『Dimbula』③

 式を終え、今日は授業もないので午前で下校となる。

 サッカー部のミーティングがあるという志賀とは教室で別れた。

「そういや姉貴が、お前によろしくって言ってたぜ。あと学校始まってもできるだけ頼むってさ!」

 別れ際のその言葉には咄嗟に、しかしやや歯切れ悪く「ああ……うん、いつでも大丈夫」とだけ返した。

 オレは一刻も早く帰ろうと、昇降口で靴に履き替える。近くで輪になって話している数人の女子生徒が目に入ったが、何事もなく避けて通り過ぎようとした。

 けれども突然、その中心から声がかかる。

「矢田くん、ちょっといいですか」

 聞き覚えのある声にぎょっとした。生徒に紛れて気づかなかったが、そこにいたのは麻理子先生だった。

 先生は周囲の生徒に断りを入れると、その輪から離れてオレの方へと歩いてくる。そして当たり前のようにオレの手を取って校舎の中へと引き返した。履き替えた靴はまた上履きに逆戻りだ。

 黙ったまま校舎の奥へと進んでいくその雰囲気に、オレは口を挟めない。途中、先生は自販機で飲み物を二つ買い、やがて辿り着いたのは特別教室棟の屋上だった。

 扉を開けた先生に促され、先に屋上へと歩み出る。

 直後、背後でガシャっと施錠の音がした。

「え」

「逃げられると困りますから」

 思わず振り向いたオレに、先生は持っていた缶ジュースを差し出す。なんだこれ……まるで取調室のカツ丼のようだ。見れば、先生の手にはアイスティー。片やオレの手には、おしるこ。いやぜってーテキトーに買っただろこれ。

 そして麻理子先生は、文句を言おうとしたオレの目を見て、真顔で言った。

「さて、ユウくん。心当たりのある顔ですね」

 ――ユウくん。

 それはオレの矢田悠理やだゆうりという名前からとったもの。幼い頃にこの人が付けた、昔からのオレの呼び名だ。

 “矢田くん”ではなくその呼び方になったということは、つまりこの瞬間から、オレたちの関係はさっきまでの“生徒と先生”から、別の関係に変わったということ。

 いや、変わったというより、戻ったのだ。オレと麻理子先生――マリ姉は、幼い頃からほとんど姉弟のように育った。


 マリ姉はオレの母さんの友人の娘だ。大学を卒業し、今年になって教師として就職し地元に戻ってきたのだが、それについては四月に学校に現れていきなり知った。

 赴任前にあまり人に言ってはならないというのはもちろんわかるが、少なくともオレの母さんは知っていただろう。どうして教えてくれなかったのかと訊いたら

「だってあんた、麻理子ちゃんの話するとあんまりいい顔しないからよ」

 とあっさり返された。

「別に……そんなことないけど」と答えたら「あら、そうなの? じゃあ今度、久しぶりにまたお食事にでも誘ってみるわね!」と露骨に喜ばれ、あれよあれよという間に食事に連れ出されたのがゴールデンウィークだったか。母親二人とマリ姉とオレ、小洒落たお店でランチビュッフェ。女三人は非常に楽しそうだったが、正直オレはかなり居辛くて、大半の時間をビュッフェの列で潰していた。

 そう、女だ。高校生のときとは違って、遠くの大学を卒業して戻ってきたマリ姉は、喋り方も仕草も見た目も、もう女子っていうより女だった。

 “昔仲がよかった幼馴染みのお姉ちゃん”のまま、毎日のように着ていた学生服をスーツに変えたマリ姉が言う。

「久しぶりに帰ってきて、せっかくユウくんの学校の先生になったのに、なんだか避けられてるなぁとは思っていました。選択科目も音楽じゃなくて美術にしたみたいですし、廊下で見かけてもすぐ引き返すし、家で会ってもあんまり私の顔見ないし。でも、今ならそれも納得できます。まさかあんな場所で、バイトでステージに立っているなんて」

 ずいっと顔を寄せてくるマリ姉。オレは思わず距離を取る。

 やっぱりあのライブハウスにいたのはマリ姉だったのだ。藪蛇だけはすまいと思っていたが、こうも真っ向から指摘されては、とぼけようにもとぼけられない。

 そして今日、オレがマリ姉を避けていたのは、確かにこれが理由だった。

 しかし、オレだって何もここ半年、ずっとそれを気にしていたわけじゃない。むしろ最初は絶対にバレないとすら思っていた。真面目、実直、品行方正のマリ姉には夜のライブハウスとの縁なんてまずないだろうと。

 だから、オレが四月からマリ姉を避け続けていたのには、ちゃんと他に理由がある。オレがマリ姉に素直に向き合えない最大の理由、それは……。

 オレがマリ姉のことを好きだからだ。ずっとずっと昔から……そして、今でも。

 いざ顔を合わせたら、冷静でいられないのなんてわかっていた。緊張して、思考は散り散りになるとわかっていた。

 最近ようやくマリ姉と同じ学校に通うことに慣れ始めていたくらいで、こうして目の前にすればもう、流れる髪の宇宙のような深い黒に、冷えたアイスティーの缶を持つ手の白さに、柔らかな声を紡ぐ唇の艶に、意識の全部を吸い込まれそうになっている。

 四年前、高校を出て遠くへいってしまったマリ姉。それが突然また目の前に現れて、しかも、かつて誰よりも可愛かった女の子が今度はもっと綺麗な女の人になっていて、昔と同じように接することなんてできやしないのだ。

