第8話 変化してゆく学園生活(1)
彼女と出会ったのは入学式の後だった。
他を騒がせることに愉しみを覚える魔王が馬鹿みたいな魔力を発し、殆どの生徒が気絶したなか、レオナルドは平然としていた。
長い昼休み、暇つぶしに周囲の森を探索しようと試みる。
レオナルドは狼の姿で駆け回ることが好きだった。本来の大狼の姿になると色々大変なため、専ら狼の姿をとることが多い。
狼の姿に変身し、森を駆けまわる。そこは広く、奥に行くほど暗かった。特に手入れもされていないようで、独自の生態系が出来上がっていた。魔獣の気配も感じたが、それらはレオナルドに恐れをなして影を潜めている。
ふと、かぐわしい香りに気づいた。嗅いだことのない匂いで、己を惹きつけてやまない魅力的な香り。レオナルドは匂いの元へ駆けて行った。
辿り着いた先には女がいた。学生服を着ていることから同級生だ。今この場所にいるということは、彼女はあの魔力に耐えたのだ。一人でニコニコしながら弁当を食べている。余程美味しいのか幸せそうである。能天気な笑顔を見ているとこちらも幸せになってくる――と思ったとき、彼女がレオナルドに気付いた。
そいつはビビっていた。ビビりながらも本気で、狼の自分に対して「綺麗」だと言い放った。嬉しくないと言えば嘘になる。
そのあとも喋りかけてくる。この魅力的な、狼の本性が舐めまわしたいと疼いている香りは、間違いなく彼女のものだった。彼女に撫でられると一層気持ちがいい。
友達になりたいという訳の分からぬ申し出も了承し、眠たそうだったので体を貸すことも許した。彼女は無邪気に喜んで、危機感もなくレオナルドに寄りかかって眠り始めた。仕方ないので外敵から守ることにする。彼女が眠っている間、甘く蕩けそうな匂いが周囲に充満し、レオナルドは酩酊しそうになった。
(同じクラスだったらいいのに。いや、それはそれで大変かもしれない)
オリエンテーションに間に合うよう、眠っている彼女を起こし、教室へ向かわせた。自分も遅れる訳にはいかないと、校舎の屋上に跳躍し、変身を解いて教室へ向かう。
あの匂いがした。
まさかと思えば、彼女がいた。レオナルドは驚きと喜びに固まる。
「は、はじめまして」
そう言われて、はっとする。彼女の緑の瞳は深く吸い込まれそうに綺麗だった。整った顔立ちはあどけないのに、左目の下の黒子が色っぽい。無垢そうな桜色の唇、珍しい黒髪は柔らかで艶やかだった。碧い湖にひっそりと咲く花の精のような、一度気付けば惹きつけられてやまない印象がある。
人型の姿で会うと、その体の華奢さがよく分かる。甘美な匂いは、狼の姿でなくとも濃厚に感じられた。今すぐその細い腕を引っ張って、腕の中に閉じ込めたい願望が湧き出る。
初めての衝動に、これが運命なのかと問うた。その矢先。
「私、ライラ・トゥーリエントといいます。これからよろしくお願――」
背後から超物理的魔術でふっ飛ばされたような衝撃だった。
淫魔。それも、よりによってトゥーリエント家。目に血が滲んでくるような怒りがわいてくる。裏切られたような気持ちに似ていた。
「俺は、お前ら淫魔が嫌いだ」
レオナルドは抑えることなく悪意を発した。たじろぎ、困惑したライラを眺めながら駄目押しする。
「特にトゥーリエント家は」
酷く傷ついた表情が見えたが、構うものか。狼のときも、今も、無性に惹きつけられるこの香りはきっと《魅惑》によるものだろう。
(俺としたことが――同級生の《魅惑》になどかからない筈なのに。しかも彼女は最下層レベルの魔力だ。もしかして、《魅惑》において魔力値は関係ないのか?)
