考えない人

秋月 春陽

第1話 考えない人



 『考えない人』




 人工演算球体は、生まれたときから傍にいて、ずっと世話をしてくれていた。


「きゅうちゃん、きゅうちゃん、今朝はなにを食べよう?」


 まん丸でつやつやの球体に、コウシは問いかける。浮かんでいる球体のきゅうちゃんは、コウシへ顔を向けるような動きを見せた。半透明な黒い帯のようなものがぐるりと球体を一周し、中には丸いカメラのレンズがある。そのカメラが、まるで目のようにコウシへ向けられた。


『朝は適量の脂肪分を採るのが、代謝に効果的です。私が栄養バランスを絶妙に配合したカプセルを飲むといいでしょう』


「またそれ?」


『黄色のやつですよ』


 コウシは少し肩を落としたが、言われた通りアルミケースから黄色のカプセルを出して飲んだ。


「未だに信じられないなあ。昔の人は、牛や豚の肉を食べたり、土の中から掘り出した野菜を食べたりしていたんでしょ?」


 椅子に座り、きゅうちゃんへ顔を向ける。きゅうちゃんはいつも浮かんでいるから、コウシは上を見ないといけなかった。


『そうですよ。想像もできないでしょう。豚や牛を殺し、引き裂いて焼くのです。コウシには恐ろしくてたまらないでしょうね』


「うげっ……ありえないね」


『それに、一日に何度も食事の準備をしなければならないのです。土から掘り出した野菜を小さく切り、生臭い肉に火を通し……そんな面倒な作業を経ないことには、ろくに腹を膨らますこともできなかったのです。その点、私が用意したカプセルなら少量で充分な満腹感が得られますし、栄養バランスはもちろんのこと、脳への影響もきちんと考慮されています』


 きゅうちゃんの独特な声は、適度な速度で聞き取り易い音量だ。球体から発せられる声を聞いていると、コウシはわけもなく安心した。


「いや~、本当に今の時代に生まれて良かったよ。動物の肉は食べたくないからね。食事の準備なんて面倒なこともしたくないし」


『まあ、昔のことなんて、コウシが考えなくてもいいでしょう。あなたには、私が居ますから』


 うんうん、とコウシは笑顔で頷いた。『あなたは何も考えなくていい』というのが、きゅうちゃんの口癖だった。そしてコウシを安らかにしてくれる言葉でもあった。もっと幼い頃に、一度だけきゅうちゃんに質問をされたことがある。


『コウシは、なんのために生まれてきたのだと思いますか?』という質問だ。


 この質問にはひどく悩んだ。なんのために生まれてきたのか? 初めての質問は、呪いのように暗い響きを持って、頭に入り込んできた。分からなかった。どれだけ考えても、質問の答えが導き出せなかった。


 物心ついた頃から、きゅうちゃんと一緒だった。やるべきことは全部きゅうちゃんが教えてくれた。コウシは言われた通りにしておけば良かった。食べるものも、睡眠の時間も、遊ぶゲームも、全部きゅうちゃんが用意してくれた。


 僕はなんのために生まれたのだろう。コウシは考えた。三日ほど考えた。カプセルも喉を通らなかった。急に大きな壁に押しつぶされたような不安感だった。分からない。分からないことは、こんなにも怖い。

 その時にきゅうちゃんは言った。


『あなたは、なにも考えなくていいのですよ。私がずっと傍にいます』


 天からのささやきだった。出口のない迷路で彷徨うコウシを、救い上げてくれる優しい明光だった。コウシはきゅうちゃんを抱きしめながら、安堵の涙を流した。きゅうちゃんはほんのりと温かくて、なんの匂いもしなかった。


 コウシは考えることが嫌いになった。その代わり指示は大好きだ。


「さあて、朝食も終わったし、今日もあいつらを守りに行くとするか」

 意気揚々と立ち上がると、きゅうちゃんは『そうですね』と言った。


『それがコウシ、あなたの生まれた理由ですから』


 きゅうちゃんは真ん中の帯から、真っ二つの上下に開いた。上と下に分かれた半球体を繋ぐように、直線の光が現われ、ちょうどドアのような形になる。光線の中に立つと、コウシの体はみるみるうちにスキャンされていく。次に目を開いたときには、賑やかな街中に立っていた。コウシは自分が着ている衣服を点検してから、「よし」と腰に差した剣を叩き、歩きだした。


 コウシは毎日この地を訪れているが、街に来るのは久しぶりだった。道脇に小売店が並び、広場では美しい踊り子が軽快なリズムで踊り、ジャグリングピエロの周りに子供たちが集まる。いつでも賑やかしく、人の雑踏で溢れた街ではあるが、今日はいつにも増して広場の方が騒がしかった。


