雁
上原美樹
雁
もともとは いくさから逃れるために村を出た。穴だらけのぼろ着と擦り切れた草履、それが俺の持ち物のすべてだった。身に付けるものがある分、まだマシであったが、腹だけはいつも空いていた。いたるところに、弔うもののない野晒しの屍体があり、その屍体から年齢も性別も関係なく、だれもがあらゆるモノを奪った。死んでなお、着ているものまで奪われてしまうのは、死人にとって泣きっ面に蜂であるが、すでに命を奪われているものは、おそらく気にもとめないだろう。
この頃の俺は、野晒しの死体も、屍人から何かしら奪う人間もおそろしかった。そうはいっても、近頃の俺は、地獄にいる餓鬼になりさがってしまった気がする。村にいた時は、他人のものを奪うなどしたことがなかった。ところがきがつけば、いつの間にか、なんらかの言い訳をしながら、物色し、自分が身につけているボロより、よりよいボロを見れば、自分のものを脱ぎ捨て、死体からはぎ取ってまとうようになっていた。時間が経ち、見慣れてしまうと、 朽ち果てた死体にいちいち驚かなくなる。それどころか、どこまで行っても誰とも会わないようなだだっ広い野原を歩いていると、 野晒しの死体にすら、俺は懐かしさを覚えた。いつの間にか、立ち止まり、近寄り、死体に向かい、どこからきたのだ?とかなぜここで死んだのだなどと、話しかけるようになった。荒れ野では 風雨にさらされている遺体でさえ、そこにいてくれることがありがたく思えた。そうしてしばらくの時を死体とともに過ごした。いつからか忘れてしまったが、俺は花を摘み、死体に手を合わせるようになっていた。花のない時期には棒きれを見つけ、拾った小刀で花の形に傷をつけ花にみたてて供えた。ある時 暇にまかせて花の形につけた傷を、深くなぞり彫っていくうちに、棒きれが本物の花のように変わった。棒きれに、すっと、刃を滑らせると、くるくると木屑が丸まる。あるいは、ザクザクとうまれおちる菱型の形がおもしろく、花を彫る作業に俺は夢中になった。
村がどの辺りだったのか、思い出せない程、時間が過ぎたある春の一日、俺は無心に石を彫る男をみた。男は、ブツブツ呟きながらたった1本ののみで石を彫る。とにかくぶつぶつ、つぶやきながら石にのみを打ち込んでいくのだ。石を彫っている時の男の顔を見ていると妙に落ち着いた気持ちになった。のみを入れるたび、男の手元から砕かれた石が砂になり、さらさらと落ちていくのを見るのが好きだった。石を彫っている間は男がいつ寝ているのかわからなかった。やがて石が彫り上がると、わずかな休息の後、移動する。男が立ち去った後には、彼の彫った石が厳かに据えられていく。それが仏であると知ったのは、たまたま通りかかった女が『ああ、何とありがたい。さいのかみ様がいらっしゃる。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』というのを聞いたからだ。その女は、俺がいるにもかかわらず、石の仏の前に膝まずき、食べ物をお供えしながら念仏を唱えていた。『賽の神?』賽の神って、なんだ?俺のつぶやきすら聞こえないほど、女は夢中で念仏を唱えている。ぶつぶつと念仏を唱え終ると、俺の問いには一切答えないまま、女は俺が来た方角へ歩いて行ってしまった。おれは、石を彫る男の後を追うことにした。俺の来た道を戻るのではなく、先へ進んでいけば石を彫る男に追いつくだろう。そうして見つけたら石を彫る男にわからないように、見失わないように後をついていこう。男に追いつくために歩みを進めながら、賽の神について考える。おそらく神というくらいだからありがたい物なのだろう。
「な、神さまはちゃんと見ていなさる。悪いことをしたらいけないのだ。」
誰かの声が耳の奥で響く。振り返り、振り仰いでも誰もいない。その声が聞こえる時、確かに俺の頭をなでる感覚があったが、誰にも撫でられてはいなかった
「え?神さまは、俺を見てるのか?どこで?」
俺の問いに、相手はふふふと笑う。
「神さまは、誰も知らない場所でじっと人のすることを見ていらっしゃる」
俺の頭をなでながら話すその声は温かだったのを記憶している。
