上司の圧倒的なパワーによるハラスメントを受けて肉体を粉砕された俺が復讐するまでの話

春海水亭

殴れ!拳が俺の退職願!

労働という不治の病に侵され、弊社という名のホスピスで死を待っている。

死に向かう同僚の手を優しく握って送り出してやるような人間は誰もいない。

手を止めた人間に対して罵声が飛び、

点滴の代わりにエナジードリンクが流し込まれる、

12月も4日目にして、月の労働時間はこの時点で80時間を超えている。

どれだけの間、家に帰っていないのだろうか。

帰宅どころか、休憩の時間さえ怪しい。エナジードリンクだけが胃を満たしている。


キーボードを叩く、画面の文字が理解できない。

同僚が目を閉じた一瞬を見逃さず、課長が罵倒する、大声が俺の思考能力を殺す。


エナジードリンクを胃に流し込む。

甘ったるいはずの液状カフェインが水のように俺の喉を通る。

どれだけの間、風呂に入っていないのだろう。

伸び放題になった同僚の髭にちらりを目をやり、一瞬だけ考える。

臭いは気にならない、味覚も嗅覚も死んだ。

画面を見るための視覚にキーボードを打つための触覚、

課長のありがたい罵倒を聞くための聴覚は生きていた。

クソだ、厭な奴ばかりが生き残る。


竹澤たけざわァ!来ォい!」

そんなことを考えていると課長――邪鬼入やきい 零流れるが俺の名前を呼んだ。

何も無い時には怒っていて、他者を怒鳴りつけている時は笑っているよう上司だ。

自身の髪型をオールバックに整えるために部下の血を使っているという噂さえある。

俺は席を立ち、そんな素晴らしい上司の元まで移動する。

皆のデスクは整理する余裕すら無いほどに散らかっていたが、

邪鬼入課長のデスクは、ゴミが無いどころか、磨かれたような光沢すら放っている。


「竹澤ァ!パソコンの画面から0.4秒ほど目を離していたなぁ……?

 そこまで堂々とサボるとは……全く良い根性をしているな?アァ!?」

「はい、申し訳ございません」

「お前がサボることで、どれだけのお客様の笑顔が奪われると思ってんだァ?

 お前のやる気が無いだけで、どれだけ他人に迷惑がかかると思ってる?」

「はい、申し訳ございません」

「やる気が無いのか?能力が無いのか?両方かァ?竹澤ァ……?

 やる気も能力も両方とも無いような無能じゃないよなァ……?」

「はい、申し訳ございません」

「そんなにやる気無いなら会社辞めるかァ?竹澤ァ?

 我がブラックダークネスノワール社(株)を辞めてよォ……アァ?

 どこに行けるかは知らないけどなァ?