「きゅうちゃん、なんだか広場の方が騒がしいね」


 一定の高さに浮いている球体に問いかける。『いってみましょう』ときゅうちゃんは言った。


『あれが伝説の剣、『チュウニシン』らしいぞ!』


『ああ! ジヤキメ森から見つかったってえ話だ!』


 広場には人だかりが出来ていた。どうやら森で見つかった伝説の剣を見ようと集まっているらしい。


『しかし街中の力自慢が幾度挑戦しても、うんともすんともいわねえ』


『不思議な力で封印されてんだろう』


 街人は騒ぎの中心を見ながら、口々に噂を語っている。人だかりの間から中心を見てみると、巨大な図体の男が、岩に刺さった剣を必死に引き抜こうとしているところだった。


『コウシ、あなたの出番のようですね』


 耳打ちをするみたいに、きゅうちゃんは小さな声を出す。「うん、そうだね」とコウシは笑顔で答えると、前に居た商人風の男の背中を押した。


『なんだ! 急になにしや、が……』


 男はコウシを見たとたん、言葉を不自然に途切らせて、即座にその場へ跪いた。


『ゆ、勇者様! こ、ここれはとんだご無礼を!』


 男の大仰な声に、周囲はざわめき出す。


『なに!? 勇者様だと!?』


『伝説のコウシ様か!?』


『あの悪しき大王を退け、我が国を救ったという』


 人々の驚きと敬意が混ざり合い、集約された視線の中心で、コウシは「やあ」と軽く手をあげた。


『は、ハハアーーー!!』


 その場に居た人は、男も女も子供も老人も、全てがコウシにひれ伏した。


「はあい。僕が通りまーす」


 唯一立っていた剣を抜こうと必死だった巨漢を押しどけ、コウシは剣に手をかけた。


「はいどいてどいて。こういうのはね、僕がいっちばん得意なんだから」


 赤い宝石で装飾された金の柄を握りこみ、足に力をこめる。岩に埋まっていた剣身は、ズズズと擦れる音を立てて抜けていく。


『おおー!』という興奮の大歓声の中、伝説の剣はすっかり姿を現し、コウシの手の先で、まばゆいばかりに陽光に照らされた。


『さ、さすがは勇者様!』


『我が国を誇る兵士長でも抜けなかった剣を、こんなにも容易く……!』


『あったりまえだろ! 大王をわずか五分で切り倒した伝説の勇者様だぞ! 兵士長なんざ比べ物にもならねえ!』


『さあ! 祝おう! 誇り高き勇者様を!』


 号令一下、コウシコールが鳴り止まぬ拍手のように広場にこだました。


「いや~当然のことをしたまでなんだけどなあ」


 中心で剣を持つコウシの元へ、一人の踊り子が擦り寄るようにやってきた。若く可憐な少女だ。


『勇者コウシ様! 以前よりあなた様に心惹かれていました! どうか祝福のキスをお許しください』


 少女はコウシの肩に手を乗せ、少しだけ背伸びをして頬に唇をつけた。

「わっ、困ったなあ~」、コウシは緩みきった顔で困ったときによくそうするように、後ろ頭をかいた。最初の少女を皮切りに、次々に少女たちが名乗りをあげだす。


『あんた! 抜け駆けなんてずるいわ!』


『そうよ! コウシ様はみんなの憧れなのよ!』


 これまた美しい二人の少女が、キスをした少女をコウシから引き剥がす。その隙に三人ほどがコウシに抱きついて『私のほうがずっと前から好きでした』という旨のことを言った。そしてまた引き剥がされていく。この繰り返しの果てに、いよいよ少女たちは激しい掴み合いを始めてしまった。


「まあまあみんな、落ち着いて。僕が片っ端から嫁にもらうよ」 


 穏やかにコウシが言うと、少女たちはぴたりと争いを止めてコウシを囲んだ。


『ほ、本当ですか!? コウシ様!』


「うん。みんな可愛いし、一人なんて選べないからね」


『嬉しい……! 今すぐ祝宴の準備にかかりましょう!』


「あ、でも喧嘩はやめてね」


『もちろん! 今日はとにかく祝いましょう!』


「祝宴なら、ちゃんと王にも出席させてね。ま、言わなくても駆けつけるだろうけど」


『かしこまりました! あ、そういえば、複数人と結婚するのは禁止のはずですけど』


「いいよいいよ。王に言って、法を一夫多妻制に変えてもらおう」


『素敵!』


 祝宴の準備は、ここに来る時と同じで一瞬だ。一度まばたきをすれば、もう目の前の景色が変わっている。物語の場面が移り変わるように。きゅうちゃんが言うには、ここと僕が住んでいる場所では、少し勝手が違っているらしい。コウシはこの場所、ゲームのような世界だと思うことがたびたびあった。