誰だったのか、思い出せない。温かだった感触だけが俺の頭上によみがえる。
⑤いくつかの小さな川を渡った辺りで男に追いついた時、男は新しい賽の神を彫っていた。
俺は、無心で男が彫っている様子を遠巻きに観察する。男が石の神を彫りあげる。
男が彫った石の神と向かい合う時、胸のあたりにぽっと明かりが灯るようなきがした。
妙に懐かしいようなどこかであったような不思議な気持ちになった。
俺は出来上がったばかりの石の神と、彫り上げた男の顔を比べて見ながら、
もっとこの男といたいと思った。なぜ、石の神を彫るのか、聞いてみたいと思ったのだ。
尋ねる事が出来なくても、そばにいて石を彫る姿を見ていたかった。
その時から、一定の距離を保って男を見失わないように、
男に気づかれないように注意深く後をついて行った。
⑥男がどこを目指して歩いているのかは皆目見当がつかなかった。
男は、歩みを進めながら、賽の神を見つけると立ち止まり手を合わせた。
野晒しの死体を見つければ、『かわいそうに』とつぶやき、穴を掘り埋めた。
穴を掘り埋めた後で、木を切ってちいさな墓標を立てる。
墓標をたてた後は、たいていは小さな石だったが、丁寧に賽の神を彫り、
必ずと言ってよいほど死体を埋めた上に据えた。
それから石の神を彫るための手ごろな石を拾うためにどこまでも歩き、
見つかると自分で建てた墓標まで戻る。墓標まで戻ると石にのみをあて、賽の神を彫る。
死体に出くわしさえしなければ、男は歩みを進め、寺や神社の軒下で寝泊まりをした。
行き倒れの死体や戦に巻き込まれ死んでいった人の死体は野にあるだけでなかった。
人通りの多い場所にも転がっていた。むしろをかけられていても、死体はすぐわかった。
道行く人は朽ちてゆく途中の死体を他人事として遠巻きに眺めた。
誰も弔おうなどとはしなかった。
石の神を彫る男は死体を見つけるたびに、屍体を弔った。
別段、体格が良かったわけでもないが死体を弔う時の手際よさは、
今まで一体どれほどの数の死体を弔ってきたのかが目に見える様だった。
⑦賽の神が彫り上がり男が去った後に俺は自分で彫った花を供えた。
男の石の神と比べたら無惨ではあるがいくつか彫っていくうちに
だんだんそれらしくなっていくのが楽しかったのだ。
時に、石を彫る男は、本当に石から神を彫り出すことがあった。
そんなときは、普段より長くその場にとどまった。
男の手によって石から彫り出された神は生きているようだった。
じっと見ていると話だしそうだった。俺は俺が彫った花を見ながら考えた。
どうしたらあのように彫れるのだろう。
あの神たちは皆一様に、見るものが知らぬ間に手を合わせたくなる。
ある日、俺は勇気を出し、声をかけてみようといつもよりもうすこし男に近寄ってみた。
男は、ちょうど仕上げの一彫りを済ましのみを置いたところだった。
「何か 御用か?」唐突に男に声をかけられた。
たすき掛けにした麻の上着の袖を戻しながら、男は出発の支度を始めた。
「お前は随分と長いこと、私の後をついてきている。
別段悪さをするわけでもないから放っておいたが
何か用があって私の後をついて来るのか」
俺がしどろもどろしている間にも男は身支度を整えていく。
俺はもともとうまく話せない。
それで今までに味わったことがないほどのドキドキを感じていると、
すでに身支度ができてしまった男が俺を振り返り
「用がないなら先を急ぐから」と言った。
俺は心臓が口から飛び出そうなほどドキドキしたが思い切って話してみた。
「いつも何を彫っているの?」
男は俺を見つめて静かに答えた。
「仏という名の神を彫っている。たまに地蔵も彫り観音も彫る。」
「仏。神。地蔵に観音・・・」
確かにいつもの石仏とは違うものを彫っていることがあるのを知っていた。
けれど、どれが仏で、どれが神で、どれが地蔵で、どれが観音なのか。
俺にはさっぱりわからなかった。
「私は仏師ゆえ、旅の途中で亡くなった者、戦に巻き込まれ亡くなった者、
病や飢饉で亡くなった者を弔うのは修行のひとつ。」
俺は仏師の話を遮るようにその場でひざまづいた。
「頼みがあります。俺に彫り方を教えて欲しい。」
仏師の視線を感じるが俺は顔を上げられずにいる。
