『Dimbula』④
マリ姉から手伝いを提案されてから一週間ほどが経ったある日、学校へ向かおうとすると玄関で母さんに呼び止められた。
「悠理、今日から麻理子ちゃんの家でピアノ教室やってくるんだって? 学校終わったら直接向こうに行って、終わったら麻理子ちゃんが送ってくれるって聞いたけど」
ピアノ教室はその通りだが放課後の予定は初耳だ。いつも思うのだが、こういう諸々の情報を母さんとマリ姉はどこでやり取りするのだろう。個別に連絡先を知っているようには見えないが。
そしてその日の授業が終わって職員室に出向くと、時間になるまで待っているようにと屋上のスペアキーを渡された。それは音楽室の鍵とセットにして括られており、ヘンテコなキーホルダーまで付いていて明らかに私物化の雰囲気を感じたが、聞いたところによれば、音楽室は特別教室等の最上階にあるため、その一つ上の屋上の管理も音楽教師が担うというのがこの学校の昔からの慣習らしい。オレはしばらく屋上で飲み物でも飲みながら暇を潰した。
車でマリ姉の家に着いたのは、教室の開放が始まる午後五時の少し前だった。このあと事前に希望した生徒が三十分の入れ替わり制でやってくる。オレは基本的に同じ部屋にいて生徒の自主練習を見ているだけだが、わからないことがあれば可能な範囲で教えるといった感じ。マリ姉はもう少し仕事を片付けると言って学校に戻った。
昔は来慣れた場所とはいえ、家主のいなくなった他人の家に一人残されるというのはとても不思議な感覚だった。オレは玄関で生徒と、それを送ってきた保護者を迎えて室内に招き入れる。大人しく黙々と練習するだけの子もいれば、きょうだいで一緒に来てずっと騒いでいるばかりのところもある。まあ小学生にも色々だ。
そうするうちに時計は午後七時を示し、次の三十分は誰も来ないので休憩となった。宿題なんかをやるにはもってこいの空き時間だが、こういう日にかぎって出ていないのですぐに手持ち無沙汰になってしまう。結局、他にすることもなくてオレの手は自然とピアノに伸びた。
目の前に整然と並ぶ白と黒の鍵盤。触れると滑らかで少し冷たい。キーボードよりもずっと重いその鍵を押し込むと、後ろでハンマーが立ち上がって弦を打つ。柔らかい音、硬い音、太い音、細い音。音色ごとの手応えが指先を通してしっかりと感じられる。キーボードは弾くたびに都度、シンセ、ストリングス、さらには弦楽器と音を変化させられるのが面白いが、ピアノは弦の叩き方によって多彩な音色を表現できる。二つの楽器は似て非なるものだ。そして、こうして触れてみると、やっぱりオレの身体に染みついているのはピアノの弾き方だということがわかる。
オレはそこらの棚から適当にエチュード教本をいくつか取り出した。ハノン、ツェルニー、トンプソン、ショパン……なんとなく気分的にツェルニーがいい。飽きたらショパンの『革命』とか『木枯らし』あたりに移ろうか。そんなことを考えながら鍵盤に指を走らせた。長らく触れていなかった分、イメージ通りとはいかないが、自分で危惧していたほどには悪くない。ちょっと楽しくなったオレはしばらくそうして弾き続け、やがて曲と曲の間に少し手を休めたとき、後ろから声が聞こえた。
「やっぱり好きですね」
振り向くと、そこにいたのはマリ姉だった。いつの間に帰ってきたのだろうか。車の音にも気づかなかった。
マリ姉は近くの椅子を持ってきてオレの隣に腰掛ける。
「私、やっぱり好きです。ユウくんのピアノ」
「ああ……うん、ピアノね」
オレはやや肩を落としながら返事をする。まあ別に、これは驚くような言葉ではない。昔何度も聞いた言葉だ。
一番記憶に残っているのは、オレが小学四年生の頃。
――私、ユウくんのピアノがとても好きです
そう言われて、身体の中に熱を感じた。マリ姉の声に乗ったその「好き」という音に、オレの指先が、お腹の中が、全身が熱くなって、唐突に恋を自覚した。当時、マリ姉は高一だった。それが分不相応な恋だとは気付いていなかった。