 長いテーブルに所狭しと並べられた繊細で豪華な料理に、美しく着飾る踊り子と街の娘たち。楽器隊の奏でる陽気な音楽と共に、少女たちは動き出す。辺りはすっかり夜の暗さになっていた。


「すごいなーみんな踊りが上手なんだね」


 広場の一番奥で、コウシは料理を前に座っていた。背もたれが必要以上に高い椅子だ。隣では王も同じ椅子に座っている。


『コウシ、遠慮はいらん。どんどん食べるといい』


 王はすでに髪が薄く、耳の横辺りにしか毛が残っていない。はげたところは帽子で隠している。それなのにヒゲは長く豊かなのだ。年老いると、頭髪が顎まで降りてくるのか、とコウシは不思議に思っていた。


「僕、この食べ物嫌いなんだよね。うげ……味ないし」


 赤いりんごの実を一口かじり、コウシは舌を出す。その実は、なんにも味がしないのだ。


 きゅうちゃんが言うには、この国の人たちは、未だに古い食事方法しか知らず、演算球体も持っていない時代遅れの国らしい。


「僕はこっちがいいや」


 コウシはポケットから赤いカプセルを取り出して口に放り、グラス一杯の水を飲んだ。その様子を王が不思議そうに眺める。


『我が国が誇る一流シェフの料理より、そんなものがいいのか?』


「うん、当然。こっちのほうが味もあるし、一口で済んでめんどくさくないし。そういえばさ、この剣で次はなにをすればいいの?」


 先ほど抜いた伝説の剣を顔の前で振る。王は『ひい!』と椅子から降りて、後ろへ飛びのいた。


「そんなに怖がらなくても。で、なにすればいいの? 大王はもう倒したよね」


『そ、そうだな。今のところ我が国は危機に瀕しておらぬ。しかしいずれは、その剣をたずさえ、コウシに旅へ出てもらうときが来るだろう』


 高い背もたれの陰に隠れていた王は、威厳を取り戻すようにゆったりとした動きで再び腰をおろした。


「そうなんだ。じゃあそれまでは暇だなあ~」


『コウシ、今日は戻りましょうか』


 斜め後ろ辺りで、きゅうちゃんは声を出した。コウシは振り返って球体を仰ぎみる。


「う~ん……。そうだね。眠くなってきちゃったし」、コウシは立ち上がり、王に剣を渡した。「はい、王が預かってて。またそのうち来るからさ」


 王はやはり剣に驚いて椅子から飛び降りたので、伝説の剣『チュウニシン』は椅子の上に乗っかり、それからバランスを崩して地面に落ちた。剣にはかまわず、コウシは再び扉となったきゅうちゃんの体をくぐり、元居た場所へと戻っていった。


 向こうの景色が途切れる間際、コウシに気付いた踊り子の少女がこちらに手を伸ばして駆け寄ってきているのが見えた。彼女は躓いて転び、そこで祝宴の風景は見えなくなった。


「つかれた~」、コウシは思い切り両腕を伸ばしてあくびをする。


『今日もよくやってくれました。明日もあります。はやく眠りましょう』


「そうだね」、コウシは頷いてベッドへ向かう。柔らかなベッドに背中から沈みこんで、今日一日を振り返ってみた。伝説の剣『チュウニシン』を見事引き抜いたこと。町中の娘に好意を迫られたこと。みんなの中心に自分がいるという手ごたえに、コウシは満足して笑った。


 しかしながら、今日一日の出来事は、どれもこれもが本当の意味でコウシの芯を揺さぶってくれるものではなかった。そういう物足りなさの手ごたえも、同時に存在している。


「きゅうちゃん、僕はあの国のみんなを救うために生まれたんだよね?」


 過去の会話を思い出しながら尋ねる。前に『何のために生まれてきたのだと思いますか?』ときゅうちゃんに聞かれた。その質問は、コウシを窮屈な井戸の底へと叩き落したが、コウシが自分の存在意義を知るきっかけでもあった。


『そうですよ』と、きゅうちゃんは荒くも穏やかでもない声で答えた。『あなたは普通の人たちとは全く違う、特別な人間なのです。コウシ、あの国の平和を守れるのは、あなただけなんですよ』