辺りに俺の心臓がばくばく言っている音が響く中、俺は仏師の言葉を待つ。
「教えられるようなものはない。だが、おまえにとってなにか得られるものがあるかもしれないと考えるのであればついてくるのもよし。」
と言った。俺は顔を上げた。辺りに鳥のさえずりが広がる。聞き間違いではなかろうかと仏師を見る。
仏師はすっと立ち上がり、歩き始めた。俺も立ち上がり仏師の後を追う。
「お前をなんと呼ぼうか?」
仏師は振り向きもせずに言う。俺は名前を名乗ろうとしたが声がでなかった。
「名前がわからぬか?」
俺は答えられなかった。俺が考えているのをみて仏師が言った。
「長いこと誰とも話さないでいると、向かい合うのは己れだけ。そのうちに名前を忘れてしまうこともあろう。気にするな。」
俺はそういうものだろうかと考える。
「そのうち思い出すだろう。時に、私は奈良へ歩みを進めていくが、ついてくるか?」
「奈良?奈良とはなんですか?」
仏師は黙っている。
俺は、仏師と一緒に歩みを進めると決めたので奈良へ向かうことになった。
⑧
腹が空くと仏師は食べ物をくれたから俺は、食べ物を探さなくてもよくなった。
眠くなると仏師の傍らで横になり、眼が覚めると、仏師がいて昼夜を問わず無心に彫り物をしている。
仏師の傍らで眠るようになって俺は、不意の物音に目覚めることもなくなった。
仏師の手によって彫り出される様々な仏はどれも穏やかな眼差しをしていた。
彫っている間の仏師の表情は、声をかけるのをためらうようなまなざしだ。
仕上げの一彫りののみを離すまで、何も口にせずただぶつぶつとつぶやいて彫っている。
俺は 仏師が手を動かしている間、目が覚めている時は、その手をじっとみていた。
⑨ある日、彫り終えた仏師にいつも何を呟いているのかと尋ねた。
仏師は、ただ一言、経文だと答えた。経文とは何かと尋ねると、
「自分の弱さに迷わぬための祈りの言葉だ。」
と答えた。俺は考える。彫っている間は、寝食を取らない仏師のどこに弱さがあるのか。
俺が黙っていると、仏師は俺をまっすぐに見て
「菩薩は石に眠っている。正しくいうなら私の行為は、
彫っているのではなく石から菩薩の意思を菩薩の形へ戻しているのだ。」
仏師は 低く囁くような声で続ける。どこか遠くから水の流れる音が聞こえてくる。
「いつの世も変わらず、いつまでも変わらず、人々は苦しみの中にいる。
人々を 苦しみから救いたいと願う、菩薩の御意思を石から解き放ち、
観世音菩薩としてのお姿にお返しするのが仏工としての使命。」
空で天女が歌うような午後だった。
仏師はそういうと背中を向けて横になった。
⑩
たった1本ののみを巧みに使い仏師は、器用に菩薩を彫り出していく。
菩薩を彫り出ししっかりと据えると改めて一度 読経する。
俺は、仏師と過ごすようになって、仏師が菩薩を一つ彫りだすたびに、
微かではあるが仏師が小さくなるように感じた。
ある時 仏師に 伝えると、
「お前にはわかるのだな。」
それからゆっくりと一呼吸おいて
「お前がいつも彫っている花は、荒削りで素晴らしく美しい花とはとうてい言い難い。
けれど、お前が何を思って花を彫っているのか気持ちが伝わってくる。
それこそ、仏工として一番大切な資質だ。大切にしなさい。」
と言った。俺が花を彫っているのを仏師は見ていないと思っていたので、唐突な言葉に
うつむいてしまった。
すると 仏師はおもむろに棒きれを自分の袂からだし、花を彫り出した。
花を彫る仏師を見るのは初めてだった。
「いつもお前は、この辺りから茎を掘り始める。
ちょうどこの辺に、いきなり小刀を入れる。そうではなく、
まずこれから彫ろうとする花の全体の均整を考えるのだ。ごらん、こんな風に」
俺は目を見張った。夢中で仏師の手もとを見つめる。やがて仏師は、
見事にキキョウの花を彫りあげ俺に差し出した。
手渡された花はもとはただの棒きれとは思えぬほど端正な作りだった。
見ているうちに、薄い紫色をしたキキョウの花そのものに思えて目をこすった。
キキョウの香が漂いだしたように思う。
「花は 口をきかない。口をきかないから何も考えていないと思うか?
