第5話 おやすみなさい
海面に顔を出すと、荒波を越えて白クマが泳いできた。アイリスを渡すと、船の進路とは反対の方角に泳いでいった。
これであたしとアイリスの戦績は、189勝188敗7引き分けになった。ダブルスコアつければ諦めてくれるかなって思う。
船からボートが下りてきて助けに来てくれた。ボートに乗ったらまた頭痛がして、顔をしかめる。さっきよりひどくなった。船に戻ると、船の損傷報告もそこそこに部屋に戻った。
船には医者も乗っている。航海は危険が多いから。でも変な病気だったらと思うと怖くて訊けない。
「うわっ……、どうしたんですか」
部屋に男の子がいる。あ、そうか。密航者か。めんどくさいな。
「タオル、タオルとかないですか」
何を慌ててるんだろう。あ、そうか。あたし、海水を洗い流してずぶぬれのままだ。寒い。なんか今日ついてない。この子が来てからよくないことばかり。でもなんだかこの子から目を離せない。
「フィガロ、落ち着いて。タオルならそこの棚にあるから」
背伸びして備え付けの棚の引き出し開けている。そこじゃないよ。三番目の……、って言おうとしたら、下着が入ってる所を開けていた。わざとじゃないだろうに、フィガロは顔を真っ赤にして引き出しを閉める。
「……、ごめんなさい」
「うん、こっちこそなんかごめん」
調子狂うなほんと。今まで自分で大抵のことやってたから。この子、他の船員に任せたらいいと思うんだけど、まだ密航の理由を聞いてない。
水の溜まったブーツを脱ぐと、少しすっきりした。靴下も脱いで、スカートは……、フィガロが見ていないうちに脱いだ。衣擦れの音がするたび、フィガロの肩が揺れる。いたずら心を押さえられなくなった。
「いっちょ前に意識してんの。ほら、どう? これが子供の体に見える? どうなのよ」
「い、いちいち見せなくていいです。早く服着てください!」
からかうと必死に目を閉じている。やっぱりまだ子供だな。
タオルで体を拭き、下着も全部取り替えて、ベットに横になる。
「少し寝るから。襲うなよー」
「そんなことしませんよ。おやすみなさい」
おやすみなさいは、さよならに似ている。目を覚ました時、フィガロがいなくなってたらどうしようって不安になった。
前にもこんなことがあったような気がする。あたしは熱を出して、ベットに横たわっている。
しなくちゃならないことがあって起きようとするんだけど、体が思うように動かない。まるで頭と体が切り離されてしまったみたいだ。
『……、さんは寝てて。家のことは僕がするから』
誰? 顔ははっきり思い出せないけど懐かしくて温かい。
『働き過ぎだよ。僕ももう少し大きくなったらアルバイトするからね』
この手の感触をあたしは知っている。けど思い出せないまま冷たくなって離れていく。あたしの手が冷たい。寒くて、どうしてこんなに胸が痛いんだろう。
目を開けると、フィガロがベット側に座ってあたしの手を握っていた。あたしの手より小さい。赤ちゃんみたいに柔らかい手だ。ほっとした。手を握ったまま質問する。
「フィガロは今いくつ?」
「十になります」
なります、か。その口調は親御さんに言わされているんだろうと思うと少し寂しい。
「あたしは十七。船では二十歳ってことにしてるの。なめられないようにね」
「本当に海賊なんですか」
「うん。でも政府から許しを得てやってるから」
フィガロにはまだ難しいらしかった。海賊は血も涙もない悪い奴なんだという刷り込みがあるのだろう。
「泣いてました」
「うん?」
フィガロがあたしの頬を指さす。その部分は確かに湿っていた。
「悲しい夢を見ていたんだよ。でもフィガロがいてくれたから気分が楽になった」
そう、あれは夢だった。
弱々しく微笑むフィガロがその証明だ。打ち解けてきた所でさっきの話の続きをする。
「そろそろ密航の理由、教えてくれてもいいんじゃない? 見ての通りあたしは悪い海賊じゃないから、正直に話してくれたら解放する」
本当はそんなことしちゃいけないんだけど、相手は子供だ。中立国の港で下ろして帰りの船賃だけ渡せば、なかったことにできる。
フィガロはなおも口を開こうか迷っていた。もしかして見かけによらず、おたずね者だったりするのかな。
「実は、貴女にお願いがあります」
改まった口調で、フィガロが切り出した。
「盗んだ積み荷を廃棄して欲しいんです。その分の代金はお支払いします」
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