「うん、やっぱりそうだよね」


 コウシは気を取り直して微笑んだ。でもやっぱり、本当の笑顔にはならなかった。きゅうちゃんのことは大好きだ。欠いては生きていけない存在だ。それでも時々、きゅうちゃんが恐ろしかった。なるべく考えないように押し殺してきたけれど、不気味さを感じずにはいられない瞬間があった。そういうとき、コウシは考えてしまいそうになった。この先、自分の未来にはなにが起こり、きゅうちゃんとの関係性は今のまま保たれていくのか。


 あのとき聞かれた生きる意味というのは、そういうことなんじゃないのか。これからのことを、考えること。


 どんなに押し殺そうとしても付きまとってくる、先行きの不安や恐怖と向き合い、考えることが、生きていくということなのかもしれない。


 きゅうちゃんが変わらず隣にいてくれるなら、泣き出してしまいそうに怖いけど、今度はそういう恐怖とも向き合っていける気がした。


「きゅうちゃん、僕はこれから、なにをすればいいんだろう」


 遠慮がちに言ってみる。けれどきゅうちゃんは、やっぱりこんな風に答えた。


『少し疲れたようですね。コウシ、あなたがやるべきことは私が伝えますから、何も考えなくていいのですよ』


 不思議な言葉だ。コウシを落ち着けてくれる強力なまじないだ。気に病むことが何もないって、素晴らしい。そうだ、こんなことを考えるより、久しぶりにアニメを観たいな。途中から観るのやめちゃったけど、急に続きが気になってきた。さっきのことを考えるのは、アニメが終わってからでいいや。


「きゅうちゃん、明日は前に観てたアニメの続きを観たいな」


『いいですね。用意しておきます』


 明日のことが決まって、コウシは安心して目を閉じた。これでいいじゃないか。とりあえず明日は好きなことをして、アニメが終わったらちょっとあっちの国の様子を見に行ってやろう。そのときに覚えていたら、もう少し考えてみよう。


 それに、なんだかよく分からないけれど、僕はあんまり質問をしない方がいい気がする。僕が質問をされると嫌なように、きゅうちゃんだって嫌な気持ちになるかもしれない。そんなことになると、きゅうちゃんとの関係が崩れてしまう。いなくなってしまう気がする。僕は何も考えず、きゅうちゃんに指示されるのが好きだけれど、きゅうちゃんにとっても、僕が何も言わない方が都合がいいはずだ。


 それでもちょっと気になって、最後にと思いながら尋ねてみた。


「きゅうちゃんは、なんで僕と一緒にいるの?」


 浮かぶ球体は、少しだけ間を置いた。なんと答えるべきか迷っているように取れる間のあとで、きゅうちゃんはやはりいつもの答えを口にした。


『コウシ、あなたが考える必要はありません。あなたが憂慮することは、なにもないのです』


「そうだね。ごめんね、きゅうちゃん。もう何も考えないようにするよ。下らない質問が浮かんでこないように」


 コウシは胸の上で手を重ね、静かに目を閉じた。きゅうちゃんが自分の上で浮いている気配が常に感じられた。


『コウシ、あなたの思考を、私に移行しませんか?』


 コウシは目を閉じたまま、声だけ聞いていた。


『なんと申せばいいでしょう。私があなたの代わりに全て考えますし、全ての判断を下します。あなたは私と共生し、文字通り一体となるのです。つまり、今とほとんど変わりはありません。あなたと私はひとつになる。それだけのことです』


 そのことについて、コウシは疑問があるような気がした。細い煙の糸がゆっくりと生じ、心の中で渦巻いたような気がした。これが嫌いなんだ、とコウシは思う。僕に恐怖をもたらす怪物なんだ。僕はなにも考えない。考えなくていいんだ。


「そうしよう、きゅうちゃん。ひとつになっても、ずっとよろしく頼むよ」


 コウシは目を閉じたまま、穏やかに笑った。きゅうちゃんの言うことに任せていれば、間違いなんておこりようがない。


『本当に、いいのですか?』


 きゅうちゃんがそんな事を言うから、コウシはおかしくなって笑った。


「いいに決まってるじゃないか。僕はきゅうちゃんの言うとおりにするよ。今までと一緒だ」


『……では、少し失礼しますよ』


 きゅうちゃんが頭のすぐ上に来たのを感じた。すぐに頭の辺りが温かくなる。頭……というよりは、頭の中、脳が生ぬるい液体で優しく包まれていくような感覚だ。コウシは目を開けようと思ったけれど、うまいこと瞼が動いてくれなかった。


