第8章 第三の謎

第37話 公園

 新島未翔は未来人である。


 その仮説を支える『第三の謎』の提唱者、笹本亜香里に会うことができたのは、氷川と映画を観に行った翌週のことだった。


 待ち合わせ場所は向こうから指定してきた。地元にある一番大きな公園だ。園内には博物館や日本庭園などの文化的な施設のほか、野球場やテニスコートなどの運動施設もあり、遠方からも電車や車を使ってたくさんの人が訪れる。


 時刻は午後三時を過ぎていた。園内の中央にある巨大な放送塔の下で待っていると、笹本が慌てた様子で駆け寄ってきた。


「遅れてごめん。わたしのほうから時間と場所を指定したのに」


「こちらこそ忙しいのに悪かったな」


 俺が謝罪を返すと、笹本は息を切らしながら大きく首を振った。


「ううん。わたしもずっと会いたいって思ってたから。なんとか予定を合わせられてよかった」


 笹本とは今日まで何度も日程の調整を行ってきた。


 しかしながら、ここ最近の彼女はとても忙しいようでなかなか会う機会というのを作れず、今ようやく実現させることができたのだ。


「いろいろと大変そうだな」


「うん、最近は特にね。忙しさでいったら人生の中でも一、二を争うくらい。でも、ちょっと楽しくなってきたんだ。少し前までは結構落ち込んでたから」


 気になる発言が飛び出したが、俺がそれに深く触れる前に、笹本は背負っていたリュックを身体の前に持ってきて中を漁り出した。


「はい、これ。忘れないうちに。約束してたやつだよ」


 差し出されたのはパステルカラーの小さな洋封筒だった。宛名がない代わりに、手書きの猫のイラストが描かれていた。


「この絵、笹本が描いたのか?」


「うん。忙しかったから雑になっちゃったけど」


 謙遜してはいるが、俺みたいな素人がどんなに本気を出しても描けないくらい繊細なタッチの絵だった。威風堂々とこちらを見つめる猫は、今にも紙の上から飛び出してきそうだ。


「それより中身を確認して。入れ忘れてるといけないから」


「ああ、そうだったな」


 促されて俺は封筒を開ける。


 中に入っていたのは、一枚の写真だ。


「それでいい?」


「大丈夫だ。わざわざありがとな」


 その写真に写っているのは、未翔を含む、中学二年生のときのクラスメイト全員だ。


 送別会の最後に撮った、感動でいっぱいの集合写真。花束とプレゼントを持った未翔が中央にいて、泣き笑いの表情をした俺たちが周りにいる。


 未来人の話をしたファミレスで、笹本はこの集合写真を見せてくれた。あれ以降、俺は必死になって家の中を探し回ったのだが、とうとう同じものを発見することはできなかった。なので、笹本にお願いして写真をコピーしてもらい、今日持ってきてもらったのだった。


「せっかくだし、ちょっと公園内を散歩しない?」


 写真を見つめる俺の顔を、笹本は遠慮がちに覗き込んできた。


「……えっ、ああ、そうだな。天気も良いし少し歩くか」


 写真に引き込まれるあまり、つい隣にいる笹本の存在を忘れてしまった。俺は手早く写真をしまい、広い園内を軽く見渡す。


「確かあっちのほうに池あったよな。とりあえずその辺をぐるっと回るか」


 笹本が頷いたので、俺たちはのんびりとした足取りで歩き始めた。


 公園内を散策していると、ランニングコースを走る年配の男性や犬の散歩をする若い女性、元気に鬼ごっこをする子供たちと、老若男女問わず様々な人とすれ違った。


「わたしも中学生の頃はよくこの辺りを歩いてたな」


「なんかあったのか?」


 俺が尋ねると、感慨深げに周りを眺めていた笹本が振り返った。


「あっ、部活動でね、美術部の人たちと来ることがあったの」


「なるほどな。ここに来れば描く対象もたくさんあるか」


 今こうして歩く間にも、ちょうどバスケットボールをリズム良く弾ませる音が聞こえてきて、一人の少年がまさに絵になりそうなくらいに華麗なシュートを決めていた。


「うん、そういうこと。好きな草花を見つけて描いてみたり、運動している人を観察して人体を描く参考にしてみたり、特に縛りもなくみんな気ままにやってたんだ」


 俺の記憶が正しければ、美術部の部員はそれほど人数が多くなかったはずだ。だからこそ、和気あいあいとした雰囲気で自由に活動できていたのかもしれない。


「未翔ともたまに来たりしてたよ」


 そう言われ、俺はすぐさま笹本のほうに視線を戻した。


「わたしが教えてあげたの。美術部の子たちとよく足を運んでる場所があるんだって言ったらすごく興味を示してくれて。それで休みの日とかに二人でこの公園に来るようになって、いつも一緒に絵を描いて遊んでた」