右隣にいるライラの顔は青ざめていた。その様子は演技ではなさそうである。
(単に恐怖しているのか、《魅惑》をかけていたことがバレて身を竦めているのか、判断ができないな)
オリエンテーションの間もずっと、ライラからは堪らない匂いがした。性懲りもなく《魅惑》をかけてきている彼女に苛立ち、なのに体はうずうずする自分に腹が立った。
一日目が終了し、レオナルドは早々に教室を出る。このまま帰宅するか図書館へ寄ってみるか迷っていると、ライラの匂いがした。敏感に反応する自分がまた忌々しい。
その匂いが森の方へ向かっていることに気付く。
(まさか、狼に会いに――)
思い迷ったあと、レオナルドは近くの屋上へひとっ跳びで上がり、不可視の魔術をかけると狼に変化して森へと飛んだ。
昼のときと同じ場所で、ライラは膝を抱えて座り込んでいた。俯いているので表情は見えないが、泣いているように見えた。狼の本能がすぐさま駆け寄れと言う。
「あっ……狼さん」
狼であるレオナルドに気付いたライラは、ほっと笑った。安心した笑みだった。腹立たしい筈なのに、心の片隅が喜んでいる。
(俺は、こいつらが、憎い――)
ライラがレオナルドの方に近寄ってくる。その分、数歩後ずさりした。
「……? お昼に会った狼さんだよね?」
(俺みたいな狼がそんなにいる訳ないだろ)
「もしかして、私のこと忘れた?」
(馬鹿にすんなよ)
「だよね? じゃあ、何で……」
ライラの表情が固まる。そして一歩後ずさり、顔が悲しみに歪んだ。
「もうここに来るなっていうのなら、そうする」
教室で青ざめていた顔よりも、酷かった。そんな顔を見たい訳じゃなかった。
(今、ここで――帰してしまっては、絶対にいけない)
狼の本能のまま、ライラに突進して押し倒した。その勢いのまま、頬をすり寄せる。ライラがふわりと笑い、狼の体を抱きしめる。
レオナルドは、素直に安堵した。
教室に行くと右隣にはライラ・トゥーリエントがいる。今日も変わらず《魅惑》の匂いを振りまいている。そのことがレオナルドは非常に腹立たしい。
昼休みになるとライラは教室を飛び出す。不愉快でかつ惹きつけられる匂いの元がなくなってせいせいするのに、どこか落ち着かない。家の者が用意してくれた昼食を平らげ、教室を出る。
かと言って目的もないので、適当に屋上へと上がった。すると、緩やかな風に乗って、微かに甘い匂いがした。
(今日も、あいつ……)
匂いから注意深くライラの居場所を探ると、やはり森の方にいるようだ。
逡巡は一瞬で、昨日と同じように狼に変化し、レオナルドはライラに会いに行った。
そして、次の日も。
学園生活四日目。狼の姿でライラに会いに行こうとしたレオナルドは足止めを食う。
「ウォーウルフ君は、どの選択科目にするんだい?」「俺も気になってた!」
レオナルドが昼食を食べ終えるころ、クラスメイトたちが喋りかけてきたのだ。
「あー……」
適当に話をそらすことや、いっそ無視することもできたが、レオナルドはそもそも冷たい魔族ではない。きらきらした目で見られると尚更である。
今日も《魅惑》の匂いを振りまいていたライラには腹が立ったが、昼休みに一人、あの場所で弁当を食べているのを想像すると、狼で会いに行かなければと思う。
ただ、目の前のクラスメイトを無下にすることもできかねた。
「俺はまだ決めてない……。君らは何にするんだ?」
レオナルドがそう言うと、彼らはほっとしたように喜び、話し始めた。
結局、森付近にいるだろうライラに会いに行くことはかなわず、予鈴が鳴る。ライラはなかなか戻って来ず、本鈴ギリギリで教室に入って来た。見るからに意気消沈している。
レオナルドは後悔した。
学園生活五日目。事件が起きる。
「ライラー、『人間界史』持ってない? 俺忘れちゃって」
突如クラスにやって来たエリック・バーナード、この代での実力者として名高い淫魔。その整った美しい容貌に、教室中が色めき立つ。
ただ一人、ライラだけはその反応からズレており、顔は引きつっていた。
(知り合い? なのか)
エリックは親密そうにライラとやり取りを交わしていた。その表情は見せつけるように幸せそうで――レオナルドは無意識に睨み付けていた。エリックの方もレオナルドを見る。
そして挑発するようににっこりと笑いやがった。
(こいつ……!)