 オレがさらにもう一歩あとずさると、マリ姉はそれを見て倍の二歩分、前に出る。

「ユウくんももう年頃でしょうし、あまりうるさくあれこれ言うつもりはありませんでしたが、でもあのバイトは、お姉ちゃんとして看過できません!」

「なっ、何がお姉ちゃんだよ! 単なる幼馴染みだろ。四年間ほとんど顔なんか見せなかったくせに、今更帰ってきて年上ぶるなよ」

「年上は年上です!」

 いくら年上だからって好きな相手に年頃だからどうのなんて言われんのはマジで効く。

 しかしマリ姉はそんなオレの胸中など想像すらできないだろう。

「だいたい、私の意見を抜きにしても、許可のないバイトは校則違反です。あんないかにもな場所でキーボードの演奏なんて、そんなことのためにうちでピアノを教えたわけではありませんよ」

「んなこと言ったらマリ姉だって、先生なのにそんな“いかにも”なとこ来ていいのかよ」

「ユウくんがライブに出ているという話を聞いて、確かめにいったんです」

「そのわりには何回も来てたじゃないか」

「ちょっとした気の迷いなら見逃そうかと思っていましたが、常習性もあって、そのうえお金までもらっているということだったので、しっかりと裏を取りました。一度目で私に気づいてやめなかったユウくんにはがっかりです」

「がっ……」

 心臓に見えない針がぐさりと刺さった。その衝撃にたじろぎ、語気が勢いを失いながらも、オレはなんとか食い下がる。

「いや、でもさ、ほら……今時のライブハウスってわりと健全で、マリ姉が思ってるようなところじゃなくて……」

「何度か見ましたが、少なくともアルコールの提供はある施設でしたね。それに、未成年をあんな時間まで帰宅させない場所に健全という言葉は使いませんよ」

「ぐっ……」

 相変わらず口が強い……正論があまりに強い。

 しばらく見つめられて黙った挙句にオレが「ていうかそもそもなんでバレたんだ……」と呟くと、マリ姉は大きな溜息を一つついてから、まるで諭すように言った。「私には私の世代のネットワークがあるんですよ」と。

 聞けばどうやら、マリ姉の高校時代の後輩が今は近くの大学の三年生で、夏休みが始まったばかりの頃にグループであのライブハウスに来たらしい。そのグループの中にはライブにたびたび顔を出すバンドのメンバーの友人がいて、そしてそのメンバーはライブハウスの店員と親戚関係にあるようで……みたいな感じに、知人から知人に情報が伝わって、最終的にマリ姉の耳にオレの話が入ったのだとか。

 あのライブハウスでオレの素性をまともに知っていたのはしーさんと、しーさんの昔馴染みの店員、その二人だけだ。ステージの上ではあれだけフードで顔を隠していたのに、まさかそんなルートでバレるなんて……いやマジか、マリ姉の情報網ってめちゃくちゃ怖っ……。昼間の太陽に晒された炎天下の屋上で、しかしオレの身体はいやに冷えた。

 それからはマリ姉にたっぷりと説教を食らわされた。初めのほうはわりと先生から生徒への指導という感じだったが、後半はもはやプライベートにまでがっつり介入されて姉目線でガミガミ言われた。こちらはちょこちょこ口を開くものの、出来損ないの言い訳がほとんどで反論らしい反論にはほど遠い。もともとオレはマリ姉よりも頭ひとつ分くらい背が高いのに、気づけばオレの頭はマリ姉に見下ろされるくらいにまで深々と沈んでいて、ひたすら地面を見つめるばかりだった。

 姿勢よく手を腰に当てたマリ姉が、呆れたような声音で言う。

「お小遣いはちゃんと渡してるって、ユウくんのお母さんには聞きましたけど?」

「いやあれっぽっちで足りるわけねーじゃん」

 っていうかなんでそんなことまで知ってるんだ。

「そうは言っても共働きのユウくんの家庭状況では、学校からのバイトの許可は出ないでしょうし……」

 許可はいらないからマリ姉がここで見逃してくれればそれで、という言葉が一瞬頭をよぎったが、さすがに口にはしないでおく。ようやく収まった火にまた油を注ぐようなものだ。だからオレはただ黙っている。

 すると、何やら頭を悩ませていたらしきマリ姉がそこで突然「わかりました」と声を張った。

「ユウくん、うちに来ましょう! バイトではなくお手伝いで」

「は?」

 顔を上げたオレにマリ姉がそう言って提案したのは、つまるところマリ姉の母親がやっているピアノ教室を手伝うというものだった。自宅を使って月、水、木、土の夕方から夜に開かれているピアノ教室。それはかつてオレが通っていた場所でもある。

 けれども最近、先生をしているマリ姉の母親に、音大受験を目指す生徒数名の特別レッスンをしてほしいという依頼が恩師から入ったそうだ。そのため水曜と木曜の夜だけ自宅を空けることになってしまった。そこで、空いた時間に場所とピアノを無償で開放し、家に練習環境がない小学校の児童を中心にサブレッスンのようなものをやったらどうかという話になったらしい。

 手伝いというのはその監督役で、最初はマリ姉が請け負う予定だったが、本業との兼ね合いもあるのでオレに任せたいとのこと。多少の謝礼も出るらしいからバイトとほとんど変わらないが、名目上はやはり手伝いだ。

 オレは少し迷ったものの、すぐに悪くない話だと考え直した。

 もしマリ姉の言うようなネットワークがオレの知らないそこかしこにあるのだとしたら、コソコソ隠れて他のバイトをしたところでどうせ息は短いだろう。だったらマリ姉公認のバイト先を得ただけでも、この場としては御の字だ。

 ひとまず心配なのは、マリ姉がこの話を互いの親にどう通すかだけど、賢いオレはそのへんを見越して、過剰に喜ぶ振りをしておいた。だからライブハウスでのバイトの件は、マリ姉の広くて豊満な胸の内に、どうか留めておいてくれると信じよう。

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