花は、昨日も今日も同じ場所に咲いている。同じ場所にいて動かなければ死んでいるのか?
そうではないであろう。花は話さなくとも想いを持っている。その想いの通り花は咲く。
お前は 花の想いを感じ取り彫り出せば良い。」
「花の想いとは、なんですか?」
俺は花の気持ちを考えたことはなかった。花にも想いがある、花にもいのちがある。
花の想いを彫りだす。ちょうど、仏師が、菩薩を石から彫り出すように。
俺は今まで何を考え、彫っていたのか。俺は棒きれを拾い、懐から小刀を取出し棒きれにあてた。
今、目にした仕事を忘れないうちに、言葉を用いない花の想いを形にする。
夜が更けるのも忘れて一心に小刀を動かした。東の空がやんわり明るくなり、
スズメのさえずりが聞こえる頃、初めて俺は 一つの花を彫りあげた。
仏師はすでに浅い眠りについていた。
⑪
仏師は、納得いくまで石と向かい合いのみを振るう。
俺は、納得いくまで花を見つめ花を彫る。花を摘むのではなく花を彫り菩薩に供える。
花は季節を告げる。青一色の透き通った空のもと、どんなに小さな花であっても
その時々の季節をささやくように告げてくる。
野葡萄が順々に色を変えているのをみた。日が落ちるのが速くなっていく時、
残り陽がいつまで西の空高く残っている時、仮が列をなして真っ赤に染まった西の空を
飛んでいく様子を見る時、一面に靄のように広がるやや明るい紅の梅を見る時、
季節が移っていくのを感じた。仏師と共にいて、いろいろなものを彫っていく。
仏師と一緒にいるうちにどれほど時間が経って行こうが
一生このままの時間が続いてくのだと思っていた。
俺は仏師が菩薩を彫り出すために、仏師と共に一つの場所に何日もとどまった。
仏師が菩薩を彫り出していく様子を見ながら、俺は傍らで棒を拾ってきては花を彫る。
目指す場所がどこにあるか皆目見当はつかなかったが、
奈良が目的地であることは理解した。奈良がどんな場所かはわからなかったが、
仏師が目指しているところであることは理解した。
あるとき、真っ赤に染まった西の空の下、二つ先の小高い丘の上にかすかに寺社が見えている。
仏師が立ち止まり指をさした。
「おお。私達の目指した場所が見えてきたぞ。」
あれが目指した場所、奈良なのか。
俺は師のまっすぐな背中を見ながら少し安堵した。
⑫
奈良が見えてきたと言うのに、近頃の仏師は、時折、
立ち止まりため息をつくのが増えていた。
あと少し歩けば奈良につく。そう考えると、俺としては自然と歩みが進む。
あるとき、歩みを進めながら仏師は珍しく俺に話しかけてきた。
「これから行く寺では今までのように石から彫り出すのではなく
土から菩薩を作るのだ。」
「土?土で作ったりしたら、雨に流されてしまうのではありませんか?」
俺の言葉に師はかすかに笑った。
「そうだな。だが、風雨にさらされなくて済む所に、安置されるので平気なのだ。
あの寺の屋根のあるところに納められるから土から作り出しても平気なのだよ。」
俺は黙って仏師のぴんとした背中を見る。
仏師の言葉を聞きながらゆるい傾斜を歩いていく。
だいぶ山門に近づいている。
辺りが少しずつ暗くなっていく中、見失わないように仏師の背中を見ている。
初めて見た日と変わらずまっすぐに伸びている。遠くで鳥が鳴いている。
「今まで私は、私が感じた菩薩の思いのままを石から彫り出してきた。
だが今回は土から作る。」
俺は土から作る作り方を考えて楽しみになる。
土から作り上げるとは、どのような感じだろう。
と不意に師の声が小さくなる。
「あの寺にはお前は入れない。」
俺は立ち止まり耳を疑う。
「お前はおそらく山門を潜れない。」
「わかりません。何をおっしゃっているのか、わからない。」
仏師は俺の言葉に立ち止り、振り返った。
目的地の寺の山門はもうすぐそこにみえている。
見たこともないほどの、立派な山門はその先に続く寺社のお雄大さを表している。
仏師は、その山門の先へ、一人で行くと言う。
「そうだな、わかるまい」
俺の頬を温かい雨粒が濡らす。
俺は空を仰ぐ。星が輝いている。明らかに晴れている月夜に俺の頬には雨が降っている。
「山門をくぐれないなら、山門の外で仏師を待ちます。いつまでだって待てます。」
仏師は首を横に振る。それもできないと言う。
「わかりません。今までずっと、御側に居させて下さった。
急に、あそこから先は連れてはいけないと言われても」
俺の頭の中は大嵐で 俺の頬では大雨になっている。
「泣いているのか。無理はないが。」
仏師の腕が伸び、俺の頬に掌が触れた。掌で涙をぬぐい、続けて俺の頭に触れた。
「そんな風に、泣いてはいけない。泣くときは大きな声をあげて泣くのだ。
声も立てず、自分を殺すように泣いてはいけない・・・」
誰かにこんなふうに触れられるのは初めてだった。
仏師の手は俺が思っていたよりもずっと温かだった。
「時に、お前は名前を思い出せたか?」
俺は 師を見つめた。この時に名前を思い出せたかどうかが、何の意味を持とうか?