 ウチでやれねぇならどこでやっても通用しないぞォ?」


会社を辞めるなどと、考えたこともなかった。

労働に忙殺されて、思考能力が低下していた。

人生の選択肢の全てが弊社の労働で埋め尽くされていて、

それ以外を選ぶということが完全に失われていた。

今だけは課長を素晴らしい上司であると、心の底から思うことが出来る。

辞めれば良かったのだ。


「辞めます」

「あァ……!?」

邪鬼入課長――いや、もう課長を付けてやる義理はない。

虚を突かれた邪鬼入に俺は殴りかかっていた。


「次の職場は刑務所じゃボケェ!!」

職場に、課長の罵声以外の大声が響き渡ったのは初めてだろう。

自分のものとは思えぬほどに放たれた声は大きい、気合は十分だ。

腕は課長の顔面という目標に向け、真っ直ぐに伸びている。

そして拳には積年の恨みがたっぷりと握られている。

小銭を握って他人を殴るよりもよっぽど固い。


俺の拳が上司の鼻っ柱を打ち抜いたならば、更にもう一発殴る。

倒れればマウントを取り、自分が満足するまで殴る。

あるいは課長が死ぬかもしれない――けれど、自分は殴り続けるだろう。


同期入社は誰一人として辞めなかった。皆、過労で死んだ。

そして、俺だけが生き残った。

敵討ちなどと殊勝なことを言うつもりはない、ただ苛ついていただけだ。


だが、恨みの籠もった俺の拳は邪鬼入の手のひらによって受け止められていた。

「ハハハ……」

邪鬼入は笑いながら、受け止めた俺の拳を手のひらで包み込む。

みしりと音を立てたのは、他でもない俺の拳だ。

邪鬼入は尋常ならざる握力で、俺の拳を破壊せんとしている。


「笑ってんじゃねぇッ!!」

邪鬼入の左側頭部を狙って、俺が上段回し蹴りを放つ。

だが、邪鬼入が握った俺の手を手前側に引く、

それだけで俺のバランスは崩され、蹴りのなり損ないがたたらを踏んだ。


「ハハハ……嬉しいぞ竹澤ァ、久々だよ……俺に逆らおうだなんて奴はさァ……

 やっぱりなぁ……絶対権力者ってのは、反逆がつきものだからなァ!!」

「うるせェーッ!!中間管理職の分際で粋がってんじゃねぇ!!」

「おいおい……竹澤ァ……確かに俺は中間管理職……

 上司と部下の間でせせこましく働いているサラリーマンだよ……

 けどなァ……中間管理職が上司より偉くないってことにはならないんだぞォ?」

そう言うと、邪鬼入は紙くずをゴミ箱に捨てるみたいに俺の身体を放り投げる。

俺の身体は宙を舞い、受け身すら取れずに頭から床に叩きつけられた。

頭が割れるように痛いという比喩を人生で何度か使ったことがある。

だが、これに関しては比喩ではないのだろう。

ぬるりと温かいものが俺の頭を濡らしていた。

立ち上がらなければならないと思う。

だが、意思に反して身体は自分の思う通りにはならなかった。

寝そべったままの俺に、邪鬼入はゴミを放るように数個の印鑑を放り投げた。


「こ、これは……」

「竹澤ァ……お前はちゃんとこの名前の意味がわかってるなァ、偉いなァ……」


邪鬼入に褒められたのは人生で初めてだ。

だが、そんなことはどうでもいい。

印鑑に刻まれた名前、その一つにも邪鬼入と入ったものはない。

それは部長の名前であり、専務の名前であり、社長の名前だった。


「印鑑偽造だと……?」

「偽造?違うぞォ……本物だァ……」

邪鬼入は宝物を自慢する子供のように満面の笑みを浮かべた。

無邪気さすら感じるほどに、邪悪だった。


「俺なァ、竹澤ァ。

 お前らを怒鳴ったり、家に帰さなかったり、休憩させなかったり、

 ひどいこといっぱいしたなァ……あぁ、これからもするよ。

 でもな……お前らだけじゃないからな?俺はちゃんと上司にも圧をかけてる」


ゆっくりと、本当にゆっくりと、邪鬼入は俺の元まで歩いてきた。

こつり、こつりという足音が異様なまで大きく響く。

邪鬼入は部長の印鑑を拾い上げて、握りしめた。

邪鬼入がもう一度手を開いた時、そこに印鑑の原型は無く、ただ粉末だけがあった。

印鑑職人が見たとしても、元は印鑑であると気づくことは出来なかっただろう。


「部長も専務も社長も、まぁまぁ強かったよ……

 でも俺の圧倒的なパワーによるハラスメントには勝てなかったなァ……」

「パ……パワハラ曲解してんじゃねェ……」

「まぁいいじゃねぇか……竹澤ァ……

 そういうくだらない言葉の定義なんざどうでもいい時代が来るんだぜェ?」

「……は?」


うっとりと愛の言葉を語るように、邪鬼入が言った。

最悪の言葉を言った。


「弊社な、業務拡大のために兵器と麻薬に手を伸ばしてな」

「とんでもねぇゴムゴムの実喰いやがったな……」

「世界征服邪悪帝国との取引が成立したんだわ」

「……なんだその、悪ふざけで付けた悪の帝国は?」

「おいおい悪ふざけとか言うなよ……国連加盟国だぞ?」

「国連何やってんだ!?」

「んでなァ……俺、取引先でも差別しねぇんだわ」

「……まさか」

「世界征服邪悪帝国の皇帝にもパワハラしてなァ……

 この立場から世界征服事業もコントロール出来るんだわ」


中間から全てを支配する、中間管理王だな。

冗談めかして、邪鬼入がそう言って笑った。

とても、笑えるような話ではなかった。


「そんな馬鹿な話があるか!?」

「まぁ、世界征服とか、兵器とか、信じられねぇよな……

 皆その時が来るまで信じられないと思うし、別に信じてもらう必要もないよ。

 俺はさァ……勝手にやるだけだからさ」


邪鬼入のことは最悪の上司だと思っていた。

だが、最悪の底を抜けた地獄が邪鬼入の住処であるとは思っていなかった。


「な、何がしたいんだよお前は……?」


今日日、世界征服もクソもない。

人間の欲求を満たすことに世界の全てを手中に収める必要はない。

特に目の前のクズのように強大なパワーがあるのならば、

好き放題暴れればそれだけで十分欲しい物を手に入れることが出来るだろう。


「俺な、世界中の人間を全員弊社の社員にしてぇんだわ。

 60億人が365日24時間休み無く働き続ける理想の会社、おもしれぇだろ?」

「何も面白いことねぇよ!」

「まぁ、今から死ぬお前には関係ないなァ……」


邪鬼入が笑う。その両手には黒く燃える炎を宿している。

超能力か、オーラか、魔法か、異能か、なんと呼べばいいかはわからない。

だが、フィクションの産物だと思っていたそのようなものは実在していて、

眼の前のクソ野郎はその力を持っているらしい。


「俺な、今まで自分で手を下したこと無いんだわ。

 自殺するまで追い込んだり、過労死するまで働かせたり、

 そういうのはするし、パワーによるハラスメントはするけど、

 でも、殺したことは今までにない。お前が初めてだ」


立ち上がろうと両腕に力を込める。ピクリとも動かない。

意思とは無関係に自分の身体がガタガタと震えている。

同僚はそれでも懸命に働き続けている。

もうとっくに心が死んでしまったのだろう。


「竹澤ァ……お前の死はちゃんと労働災害として処理してやるからな?」

邪鬼入が俺に向けて両手を突き出す。

漫画で見たビームを放つ技のように、炎が俺に向けて放たれた。

労働災害とするにはあまりにも劇的だったが、

災害と呼ぶにはまさしく相応しいものでなんじゃないかと思った。


様々な記憶がシャボン玉のように浮かびあがっては、消えていく。

死を直前にして過去の記憶が蘇るのは、

経験から危機を切り抜けるための方法を探すのだと聞いたことがある。


だが、俺の中に動かない身体で元上司に向けられた炎を回避する方法は無かった。


「ふざけんなよクソ野郎」

出来ることと言えば、

邪鬼入を睨みつけることと、陳腐でチープな恨み言を放つことだけだった。

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