花ちゃん

世一杏奈

花ちゃん

 私のお母さんはとても忙しい人です。


 私は小学校に通っているのだけど、私が行く時間より早くに家を出るから、私はパジャマ姿で「おはよう」と「いってらっしゃい」を言って、お母さんは「おはよう」と「いってきます」を言います。

 いつも目を合わせてくれないので、私はちょっぴり寂しいです。


 それから私は、買ってくれている食パンを焼いて、牛乳をレンジでチンしてココアをつくって、1人で食べます。

 兄弟もいないし、お父さんも小さい頃にどっか行っちゃっていないです。


 私は朝に1人で食べるのに慣れているし当たり前と思うけど、友達のみかちゃんが「今日の朝ごはんお母さんに好きなものを作ってもらったの」って楽しそうに話すのがあんまり好きじゃないです。






 今日も学校に行きます。だけど今日の体は少し変です。体がなんだか寒くて、目の前が揺れていました。起きようと思うけど力が入りません。

 早く起きないとお母さんに怒られちゃうからどうしようと思って、泣きそうになりました。


 すると、お母さんが私の部屋に様子を見にきてくれました。

 とても嬉しかったです。



「花、お母さんそろそろ行くけど。ちゃんと起きなさいよ」

「うん。ごめんなさい」



 やっぱり怒られました。少し悲しくなって目をそらしました。

 お母さんはそのまま仕事に行っちゃうと思ったけど、私の近くまで来て、おでこを触ってきました。突然だったから体はちょっぴりビクッとしました。



「ちょっとあついかなぁ。熱ありそう? 体温計持ってくるから少し待っていて」



 そう言うとお母さんはリビングに行って、それから体温計を持ってくると、私に渡してきました。

 私はそれを受け取って、小さい頃に教えてもらった通りのことをしました。脇に白いそれを挟んで、ぎゅっと力を込めて、時間が経って、ぴろぴろ音が鳴ったので、お母さんに白いそれを渡しました。


 お母さんは体温計を見ると、頭をぽんぽん叩いて困った顔をしました。



「37.8℃かあ」



 お母さんはそう言うと、また「ちょっと待ってて」と言って、どこかに行ってしまいました。リビングでお母さんが誰かと話す声が聞こえたけど、何を話しているかは分かりませんでした。


 お母さんはずっと困った顔をしていて、私が熱なんか出したからだと思いました。これ以上困らせないように早く治さなきゃって思いました。


 しばらくして、お母さんが戻ってきました。

 私は謝ろうと思ったけど、上手く声が出ませんでした。


 お母さんの手にはアイスノンと冷えピタがありました。

 アイスノンは私の頭の下に置かれました。冷えピタは私のおでこに貼られて、ちょっとだけひんやりしました。


 そして、お母さんは言いました。



「お粥とかフルーツなら食べられそうかな」



 私は軽く頷きました。なんだか、それしかできませんでした。

 お母さんは私の頭をなでると、



「お粥つくるね」



と優しく言ってくれました。私は少し驚いて、



「今からつくるの?」



と聞きました。それを聞いてお母さんは、



「そうだよ」



とだけ言いました。


 そのままキッチンに向かうお母さんの姿を見て心は弾みました。いつも仕事ばかりのお母さんが、今日は私のために側にいてくれるのだと思って嬉しくなりました。


 しばらくしてお母さんが部屋に戻ってくると、手にあったのはおかゆじゃなくて、缶詰から出しただけのフルーツでした。



「おかゆは?」

「冷蔵庫にあるよ。お昼になったら温めて食べなさい。お母さん今からお仕事だから」

「家にいないの?」

「早めに帰るから。いい子にしていて。フルーツここに置くから」



 そう言って、お母さんは仕事に行ってしまいました。

 目の前にあるのは、私がいつも使うフォークと缶詰から出しただけのフルーツでした。それが、なんだかぼやけて見えました。


 私は仕方がないと思うのが得意です。

 これが当たり前だったと思い出しました。


 布団の上で、1人で食べたフルーツは味がしませんでした。






 私は何もせずに、ただ天井を見ていました。

 本を読もうにも字がぐらついて読めないし、ゲームをしようにも画面がチカチカして頭が痛くなります。テレビはリビングにあるけど、そこまで行く気にもなれませんでした。

 私はいい子で寝ていないといけないのです。


 なんだかいつもと変わらない部屋がとても大きく感じて、目が熱くなりました。泣きそうになりました。






 その時でした。突然、ひんやりとした "何か" が襲ってきたのです。私は身震いしました。流れそうだった涙を、そのひんやりとした何かが触れたのです。


 私は怖い気持ちで一杯になったけど、その正体を見て安心しました。

 そこにはだいすきなおばあちゃんがいたのです。



「花ちゃん。体の調子はどう?」

「おばあちゃん来てたの?」

「うん。ずっと、花ちゃんを見てたよ」



 いつの間にかいたおばあちゃんに驚いたけど、おばあちゃんは私を見て笑っていました。その笑顔がとても優しくて、なんだか安心しました。

 それからおばあちゃんは自分の手を私の頰にやりました。それはお母さんの手より、アイスノンより、冷えピタよりも、ひんやりして、気持ちよかったです。



「おばあちゃんの手、冷たいね」

「気持ちいい?」

「うん。とっても気持いい。おばあちゃんの手だいすき」



 私はおばあちゃんの手がとてもひんやりして、気持ちがよくて、幸せに思いました。

 少し冷たすぎる気もしたけど、今の私には丁度よかったです。


 何故かは分からないけれど、おばあちゃんと遊んだ記憶はあんまりなくて、だけどおばあちゃんがだいすきという記憶はすごくありました。

 少しガサガサでしわしわの手だけど、だいすきな手です。



「花ちゃんは、最近学校どう?」



 おばあちゃんは笑顔のまんま、そう私に聞きました。



「楽しいよ」

「花ちゃんのランドセル重いものね。たくさん、勉強しているのね」

「おばあちゃん持ったの?」

「うん。とてもビックリしちゃった」

「勉強もしているよ。友達もいるよ。だけどみかちゃんのお母さんの話は好きじゃないんだ。よく分からないけどね、心がね、なんだかキュッってなるの」



 私は誰にも話せなかったみかちゃんの話を、おばあちゃんになら話せるかなって思って言いました。誰も悪くないのに、なんだかキュッってなる不思議な話です。


 おばあちゃんはそれを最後まで聞くと、私の胸をなでてくれました。

 おばあちゃんの手はやっぱり、とてもひんやりしていて気持ちいいです。



「いたいの、いたいの、花ちゃんの中から飛んでいけー!」



 いきなりそんなことを言うおばあちゃんに驚いて、笑いました。



「今は痛くないよ」

「これからの分も飛んでいけってお願いしたの」

「ほんとうにいなくなる?」

「大丈夫。おばあちゃんがちゃんとお願いしたから」



 それを聞いてなんだかホッとしました。


 おばあちゃんが私のキュッをやっつけてくれたんだなと思いました。



「おばあちゃん。ありがとう」



 私はおばあちゃんにお礼を言って、だいすきな手を自分の両手で握りました。

 その握った手も、ひんやりしていて冷たかったです。



「花ちゃん。辛かったら辛いって言っていいのよ」



 またいきなりそんなことをいうおばあちゃんに驚いて、握る手に少し力を入れました。



「私、平気だよ」

「お母さんのことを考えてあげられるのは、花ちゃんの素敵なところだけど、花ちゃんはもっと甘えていいのよ」

「そんなことしたら、お母さん困っちゃうもん」



 おばあちゃんの言葉は私の胸をキュッとしました。


 私も本当は分かっていました。

 今日だって、お母さんに仕事に行ってほしくなかったし、お母さんのつくった朝ごはんだって食べたいし、一人で食べるのだって寂しくてとてもとても辛いです。


 だけど仕方がないことです。

 お母さんが働くからご飯を食べられるって、お母さんが言っていました。わがまま言ってもなんにもならないんだって、私が我慢すればいいだけなんだって、その時知りました。



「今日はおばあちゃんがいてくれるから。大丈夫だよ」

「花ちゃんは寂しくない?」

「うん。大丈夫だよ」

「今日は泣いていいのよ。おばあちゃんは何も言わないから」



 おばあちゃんにそう言われたら、溜まっていたキュッが、喉まで出てきて、体が暑くなりました。それからすぐに目から涙がでてきて、たくさんたくさんでてきて、私は泣いてしまいました。

 なんで泣いちゃったのかよく分からないけど、ずっとこうやりたかった気がしました。



おがあざああんお母さんおじごとびっち"ゃっだのお仕事行っちゃったの

「うん」

いづぼいつもいづぼいつもばだぢをおいで私を置いてざきにいっち"ゃう"先に行っちゃう

「うん」

おがあざん"とびっじょにお母さんと一緒にごばんだべだいご飯食べたい

「うん。うん。花ちゃんは良い子ねえ。とても良い子ねえ」

「うわ"わ"ぁん。ぐえん、ぐすん──」



 涙はちっとも止まってくれなくて、おばあちゃんにしがみつきました。自分の言いたかったことを、たくさん、たくさん、おばあちゃんに話しました。泣いてみっともない私をおばあちゃんはただただ、なでてくれました。

 やっぱり手はひんやりしていたけど、どんなものよりも温かく思いました。



「たまにでいいのよ。泣かなくてもいいの。ちゃんと、そういうことをお母さんに言わないと。花ちゃんの中で沢山の寂しいが溜まっちゃうから。いつもはお母さんを困らせるって、花ちゃんが一番分かっているものね。だけどちゃんと甘えないとね」

「お母さん。怒るかな」

「たまにだもの。怒らないよ」



 私はおばあちゃんの言葉が、とても、優しくて、ずっと、お母さんに言ってほしかった言葉のように思いました。おばあちゃんは、私が泣き止むまで、ずっと、優しく、なでてくれました。






 私はずっと泣いていたけど、時間が経つと涙が止まって、息もゆっくりになりました。それから上を向いておばあちゃんの顔を見ると、おばあちゃんはなんだか悲しそうな目をしていました。



「おばあちゃん、そろそろいかないとだね」



 その言葉を聞いた私は急に怖くなりました。理由は分からないけれど、なんだか怖くなって、ずっといてくれたおばあちゃんがいなくなると思うと、耐えられませんでした。



「いやだ! ずっといて!」



 私は離さないぞとおばあちゃんを力強く抱きしめました。



「ごめんね。おばあちゃん、花ちゃんとずっとはいられないの」

「いやだいやだいやだ!!!」

「これからはちゃんと、そうやって自分の言葉を言ってね」

「なんで行っちゃうの。まだここにいてよ」



 また、涙が出そうになりました。

 おばあちゃんは、ひんやりとした手で、最初に来た時みたいに涙をぬぐってくれました。

 それからさいごに笑って言いました。



「おばあちゃんね、花ちゃんもお母さんも大好きだもの。ずっと見ているから。元気でいてね」



 離さないぞと強く抱きしめていたのに、するりと、おばあちゃんの体はどこかにいっちゃいました。


 私は「おばあちゃん! おばあちゃん!」と叫びながら、遠くにいっちゃうおばあちゃんを追いかけました。


 だけど後ろから声が聞こえてきました。「花! 花!」と呼ぶ声はどんどん大きくなっていって、私は目を覚ました。


 目の前にはお母さんがいました。

 慌てた様子で、私の肩を強く握っていました。



「お母さん……?」

「大丈夫? ちゃんとお母さん見える? 熱はどう? お粥食べられなかった?」

「今、お昼?」

「もう夜よ」



 お母さんにそう言われて、時計の針を見ると6時を過ぎていました。もう少しで7時になりそうです。

 それからはっとして、周りを見ました。やっぱり、どこにもおばあちゃんはいませんでした。



「おばあちゃんは?」

「え?」

「さっきまでいたの」

「なに言っているの。おばあちゃんはあなたが4歳の時に死んじゃったでしょう」



 私はそれを聞くと、ぼーっとして、なんだか今を上手く理解できませんでした。さっきまでのおばあちゃんは嘘だったのかなと思ったけど、体のひんやりした感じは今もずっと覚えています。

 そんな私をお母さんは、ぎゅっと抱きしめました。



「夢を見ていたのね。大丈夫よ、お母さんここにいるから」

「お母さん」

「どうした?」

「たまには一緒にご飯食べたい。迷惑はかけないから」



 私はその日、自分の思っていたことを素直に言ってみました。するとお母さんはもっと強く抱きしめて、背中をなでてくれました。



「花。いつもありがとう。寂しい思いばかりさせているね」



 そう言うと、今度は手を離して、私の顔を見て言ってくれました。



「お母さんも、花ともっといられるように頑張ってみるね」



 とても優しく笑ってくれました。私は嬉しくて泣いてしまうより、嬉しくて笑ってしまいました。


 お母さんは私の手を握って「リビングまで来れそう?」と言いました。

 だから私は今ある元気をいっぱいこめて言いました。



「うん!」



 大好きなお母さんの手を握り返して、そのまま2人でリビングに向かいました。


 繋がっているお母さんの手はひんやりしていませんでした。


 おばあちゃんのひんやりとしているけれど温かい手は、もう触れられないのかなって思いました。


 だけどあれは私の大好きなひんやりです。


 それでも今は、アイスノンも、冷えピタも、つないだお母さんの手も、ひんやりとしていませんでした。

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