第4話 最期の瞬間
始めは一人だった白いモヤは、まるで走り出した彼に気づいたように町中から集まってきて、時間の経過と共に数を増やしていく。
そのどれもが小学生の子供くらいの大きさで、子供くらいの足の速さで、子供らしく無邪気に鬼ごっこをする。
たった一人しかいない子を鬼全員で追いかけて、捕まえたらみんなで子を──す鬼ごっこ。
朝になるまで十二時間も続く予定の遊び。
しかし、この遊びが朝まで続いた試しはない。
一度始まってしまえばひとつの勝機もない子に勝ち目などありはしないからだ。
だから昼間のうちに白いモヤが入れない、鍵のかかる場所を探さないといけなかった。
この遊びを行わない必要があった……。
「はっ、はっ──、どうしたらいい、どうしたらいいんだ!」
彼は公園を出て闇雲にではなく走る。
過去十回の経験を活かし駅の周りから離れるようにして、甦えった記憶から過去の失敗を繰り返さないようにして走る。
わざと灯りのないところを選んで、少しでも子供が通りにくそうなところを選んで、光源の多い町の中心から離れていく。
彼のそんな選択は白いモヤたちを引き離し、わずかばかりの余裕を生み出す。
足を止めることはできないが走りを少しの間歩きに変え、息をついて周囲をぐるりと見回し、どこに行くのがいいのかを考える間を与える。
「……やっぱりあのマンションか?」
一度も行ったことがない高いマンションに彼の目は向く。
それが単に目立つからか、何か理由があるのかはわからないが、彼はどうにもマンションが気になってしまうのだ。
マンションに行くということは来た方向に戻ることになるが、彼が今いる場所からは来た道とは違う、別なマンションまでの道が見えている。
向こうがマンションの東側に通じる道なのに対して、見えている道はうんと遠回りして、西側からマンションに行くための道。
「鍵がかかる場所は探せないけど、もしかしたらあそこなら」
マンションの屋上というのはまず子供には上がれないようになっていると、しかしおそらく上がるために鍵の類は必要ないと何故だか思え、彼はマンションの上まで行くことができたら逃げ切れる気がするのだ。
彼はその直感とでもいうべき
「はぁ、はぁ……。ついた。後は屋上まで行けばいい」
そして彼はモヤたちに追いつかれることなくマンションまで到着し、吹き抜けの間から見える階段で七階まで行けることを外観から察し、階段を急いで上り始めた。
マンションの外に非常階段は見えず、あるのは下からは届かないだろう高さにある鉄でできた梯子。
緊急時に上がった屋上から下りるためのものだ。
梯子はあるが子供の身長で届くわけがなく、子供の身体能力しかない白いモヤたちにも届かない。
やはり「屋上に行けば」という彼の考えは間違っていない。
「さっきからなんだろう。なんか、頭が、痛くて、」
だけど、思ったことに間違いなかったと彼は喜び一段一段階段を上がるが、その度になんだか頭痛が酷くなっていく。
マンションの真下から感じていた頭痛が少しずつ全身に広がっていき、五階に達したところで頭痛は頭痛ではなくなった。
痛いという次元ではない痛みが彼の全身を襲う。
「痛い、痛い、イタイ、イタイ、イタイ──」
こんなに痛かったら死んでしまうと感じるほどの痛み。
それでも意識が途切れることはなく、一滴の血が出ることもなく、彼は手すりに身を預けながらも七階まで到着して、屋上へと上がるための非常用のハッチを見つけて開ける。
「なんだよこれ。なんで、こんなっ──」
だが、ハッチから屋上へと上がるための梯子を下ろしたところで、彼は止むことがない痛みに耐えられなくなってしまう。
いま彼の身体にある痛みはあちこち骨が砕け、身体の中もいくつも傷ついたような痛み。
加えて頭は割れて血が溢れていて、人間なんてとっくに痛くて死んでいるはずの痛み。
例えば、マンションのような高いところから飛び降りたりすればそうなるだろう損傷に似ている。
『ワン』
目的地を目の前にして倒れ、痛みにのたうち回る彼の耳に、犬のものだろう鳴き声が聞こえた。
少しして彼を追いかけてくる白いモヤと同じ、白いモヤの犬が彼の目の前に現れる。
もう一歩も動けず一言の言葉も発せない彼には、子供たちより小さなこの犬が死神に見えた。
その真っ黒な口で自分を食い千切るのだろうと思った。
彼の予想通りに犬は肩口に噛みつく。だけどそれは彼の服を引っ張って引きずるため。
到底そんな力があるわけがないのだが、彼を上に連れて行こうとする行為のためだ。
どれだけ頑張ろうと彼を動かすことすらできないが、追いついてきた白いモヤたちが階段を上がってくるまで犬はそれを続けた。
最後まで必死になって続けた。
『ウーーッ、ワン! ワン!』
犬は現れた白いモヤたちに威嚇するが、効果があったのは人数が少なかった最初だけで、数を増やした白いモヤたちはとうとう彼を守ろうとする犬を排除する。
数人で押さえつけて、七階から投げ落とした。
直後に落下の激突音と悲鳴のような鳴き声があり、その後は何も聞こえなくなる。
「──っ」
そして、次はそれを最初から最後まで見ていた彼を同じ目に合わせる。
これがより彼の心を抉ると白いモヤたちは理解していて、全員が口の端を釣り上げながら、彼も七階から投げ落とした。
すでに人間が死ぬだけの痛みが彼を襲っているからか痛みはなく、ただ激突の衝撃と動かない犬の亡骸が目の前にあるだけだ。
そんな彼に下にいた白いモヤたちは近づき、身体の中に手を突き入れて、引きずり出した白いものを引き千切る。
千切られる度に何か大事なものが失くなっていく喪失感を彼は感ながら、目に映る白い毛の犬の亡骸に何故だか涙が出た。
「……シ……ロ……?」
ふと、彼の口からぽつりと言葉が出る。
彼は自分が安直に付けた名前を思い出したのだ。
余計なものが無くなっていくからか、思い出せた。
彼の頭の中に浮かぶのはシロという犬のこと。
自分は
そしてもう一つ……。
こうしてアスファルトに倒れ、自分の血がアスファルトに広がる様を見たということを思い出した。
痛くて、痛くて、痛くて──、でも、その後まったく痛くなくなったことを彼は思い出した……。
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