エリックはライラの額に口付けを落とした。ちらりと、勝ち誇った視線をレオナルドに寄越すのも忘れない。その瞬間、大狼の本性が怒り狂ったのを感じた。勝手に暴れようとする魔力を静かに抑える。無性に苛立って仕方なかった。
昼休み、いつものルートで森に向かった狼姿のレオナルドは、ライラの姿を認めると、無意識にそばに引っ付いた。本性を鎮めるにはこれしかない。ライラの匂いを思いっきり嗅ぎ、満足感を得る。撫でられると気持ち良かった。
だからつい、喋ってしまった。
『お前、友達いないのか』
うっかりしていた。
そのあとのライラからの追及はしどろもどろだ。自分でも苦しいと思うのに、ライラはそのまま信じ、会話ができることに喜んでくれた。こんなに素直で大丈夫なのかと思う。
(純真が過ぎる。すぐ騙されそうだな。本当に淫魔か?)
「淫魔らしい容姿も色香もないもの。出来損ないだし」
ライラは淡々と話した。レオナルドは何も言えなかった。確かに、容姿は淫魔らしくない。黒髪なんて魔族でも稀だし、淫魔と言えば銀髪だ。顔立ちも蠱惑的ではなく、むしろ無垢――体つきも、妖艶ではない。
(でも俺は可愛いと思……いやいやいや)
自身の嗜好については考えることをやめた。
ライラは自分が出来損ないだと言う理由と、生まれを話した。
レオナルドにとっては、淫魔が銀髪だろうか黒髪だろうが正直どうでもいい。だがきっと、淫魔としては大事なことだろうと思う。半魔という事実には驚いたが、それだけだ。人間とのハーフは稀だが、いないことはない。だが、それが原因で引き起こされるものはあると理解している。しかもライラは見るからに魔力量が少ない。これでは恰好の餌食だ。
それが原因で引きこもりのような生活を送ってきたらしい。どことなく世間知らずでポケポケしているのにも納得がいく。
《魅惑》を振りまいているのも、家でそうやって教えられたからかもしれない。驚くことに屋敷の住人は全員淫魔のようなのだ。
ライラは自分の容姿が劣っていると言うが、そんなことはない。確かに、淫魔だらけで生活してきたらそう思ってしまうかもしれない。でも認めよう、レオナルドにとってライラはかなり好みである。おまけに嗅いだことのない、例えるなら天上の甘美な匂いを放っている――けれどそんなことを言える訳もない。
ただ、ライラの次の言葉でレオナルドの心臓が凍る。
「同じクラスの人にね、嫌いって言われたの。淫魔だから嫌われてるんだと思ってたんだけど、兄様やエリックを見てるとそうも思えなくて。でも、屋敷の皆にこんなこと聞けないから。狼さんなら知ってる?」
(俺のことだ)
そう思わせたのは自分だ。いくら淫魔やトゥーリエント家を憎んでいても、初対面で、しかも何も知らないライラに、あのような状況で言う台詞ではなかった。
クラスでライラが孤立しているのも、レオナルドのせいである。
だが、後悔してももう遅い。
そしてもう一つ気付いたのは、ライラが自分のことを憎んではなさそうだということ。
会話の中に、
『なぁ、お前は、嫌いって言ってきたそいつのこと……』
聞いたところで今更どうしようと思ったのだろう。
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