「そんなの全然知らなかったな。そもそも、絵を描いている未翔というのを見たことがないからな」


「そうだよね。見たことないとあまり想像つかないかもね」


 笹本は静かに呟くと、おもむろに視線を上空へと向けた。


「未翔はね、空をよく描いてた」


「空?」


 天を仰ぎ見る笹本に俺は短く問う。


「うん。こんなふうに見上げながらね。でも、空の色や雲の形ってその日によって変わるから、未翔の絵も当然のように毎回違うの」


「どうしてそんな空ばっかり描いてたんだろうな」


「それと同じ質問、未翔にしたことあるよ」


 笹本が薄っすらと俺に微笑みかける。


「なんて答えたんだ?」


 気になって尋ねると、笹本は神妙な面持ちで再び空を見つめた。


「『いつか翔べるようになりたいんだ』って言ってた」


 思わず息を呑んだ。未翔がそう願う理由を俺は知っていた。


 林間学校二日目の深夜。


 みんなが寝静まった夜と朝の隙間で、俺と未翔は二人きりで秘密の探検をした。


 そして、辿り着いた星空の下の河原で、未翔は言ったのだ。


 ――わたしは翔べない、と。


「憧れがあったのかもな」


「そうだね。憧れって表現はぴったりかも。そういえば、未翔が描いた未来の集合写真の絵もそんな雰囲気があったかもしれない」


 笹本の懐かしむような呟きを聞いて、俺は一人納得する。


「やっぱりそうか」


「えっ? どうかしたの?」


 その反応に驚いたのか、笹本は慌てて真意を尋ねてきた。


 俺はどう説明するべきか迷いつつ、今は最低限の事柄だけ伝えておくことにした。


「第三の謎についての俺の推理が正しいとすると、今の笹本の感想は辻褄が合うんだ。まさしく憧れを持って未翔はその絵を描いたんだと思う」


 笹本は困惑したが、それでも何か思い出したような顔になって口を開いた。


「あっ、そうか。石狩くんはわたしが知らないことも全部わかっちゃってるんだよね」


「いや、全部はわかってない。というか、わかるわけがない」


 俺は首を振って全力で否定した。なんでもわかるなんて勘違いも甚だしい。そんな能力を持った人間はこの世に存在しない。


 未翔のことだってわからないことだらけだ。だから、こんなにも知りたがっている。


「第三の謎にしたって、まだ自信がないところがたくさんある。今日、笹本に会いたかったのも確認したいことがあるからだ。俺の記憶や憶測だけじゃ全然足りない。なんとしてでも、笹本に協力してほしいんだ」


 笹本はまじまじとこちらを見つめていたが、やがて理解したように頷いてくれた。


「うん、わかった。わたしでいいならなんでも相談して」


「……助かる」


 決意のこもった瞳には甘えたくなるような優しさが宿っていて、瞬間的に俺は視線を逸らしていた。


 池のほうに顔を向けると、ちょうど視界の中に一匹の鴨が飛び込んできた。その鴨はまるで水の上に道を切り開いているかのように、池の水面をスーッと自由に泳いでいた。


 俺は一つ深呼吸をして、用意してきた最初の要求を笹本に述べた。


「まず始めに修了式の日、帰りの会の途中で突然送別会が始まったときの未翔や周りの人たちの様子をできる限りでいいから詳しく思い出してほしい。どういう雰囲気で始まって未翔がどんなリアクションをしたか、とかを話してみてくれ」


「ええと、わかった。思い出してみる」


 笹本は素直に応じ、少しの時間考えてから訥々と話し始めた。


「帰りの会の最初は上田先生の話があったよね。先生がいろいろと話した後に『みんなからは何かないか?』って問いかけて、それがフリになってるって未翔以外はわかってたからみんな黙ってた。それで沈黙の中、声掛け担当の子が手を挙げて立ち上がって、大きな声で『今から未翔のサプライズ送別会を始めます!』って宣言したんじゃなかったっけ?」


「未翔の反応は?」


「そうだった。えっと、未翔は……。あっ、確かすごく嬉しそうだったよ。わたしの席からだとちょうど未翔の表情が見えたんだけど、言われた瞬間、幸せそうな顔になったのよく覚えてる」


「俺の記憶とそれほど相違はないな」


 残っている印象がほぼ同じであったことにひとまず安堵する。


 今、俺がやっているのは記憶の照らし合わせである。自分が覚えていることが間違っていないか、偏重的な見方をしていないかを確かめたかったのだ。


 そのためには、今のように俺の記憶というのをできる限り与えない状態で笹本に思い出してもらう必要がある。人間というのは「こうだったよね?」と強く言われると、勝手に記憶を改変してしまうものだ。


「宣言の後は何があったか覚えてるか?」


「覚えてるよ。全員で机を後ろに下げて教室の前のところにスペースを作って、未翔の送別会が本格的に始まった。最初は感謝と激励の言葉を何人かで伝えたんだったかな?」


「その次は?」


「次は……そうだ! 花束とプレゼントの贈呈! 未翔に内緒でお金を集めて買ったんだよね」


「それらを贈られたときの未翔のリアクションはどうだった?」


 慎重に尋ねると、笹本は歩きながら口に手をやって深く考え込み、やがてぱっと顔を上げた。


「そういえば未翔、すごいびっくりしてたよね。進行の子が『次は花束とプレゼントの贈呈です!』って言ったらその子のほうをすぐ振り向いて、全員でお金出して買ったってことがわかったら、何度も『いいの?』ってみんなに訊いてた」