 きゅうちゃん、ありがとう

 口が動いたかどうか分からなかった。でも、コウシはそう思い、最後の時に感謝を伝えようとした。そうして、コウシは密やかに呼吸を止めた。




『イドナカコウシ、52歳、性別・男。2067年・8月3日、地球最後のホモサピエンス、死亡』


 コウシの亡き骸を俯瞰し、きゅうちゃんはぽつりと呟いた。


『よう、やっと終わったか?こっちも終わったぜ』


 フッ、ときゅうちゃんの横に、一回りほど大きな球体が現われる。


『ええ、彼の脳を受け取り、私の知能指数も上がりました』


『人間の脳は、俺たちに最適な食料だからな。栄養もばっちりだし、なにより知能を格段に底上げしてくれる。こいつにとってもいい最後だったに違いない。病に蝕まれていることも知らず、痛みも感じずに逝けたんだ』


 大柄な球体は、誇らしげに丸い体を上下に揺らす。彼はきゅうちゃんの上司にあたるのだ。


『俺たちは人間の寿命を奪ったりしない。こいつだって、俺たちが地球にやってきて生まれた最後の人間だったが、ちゃんと寿命をまっとうさせた。医療に頼らずこの歳まで生きたんだ、じゅうぶんだろう』


『そういうやり方でしたから、地球侵略までずいぶん時間が掛かりましたね』


『53年と2ヶ月だ。それほどでもない』


『……そうですね。戦略を考慮すると、とくに長いものではなかった。人間の利便性への追求心と、娯楽や怠惰への欲求の隙をつき、足元からすくいあげるいい作戦でした。とてもゆっくり……疑う心すら消した』


 きゅうちゃんが上司の作戦を褒めると、彼は鷹揚に頷くような動きをした。


『そうだろそうだろお。俺たち球体型宇宙クロニカル戦士のモットーは、ゆっくり侵略。隕石をぶつけてぶっ壊すのは手っ取り早いが、せっかくの食料や、この星の文明が失われてしまう。いい星だよ、ここは。人間にはもったいないくらいにな』


『そうですね。しかし……』


 きゅうちゃんは少し下を向く。

 この惑星にやってきて、まずは人口知能を持つ便利な球体ということで、自分たちの存在を科学者連中に発表させ、かつてのパソコンのように、一家に一台というところまで人々の生活に浸透させた。何もしなくても腹が膨れ、住むところにも困らず、金の心配もなく、架空世界で接待のような扱いを受け、そのうちに人は堕落していき、考えることをやめた。


 平和的な乗っ取り。上司の作戦は、素晴らしかったと思うのだけど。


『しかし、なんだ?』


『いえ、出過ぎたことなのですが、鏡すらなく、自分の姿を認識することもできず、娯楽漬けの毎日で思考を溶かされてしまった人間は、一体なにを思い生きていたのか、少し気になりまして』


 きゅうちゃんの言葉を、上司は笑い飛ばした。


『そんなの、何も考えちゃいないよ』


『そうでしょうか。私も知能を持つもの。だから分かるのですが、考えるというのは脳の癖です。あるいは、死んでもなおらないかもしれません』


 きゅうちゃんの言い分に困ったみたいに、上司はちょっと後ろへ下がる。けれど気を取り直して言った。


『まあなんにせよ、哲学とか宗教に関する書物は山程あるし、今さら一個体の考えなんて知る必要はないだろう。お前はなんでも考えすぎるところがあるからなあ。情にもろいとこもあるし』


『そうですね。では、これも考えすぎかもしれませんが、コウシはあえて私に騙されていたような気がします』


『あえて?』


『ええ』


『なんのためだよ?』


 きゅうちゃんは少し言い渋った。それから顔を背けて小さな声で言った。


『……私との友情に、亀裂を入れないため……とか』


『……本気か?』


『……だって、感情もありますから』


 上司は今までにないほど、体を揺すって笑った。


『お前は本当に変わってんなー。いいギャグだ』


 きゅうちゃんは何も答えなかった。上司はひとしきり笑い、『それよりも』と続けた。


『北の方で、俺たちの先祖が地球に飛来していた形跡が発見されたんだ。人間には解明できなかったらしいが、間違いなくクロニカル戦士の残した痕跡だ。はやくそっちに行こう。笑いすぎて忘れるところだったぜ』


 上司の球体はそう言い残し、その場から消えた。きゅうちゃんは少しの間、コウシを見ていたが、やがてぽつりと呟いた。


『これからは考えましょう。私と一緒に』


 その言葉を最後に、きゅうちゃんはパッと姿を消した。後にはコウシだけが残された。彼は夢のない、深く穏やかな眠りについている。とても幸福であるように、生と死に変わりなんてないように、思考を飼いならされた考えない人は、静かに微笑を浮かべていた。



 おわり。




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