オレはバカみたいに単純だったから、わかりやすくピアノに精を出し始めたのはいうまでもない。もとは母親同士が友人だから習わされていただけだったピアノが、みるみるオレの毎日の中心になった。
小四のオレにとって、マリ姉の言葉は何よりも特別だったから。
でもそれから二年後、マリ姉は遠くへ行ってしまった。遠くへ行ってしまったことで、初めから遠い存在だったのだと気づいてしまった。六つも年下のオレでは、マリ姉には到底、釣り合わない。
オレは中学に上がって徐々にピアノから離れた。今年、マリ姉が突然帰ってきて、けれどオレが顔を合わせ辛いと思っていた本当の理由は、もしかしたらこれかもしれない。そんなことに今更気づく。
オレは鍵盤に触れていた手を引っ込めて言った。
「だいぶ下手になっちゃったよ、特に強弱とかさ。最近はバンドで助っ人するキーボードの練習しかしてなかったから」
「確かにそうかもしれませんが、でも指はよく動いていると思います。それに、昔から抜群だった表現力も衰えていませんね。スムーズな流れの中に適度な緩急があって、うっとりするほど心地がいいです」
「そう、かな」
「ええ。私は、ユウくんほどの素質はありませんが、耳だけはいいですからね。信じていいですよ」
耳がいい、と自負するマリ姉の父親はピアニストだ。幼い頃からそういう人たちの演奏に触れているからか、確かにマリ姉の耳はよく肥えている。優しくても世辞は言わず、オレに対する評価はいつも厳しくて正しい。そんなマリ姉が、昔からオレのピアノだけは必ず褒めてくれた。
ほとんど無意識にオレは尋ねる。
「もし素質があったら……マリ姉は、ピアニストになりたかった?」
「どうでしょう。目指した時期もあったかもしれませんが……それでも私は、望んで今の教師の道を選びましたよ」
正面に固定された視界。その端から差し込まれた白い手が、連なる鍵を一つ一つ、音を出さずに緩く撫でる。
マリ姉の声は微笑んでいる。
「その記念すべき一年目の生徒に、ユウくんもなってくれると思っていたんですけどねぇ」
「け、結構根に持つね……それ」
「だって、ユウくんは私がいるから、音楽の授業をとらなかったんでしょう? そんなあからさまな避け方されたら、誰だって傷つきますよ。深夜にライブハウスで無断バイトの不良生徒が相手でもね」
「その件はほんとにごめんなさい!」
オレは慌ててマリ姉に向かって手を合わせる。
「だいたい、ユウくんは絵なんかすっごいへたっぴじゃないですか。なのに美術って」
「いや、まあ……」ぶっちゃけ科目を選ぶときは音楽じゃなければ美術でも書道でもどっちでもよかったんだけど。「でもほら、ここからオレの美術の才能が開花するかもしれないじゃん?」
「ユウくんが小学校の頃に描いてくれた私の似顔絵は、ムンクみたいでしたけどね!」
ムンクって、もしかしてムンクの叫び?
「それは……褒めてんの? 貶してんの?」
「どうでしょうねー」
オレの質問にマリ姉はそうとぼけながら、顔の両側に手を当てて左右にゆらゆらした。学校では決して見せないであろうマリ姉のそんなアホみたいな――いや、無邪気な表情を見てオレはぷっと笑ってしまう。
「まあ、授業でピアノを弾かせるわけじゃありませんけど。それでもきっとユウくんは、美術よりキーボードより、ピアノがあっていると思いますよ」
やがてマリ姉は手首を返して時計を見た。
「残りはあと一組ですか。晩ご飯、用意しますので、食べていってくださいね」
立ち上がると同時にやってきた次の生徒を部屋に招き入れ、入れ替わりで姿を消す。
本日最後の生徒は、小学五年生の女の子に二年生の男の子。二人は姉弟らしかった。直前までマリ姉と話をしていたからだろうか。その子らが仲良く椅子を並べてピアノの前に座る姿を見てオレは、自分がまだこの教室に通っていた頃のことを思い出した。
オレもよく、こうしてマリ姉と一緒にピアノを弾いていた。いつも視線を、指先よりも楽譜よりも、隣にいたマリ姉に向けながら。
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