そう考えながらも、相変わらず、名前が思い出せないことを思い出す。
思い出せなかったことは思い出せたが、肝心の名前は思い出せない。
俺が黙っていると、仏師はやんわりと告げた。
「思い出せないであろう?」
大きなゴツゴツした掌がおれの頭を撫でている。
小さい子どもにするように、優しくなでられながら、俺の名前の思いをはせる。
「思い出せないのは、お前だけではない。
死出の旅に出たものは皆、名前を思い出せなくなる。」
俺は仏師と旅をしてきたが、それは死出の旅ではなかった。
「死出の旅などしておりません」
俺の言葉に 仏師は俺の頭から手を離して言った。
「ならば、お前は、名をなんという?」
俺は黙ってしまう。
「お前は覚えてはおるまい。
私が初めてお前を見かけた時、お前は自分の小さな遺体に向かい話しかけていた。
今まで自分の死体を見つめる者はたくさんみてきたが、お前ときたら、
まるで他の人に話すように自分の死体に話しかけていた。
それから花を摘みとり手を合わせた。私は亡者が自らの為に祈るのを初めて見た。
まだあどけなさが残るお前をみて、胸が潰れそうになった。
お前を遠巻きに見ながら、気づけば私はお前のために小さな仏を彫っていた。」
俺は思い出そうとする。仏師が今話してくれたことを疑いながら思い出そうとしている。
「お前に似せて仏を作ってから、お前は私の後をついてくるようになった。
まるで生まれたばかりの鳥が親の後を追うように、こんな遠いところまで。」
俺は仏師の話を聞きながら俺自身のことを思い出さなければと必死だった。
仏師は再び歩きだした。
俺も早足で後を追う。離れなければならない場所へもうすぐ到着してしまう。
それでもいつも通りに歩みを進めながら仏師はつぶやいた。
「お前とは行けないのだ。あの山門の向こうには、お前と一緒には行けない。」
その声は少し震えていた。
「山門には目には見えぬ線が引いてある。
その線はこの世のものとあの世のものを分けるための線だ。
私は約束しよう。これから私が作る仏は、お前の輪郭そのままの仏を作る。
寝る場所や食べ物に、未来永劫、困らないようお前の居場所を作りあげる。」
俺は 師の言葉を理解しようとする。
「いつか沢山の民がお前に会いに山門をくぐる。
彼らはお前に会うたびに心がなぐさめられ
誰にでもやさしくあろうと思う。おまえに瓜二つの仏はおまえの生きてきた証となり
お前に新しい名前をもたらす。その名前こそが真にお前の名前になる。
やがて お前の面影を持つものが現れお前の生きた時を思いお前のために祈る。
そしてお前の面影を持った者を見る時、お前は一番幸福だった時を思い出せる。」
仏師の進む先に山門が見えてきた。俺は、俺の真の名前なんていらないと思う。
俺の心は言葉にしなくても仏師はご存知だったと俺は理解している。
俺の思いを知ってなお、足早に山門を目指し俺と離れる時へ師は歩みを進める。
俺は仏師の後を遅れまいと歩いた。師の背中を見ながら師を想う。
俺は自分の名前だけではない、仏師の名前すら知らなかった。
「お待ちください。あの山門から先へどうしても
あなたといけないのであれば、あなたの名前を教えてください。」
俺はすがるように言った。
あんなに遠くに見えていた山門がいつのまにか目前にあり、
仏師はなんなく第一の山門をくぐった。
俺が後に続こうとすると 仏師は、両手を広げて立ち止まった。
「これは第一の山門。この先にまだいくつかの山門がある。一つくぐるたびに
お前のカタチは薄くなっていく。山門をくぐることは許さない。」
それから振り返ると、山門を挟んで俺の前に立ち俺の額に温かな掌を当てた。
