ア・カップ・オブ・ダージリン

『Uva』②

　六月も後半となると梅雨真っ只中だ。帰りがけに突然雨に降られ、傘を持っていなかった私は自分のアパートまで走ることになった。

　扉を開けた先は1Kベランダ付き。四角い間取りの真ん中に置かれた低反発のマットレスに、女が一人、我が物顔で眠っている。そばには絵の具に塗れたツナギが脱ぎっぱなしで、彼女自身も同様、腕や顔に絵の具を付けたままだった。でろでろのキャミソールにしわしわのショートパンツ。面倒がっていっこうに切らない髪をマット全体に散らしている姿を見るにつけ、これでも一応は女というのだから驚くばかり。

　その横で私は外行きのワンピースを脱ぎ、化粧を落とし、ウィッグをとって、俺に戻る。女の『私』から男の『俺』に戻る。

　タオルで全身を拭きながら、バッグからスマホを取り出して充電器に繋ぐ。キッチンに移動して冷蔵庫から作り置きの食事を取り出し、立ったままで口に運ぶ。

　すると後ろでゴソ、と寝返りを打つ音がした。物音で彼女が目覚めたらしい。

「ん……野並くん。帰ったんだ」

「うん、ただいま」

　俺は短く答えて食べ終えた食器をシンクに置き、自分の服と一緒に彼女のツナギも脱衣所に持っていって、それぞれ別々の洗濯機に放り込んだ。

「ベッド使えばよかったのに」

　俺が言うと、彼女は抑揚の乏しい声で「ああ」と答えてあくびをする。「知らないうちに寝ちゃってたのよ。四時くらいまで描いてたのは覚えてるんだけど」

　どうやら明け方近くまで彼女はキャンバスに向かっていたようだ。まあそれも、別に珍しいことではないのだけれど。

　彼女は上体を起こし、腰まであろうかというほど長く色素の薄い髪を、手櫛で解いて払いながら言った。

「にしても野並くん、相変わらずよくやるわよね。夜通しバーでバイトとかさ。しかもそこって、ガールズバーなんでしょう？」

「まあ。でもその分、身入りいいから」

「けど男の子がガールズバーに立ってちゃおかしいじゃない。もしバレたら大変そう」

「店長は知ってるよ。それ込みで承諾もらってるし、そもそもバレたりしないからさ」

　俺は一応、自分が客観的にどう見えているのか、理解しているつもりでいる。身長は高すぎず、線の細い中性的な容姿で、声も低い方ではない。これまで女の格好で白昼堂々と街を歩いても、大学の通年授業に通い続けても見抜かれたことなどないのだから、バーの暗い照明下ならよほど危険はないと思っている。

　俺が下着とバスタオルを持ってバスルームに向かうと、彼女はその丸い瞳をこちらへ向けたまま、再びマットレスにごろんとなった。

「ふーん。なーんでみんな、気付かないのかしらねぇ」

　普通気づかない。実際、今まで一度だってバレたことはないのだ。

　普通じゃない、彼女以外には。