ねごと

ぴよ2000

第1話



「海底まであと2万マイル」

 夫の寝言はいやにはっきりと聞こえる。

 一緒に暮らし始めた当初は単なる寝言とは気付かず、話しかけられたと思って何度もベッドから起き上がった。私の眠りが浅いせいもあるのだろうが、寝静まった頃に唐突に起こされるので、一緒に住み始めた頃は何度も寝不足で朝を迎えたものである。

 夫の穏やかな寝顔に最初は腹が立ったが、とある夜に思い付きで返事をしてみたところ

「どこに行っていたの?」

「プリン」

「おいしかった?」

「でも俺はパンケーキ派」

「私はショートケーキが好きよ」

「知っている」

という具合で、支離滅裂ながらも会話が続いたことがあった。

 まさか偶然よね、と次の晩も試したところ、問答の末、マカダミアナッツが上京後転職を繰り返す話が出来上がった。ふむ。訳がわからないながらも微妙に会話が成り立ってしまうのは何だか面白い。

 前にテレビか何かで「本人の脳細胞が破壊されるから寝言に返事をしてはいけない」と聞いた気がするが、まあ、何度も真夜中に起こされている身としてはこれくらいの楽しみは許してほしい。

 そうして私の密かな夜の楽しみ、もとい、日課が出来上がって数十年が経ったある晩。

「あすたらびすた」

 来ました。私の楽しみ。

「今日はどうしたの?」

「鬼はそと」

「あら」

「鉄火巻食べたい」

「節分はとっくに過ぎましたよ」

 今は梅雨。夜は湿気でむわっとしたかと思えば朝になれば冷気が立ち込めていて、寝室の温度管理が難しい季節となった。台風の影響もあってかここ数日雨が続いているというのに、何故かこの人は豆まきの夢を見ているようだ。

 しかし、夫は私の指摘に遅れて「ううん」と首を横に振る。

おおそんな芸当もできたのか、と喜んだのも束の間、夫は少し落胆したような声音で「鬼はうち」と口にした。

「かけ声が間違っていますよ」

 おそらく「福は内」と言おうとしてごっちゃになったのだろう。鬼を内に入れるなんてとんでもない。それでも夫は頑なに「ううん」と首を横に振る。

「あってる」

「いや、あっていませんって」

 頑固だな。

いつもなら話が切り替わっている頃合いなのに、まだ節分のくだりが終わらない。

少し早いが、つまらないので今日はこれくらいで切り上げようか。

「もう寝ようね」

 薄闇の中、目を凝らして壁掛け時計を見やる。午前2時10分。夫婦共働きの生活で、明日は私も仕事だ。早く寝ないとまた寝不足で仕事に行く羽目になる。そう思い、毛布に潜り込んだ時。

 カタン。

 身体が硬直した。玄関の方からだ。

 いや、家鳴りか風の音だろう。台風が迫ってきているから、風に運ばれてきた何かが家の壁にぶつかたのかもしれない。そう自らに言い聞かせ、妙に冴えた頭を無理やり枕に押し付ける。それでも、嫌な考えが止まらず毛布の中で逡巡する。

「まさか、ね」

 家の中とはいえ、こんな夜更けに部屋を出て確認しに行くのは正直気がひける。かといって泥棒とかだったら洒落にならない。最悪、夫を起こして確認に行ってもらった方がいいのかもしれない。

 そう思い、今度は部屋の外に向けて気を配る。しとしとしと。外の雨音以外に音は聞こえず、家に何かが入って来たにしては少し静かすぎるような気もする。

「鬼はおんな」

「ひゃあ」

気を張っていたので、例え呟きに近い寝言でも私の心臓は跳ね上がる。

「ちょっと」

 妻が横で怖い思いをしているというのに……というか、今夫は何と言ったのだろう?

 おにはおんな?

 鬼は女?

 聞き慣れず、語呂の悪いかけ声。気味の悪さも相まって、耳にこびりついて離れない。

「あなた……?」

 もしかして起きているのか? 毛布から首を出して夫の顔をまじまじと見る。夫は目を閉じて、一定の間隔で寝息を立てていた。何年も一緒に過ごしているからわかるが、狸寝入りとかでもなさそうだ。

「鬼はそこ」

「何を」

 しゅっ。

 背後で引き戸を擦る音が聞こえた、気がした。とくん、と心臓が跳ねあがって、一瞬でも侵入者の可能性を失念していた事を後悔した。

「誰」

 声を大にして振り返る。

でも、寝室の外に通じる引き戸は閉まったまま。開けられた形跡もなければ何かが入って来たようには見えない。

「すぅ。すぅ」

 他に聞こえる音といえば、夫が漏らす微かな寝息と夜を濡らす雨音くらいのものだ。

どうやら私の思い過ごしだったみたいだ。夫の寝言なんかに惑わされて、何かが家に入り込んで来ただなんて、あるわけがない。

「……何を怖がってんだか」

 馬鹿馬鹿しい。今の私にとって、一番怖いのは寝不足のまま明日を迎えることだろう。

 今度こそ寝よう、と、夫の方へ向き直って

「鬼はここ」

「………………ぇ」

 全身が総毛立ったのは、夫の声が一際大きかったからではない。

 それは、夫の後ろに立つ、一見して黑長い影。

 髪が長く、細い体躯。若々しさは感じず、両目のむくみが目立つ大きな顔が、薄闇の中で不自然なほど青白く浮かび上がっている。

――鬼は女

 女だ。

 女は、大きな眼で私を見下ろし、うっすらと笑った。


                                     ――了

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