一瞬、全ての音が止まり師の声が耳に広がる。
「私の名前は萬(よろず)」
萬のほおを一筋涙が駆け下りた。小さな涙の滑り落ちた先に小さな若葉が目を出した。
みるみるうちに育ち、紫色の小さな花が咲いた。萬の眼からもう一滴涙が
こぼれ、花弁を揺らして水滴は地面に落ちた。
『萬・・・』
俺は仏師の名前を囁いた。そしてそれっきりなにも分からなくなった。
俺は数えで14歳だった。物の焦げる匂いで目を覚ました。
干し藁の中から飛び出すと村のあちこちから火が出ていた。
いつも気にかけてくれた婆が俺を見つけて逃げろと言った。
俺はわけもわからず走った。あちこちから悲鳴が聞こえていた。
神社の近くで倒れていた女の子に見覚えがあった。
昼間、一緒に畑を作った子だった。その子の名前を呼んで駆け寄った。
顔を覗き込んだ瞬間、俺の背中を斜めに、今まで味わったことがない痛みが走った。
前のめりで女の子の上にどぅと倒れ込む。
記憶が飛ぶ。
気づいた時、むせかえるほどの血の匂いの中にいた。
自分の血でおぼれそうになりながらもまだ心臓はかすかに動いていた。
痛みで呼吸が荒くなる。
誰かにひっくり返されて懐に手を入れられた。
なにもねえとそいつは言った。
舌打ちが聞こえる。
俺は、力を振り絞ってそいつの手をつかんだ。
そいつは悲鳴を上げてまだ生きてやがるといい、俺を振りほどこうとした。
遠ざかる意識の中で目に映ったのは俺と似たような年頃の男だった。
乾いた目に青い空が映り青空は翳る、俺は俺の最期を見ていた。
俺の両目は見開かれ、のばした指の先に黄色い花が揺れていた。
気がつけば背中の痛みは消えていた。
こころなしか身体は軽くなっている。
俺の目の前に朽ち果てた死体があった。
みすぼらしい着物の切れ端が見える。
屍体の伸びた腕の先に黄色い花が咲いていた。俺は、花を摘んで屍体に供える。
かわいそうに 何があったんだ?
どこから来たんだ?
なぜ死んだんだ?
山門をはさんでこちらにいる俺の額に手を添えながら仏師は経文を唱える。
ゆっくり、ゆっくり、はっきり。
地底から響くような深くて静かな声だ。
掌は温かで、そのぬくもりを意識すると 何も気にならなくなっていく。
仏師の、はるか後ろに ぽおっと明かりがともりだんだん近づいてくるのが視界に入った。
ふわふわと茅の穂が飛ぶように俺の耳に仏師の経文を読む声が聞こえる。
「南無観世音菩薩」
萬の背後から迎えの者の声がした。
「遠いところをよくいらっしゃいました。お疲れでしょう。
さあ 参りましょうか。」
仏師の頬を涙が伝っていく。
一陣の風が俺の周りでくるくる円を描いていた。
「いきものすべて 生まれてくるときも 死んでいくときも ひとり」
俺の胸に語りかける俺の声が聞こえた気がした。
キキョウの花が咲き始めた。
今日、私はお前に瓜二つに彫った若顔の仏を奉納する。
昔お前と約束したのがつい昨日のように思える。
これから先、たくさんの時間が流れ仏師である私の記憶が消えてしまっても
多くの民がお前に会いにこの寺にのぼってくる。
お前に会いに来た民は、おまえに癒され帰って行く。
いつかその民の中におまえによく似た少年もやってくる。
光となり、風となり、私はその少年に尋ねるのだ。
「お前の名前は?」と。
2018.5.28 第5推敲
2020.7.9 第6推敲
雁 上原美樹 @ky1127
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。雁の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます