『Darjeeling First Flash』②

 あたしは幼い頃からテニスを習っていた。幼稚園に入ってすぐ、たまたま通りかかったスクールを見て興味を示したのだと親は言っていた。最初は確かにそんな感じの興味本位で、幼稚園児のお遊戯気分だったのだろう。でもすぐに、みるみる気持ちは本気になっていった。思い出せる限り一番古い記憶の中でも、あたしはもう、テニスラケットを握っているのだ。

 それから小学校でも中学校でも、もちろん高校に入ってからも、ただその競技のためだけに生きた。周りの友達が、クラスの男の子が好き、部活の先輩が好きと言っているときも、あたしはテニスが好きだよ、と平然と言うことができた。

「まあー、菜乃花はさ、あれだよね。テニスが恋人って感じだよね」

 あるとき友達に言われた、からかい半分、呆れ半分のその言葉に、しかしあたしは心底納得したものだった。「うっさいなあ、もう」なんて、笑って形だけの反論をしつつも、まさしくその通りだと思っていたから。

 そして、だから、その表現に倣うのであれば、あたしはその恋に――テニスにふられてしまったのだろう。

 高校二年の一月、部活の練習試合で肩を故障した。サーブを打とうと右肩を振り上げたら激痛が走ったのだ。その瞬間に感じた痛みは、今も、よく覚えている。まるで雷が落ちたみたいな痺れる痛み。

 医者には、すぐに練習をやめるよう忠告された。少なくとも向こう一年、場合によってはそれ以上、安静にして様子を見るべきだと。今にして思えば、それはとても適切な忠告だった。

 そんな中、所属する女子テニス部の仲間と顧問の先生は、十分な優しさと配慮をくれた。部員たちは、部長だったあたしの故障を、ひいては高校生活最後のインターハイ予選への欠場を一緒に嘆いてくれた。先生はあたしを気遣って、今後も部活には部長として籍を残すが、顔は出しても出さなくてもいいと言ってくれた。

 けれど最初の一ヶ月、あたしは自分の身に起こったことを、ちゃんと受け止めきれていなかったのだと思う。それまでと同じように当たり前に部活に参加し、練習する皆の傍で声を出した。そうしているとまるで肩の怪我などなかったことのような気になって、自然とあたしの手はラケットへと伸びる。

 そんなとき、必ず先生はあたしの手に手を重ねて、やんわりと制した。

 ――どうして!

 強く声を上げそうになる寸前、力んだ肩に痛みが走って、自分の身体の状態を思い出す。そんなことが二、三度あって、あたしは結局、自分から部に顔を出すのをやめた。

 せめて涙を、皆の前では見せないようにしたかった。怪我から遅れて今更のように溢れ出てきた涙を、あたしは自分の部屋の中でだけ流してもいいというルールにした。

 そうして毎日のように零した涙は、あたしの中の苦痛をそれなりに洗い、いくらかの冷静さを取り戻させてくれた。

 三月の春休みから少しずつリハビリをするようになって、四月には学年が上がって三年生になり……新入部員を迎えたテニス部は次第にあたしの居場所ではなくなっていくのだと、胸の中で言い聞かせる。同輩や一つ下の後輩は変わらず親しくしてくれたけれど、もう無闇に足を運ばず、通りかかった際にも軽い挨拶をするだけに留める。あたしはともかく、これから最後の試合で戦う彼女たちのためには、そうしたほうがいいような気がしたのだ。

 こうして、あたしの生活からテニスが消えた。あたしの生きてきた意味が、なにものにも代え難いあたしの幸福が消えてしまった。

 でも、だからといって、それであたしが消えるわけじゃない。あたしはそれでもこの世界で生きなきゃいけない。わかっている。

 そしてそれから、あたしがどうなったか。

 まずわかりやすく、髪が伸びた。もともとは運動に邪魔だからと極力短い、男の子ような髪型だったのが、この三ヶ月で肩上のショートボブくらいまでになった。あたしの柔らかい栗毛は伸びると手入れがちょっと大変だったけれど、初めての経験ゆえかそれさえも新鮮だった。

 体重が七百グラム増えた……ので、昼食の弁当をいくらか減らした。最近はもう慣れたけど、最初のうちはよくお腹を鳴らしてしまった。

 汗をかく機会が減って、クラスメイトに簡単なメイクを勧められた。それをきっかけにして新しい友達が何人か増えた。

 まあ、その他にも、大小良し悪し変化は様々あったけど……。

 何より一番にあたしを当惑させたのは、唐突に有り余った大量の時間だった。

 怪我をする前は日が沈むまで部活で練習をして、そこから場所を移してトレーニングセンターやスクールでまた練習をし、夜遅くなってから帰宅していた。そんな生活と比べて、今のあたしは授業が終われば基本的に即フリー。それでも染み付いた感覚のせいか、明るいうちから家に帰る気にはならず、しばらくは途方に暮れていた。

 クラスメイトがいなくなったあと、一人教室の席に残って夕日が沈むまで眺めていたり、学校中を隅から隅まで探検してみたり……そうしていると暇そうに見えるのか、出くわした先生たちから雑用仕事を頼まれたりもした。

 その結果得た収穫は、あたしの成績が良くないためか渋い顔しか見ることのなかった先生の新しい一面を知ったこととか、職員室にだけ置いてあるコーヒーサーバーの秘密の一杯とか、まあそんなとこだ。割に合うかは正直微妙。

 あ、でも、今年の四月から赴任してきた新任の音楽の先生――麻理子まりこ先生と真っ先に仲良くなれたのは、素直に嬉しかった。これまで年配の先生ばかりだったこの学校で、若い綺麗な女性の先生はわかりやすく人気者となったが、たぶんあたしほど仲良くなった生徒はいないだろう。話の合うお姉ちゃんみたいな歳の近い先生って憧れだったし、それを思えば、重く大きな楽器を運ぶ音楽準備室の片付けという雑用も苦ではなかった。

 ただ、それでも。

 それでもまだ、時間はあった。

 あたしは、昔から頭で想像するばかりだった女子高生の寄り道というものを、思いつく限り全部試した。あるときは友達と、あるときは一人でも、平日の買い物やカラオケ、ファミレス、図書館、カフェ、映画館にファストフード、あとは近くの動物園とか水族館とか。そうした遊びをある程度こなしたところでふと、受験生だしやっぱ塾とか通うのもありかな、なんて殊勝な考えも浮かんだけど、結局それはまだ親に言ってない。

 定番の寄り道に早々と飽きてしまったあたしが次に思いついたのは、通学に使っている電車の路線図を見て、適当な方面に行ってみるということだった。これを何度かやった結果、あたしは今日、なだらかな丘の麓にある駅で降りた。

 その駅一帯は、これまで電車から眺めてきた印象を少しも裏切らない、静かで整っていて、ちょっとした憧れさえ抱くような美しい住宅地だった。小さな旅気分を噛みしめるように右に左に歩みを進め、そうしてあたしはふらふらと、丘の中腹にある小さなこのカフェに辿り着いたのである。

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