうですか。あなたが、最後に希を幸せにしてくれたんですね」


「そんなこと・・・。俺はただ、明るくて元気だったあいつと遊んでただけです」


「明るい・・・? あの子が、そんな様子だったんですか?」


「え?」


 希の母親は疑問そうに俺を見つめる。けれど、疑問を持っていたのは俺の方だった。

 俺が最後に出会った希は、間違いなくさっき言ったような人間だった。


「・・・あの子は、おとなしい子でしたよ。とても優しくて、他人の痛みを理解できる子でした。・・・だから、背負いすぎたのかもしれません」


「でも」


「もちろん、あなたが言ってることを嘘だとは思いません。あの子なりの最後の空元気だったのでしょう。でも、少なくとも希は」


「そうでしたか・・・」


 希の母親は今すぐにも泣き出しそうだった。辛くて、その光景から目を背けたくなる。

 

「ところで、なんで俺に、このノートを?」


「・・・希のこのノートの、最後のページにユイ君の名前があったんです。だから、これはあなたに渡さなきゃいけないと思って」


「・・・そうですか」


「だからどうか・・・幸せになってください」


 希の母親は、最後に何よりも深い言葉で俺を突き刺した。

 いたたまれなくなって俺はノートを家に逃げるように持ち帰った。


 何かに濡れてボロボロになった表面をめくり、物語を読み始める。



―痛い。助けて。



 最初の言葉はこうだった。

 

 そこから、幾度となくページをめくる。

 そこで俺はようやく、希が学校に行かなかった理由、行けなかった理由を知った。


 希は、深刻ないじめにあっていた。

 誰かの痛みを理解できる子だから、代わりに自分が標的になってしまった。そう判断するのが簡単な文章だった。


 ただ延々と苦痛、怨嗟えんさの言葉がつづられる。

 ページをめくる手を止めたくなったその時、一つの文章が俺の目に留まった。


『・・・決めました。私、明日で死ぬことにします。・・・ただ、最後くらい、笑って死にたい。だから私は』


「誰かの希望になることが出来たら、私は死にます・・・。なんだよ、それ」


 その最後の言葉を俺は復唱した。

 続きはないかと、俺は急いでページを捲った。


 希の母親は、最後に俺の名前を書いていたと言った。ならばどう書かれているか、俺は知りたくて仕方がなかった。


 最後のページには、びっしりと俺宛の文章が書いてあった。



『ユイ君へ』


 どうか、希望を捨てないで下さい。

 これは私の望んだことです。・・・たとえあの場であなたに止められても、私はこの選択をしていました。だからどうか、この事実を悔やまないでください。

 誰も悪くないです。誰も。

 

 ただ、ユイ君には謝らないといけません。

 あの時、最後の言葉を聞かずにユイ君を放って逃げ出したこと。

 きっと、好きって言われるのだろうと思ってました。もしそうなら嬉しいです。

 でも、その言葉を聞いたら、私は死ぬことが出来なくなったと思うんです。決意を揺らがせたくなくて。

 私は、きっと生きてても希望を掴むことは出来なかった。

 だから、ユイ君。あなたに託そうと思ったんです。


 もし、ユイ君が希望を見つけることが出来たのなら。

 私が生きた意味は、あなたにあります。ユイ君。


 こんな私でも、誰かの希望になれたんです。もう、満足です。


 だからどうか幸せに。

 ・・・幸せになってください。


 

 希



「・・・なんだよ、それ」


 ページの最後は、濡れた後のシミでいっぱいだった。

 そこには、誰かの涙の雨が降った後が確かに残っていた。


 どことない空虚、怒り、悲しみが入り混じった感情が目まぐるしく俺の中に息づく。

 口を開けばいくらでも言葉が出てきた。


「辛いなら、打ち明けてくれてもよかっただろ・・・!」


 でも、それは俺の我儘であって、希の真意ではない。

 結局のところ、躊躇ためらいつつも、死を選びたかったのかもしれない。


 一つ息を吸うと、俺はようやくその最後の言葉を理解できた。



 希が見せてくれたのは、確かな希望の欠片。

 あの日、希は確かに希望を見せてくれた。


「・・・希望なんて、ここにはねえよ」


 でも、人は確かに生きている。


 こんなところに希望はない。

 なら、俺が、希望をつくってみせる。


 希。お前が俺に見せてくれたように。


 俺も誰かの希望になってやる。

 希望を、結んでやる。


×××


 時が経ち、俺ももう大人になった。

 けど、スラム暮らしは変わらない。ましてや今は一人だ。


 けれど、俺の元には何人もの親も知れないスラムの子供達がいた。 

 一人が退屈そうに声を上げる。


ゆい先生ー、さっさと授業始めてくださいよー」


「悪い悪い。んじゃ、始めるか」


 適当な木の板に文字を書き始めて、授業の始まり。

 学校なんて大袈裟おおげさなものはないけど、俺は先生として生きることにした。


 俺の幸せは、もうとっくの昔に貰った。それが希望とは分からないけど。

 だからせめて俺は、ここにいる子供たちが希望を掴むきっかけになりたい。



 こんな俺でも、誰かの希望になれるなら。



・・・だろ? 希。




 空は、どこまでも晴天だった。

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希、結ばれる時 入賀ルイ @asui2008

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