「これも俺の記憶通りだったか」


 満足のいく証言を得られ、俺は大きく息を吐く。


「そのあとが写真撮影だったよね?」


 笹本のほうもだんだん思い出が蘇ってきたようで、もう二度と手に入らない宝物を愛おしむように微笑んだ。


「未翔がみんなの中心に座ってピースして、周りの人もいろんなポーズを決めながらカメラに向かって。写真には全部映らなかったけど、後ろの黒板にイラストとかメッセージとかをその場で描いてた人もいたよね。確か未翔、あとで黒板の写真も撮ってたよ」


「もう少し詳しく掘り下げてもいいか? まず集合写真なんだが、撮る際にどういう指示があったか覚えてるか?」


 すかさず問いを挟んだ。しかし、笹本は思い出せないのか寂しそうな表情になって首を傾げた。


「指示は……あったのかな? みんな感動してたし、わたしも泣いててよく覚えてなくて。あっ、でも前のほうの人が座って、後ろのほうの人は立ってみたいな声は聞こえてきてた気がする。未翔が描いた絵もそうなってたし……」


 ちょうど訊きたかった絵の話が出てきたので、俺は流れの中で尋ねた。


「その未翔の絵についても訊きたいんだが、スケッチブックに描いてあるのを見たのは送別会の二週間くらい前だったよな?」


「そうだよ。それは間違いない」


「その絵を見たとき、笹本はどう思った?」


 単純な質問ではあるが答えるのは意外と難しかったようで、笹本はかなり悩みながら口を開いた。


「どうって言われると困るかも」


「じゃあ、第一印象を一言で表すとどうなる?」


 答えの形式をあえて絞ると、そこでようやく回答が出てきた。


「なんの絵だろう、って思った。後ろに黒板があって場所は教室っぽかったから、どこかの中学生とか高校生の集合写真を参考にして描いたのかなとは思ったけど、なんの場面かもわからなかったし、どうしてそんな絵を描いたのかっていうのも不思議だった」


「その絵と俺たちが撮った写真が似ているって気づいたのはいつだ?」


「それは出来上がった写真を見たときかな。カメラの前にいるときは絵のことも忘れてて、ただいい写真を残したいって気持ちでいっぱいだったから。でも、だからこそ現像された写真が配られて、それを初めて目にしたときにすごい衝撃が走ったの。この写真、見たことあるって」


「見たことある、か」


 俺がぽつりと呟くと、隣を歩く笹本は申し訳なさそうに自嘲した。


「わかりにくいよね。でも、未翔の絵、本当によく似てたの。黒板には特に何も描かれてなかった気がするし、写真で未翔が持ってる花束とプレゼントも描かれてなかったと思うけど、どうしても違う場面の絵だとは思えなくて」


 笹本が提唱している謎は、絵を見た者でなくては共感できないものだ。


 本人もそう思っているからこそ、信じてもらうのが難しいと感じているのだろう。


 それでも、信じてほしいという気持ちが伝わってくる。


 そして、俺は信じるに足る推論を持っている。


「安心しろ。笹本が言っていることはおそらく正しい」


 俺が断言するのを聞いて、笹本の足はぴたっと止まった。


 隣を窺うとその表情には驚きと不思議が入り混じっていて、理由を問うようにぽかんと口を開けたまま、俺のほうを見つめていた。


「この前、構図が似ているって言ってただろ? あれもそうだし、今教えてくれた未翔の絵の情報も、すべて笹本の話に嘘がないことの証明になっている。だから、俺は笹本が見てきたものを信じる」


 今まで自分が組み立ててきた論理やストーリー。それに今日の笹本の証言が加わったことによって、俺の第三の謎に対する推理はほぼ完成しそうだ。自信は徐々に確信へと変わりつつあった。


 笹本はリュックの肩紐を握って、小さく息を吐いた。


「やっぱりすごいね、石狩くんは」


 そう言って、また前へと足を動かし始めた。


 俺は立ち止まったまま、彼女を後ろから無言で見つめた。


 笹本の認識は間違っている。だからこそ褒めそやして、表にいる虚像の俺を持ち上げるのだ。その分だけ裏にいる実像の俺が踏みにじられていることにも気づかずに。


 されど、誰が悪いのかと問われれば間違いなく俺だ。気づかれずに踏みつけられるような場所にいる俺が悪い。


 笹本は真面目な善人で、俺は怠惰な悪人なのだから、傷つくのは俺のほうでなければならない。


 痛む胸を一人抱え、俺は彼女の後を追って横に並んだ。


 池の周りを抜けて少し進むと、公園内にはピンクや白の梅の花が咲いていた。開花の時期は品種ごとに多少異なるようだが、ちょうど見頃を迎えていた木々の周りではカメラを向けて写真を撮ったりする人の姿が見えた。


 この公園には梅だけでなく桜の木も各所に植えられている。今はまだつぼみだが、もう少し経って暖かい春になると美しい満開の花を咲かせ、花見客もたくさん訪れるようになる。


 ついこの前まで雪が降っていたというのに、いつの間にか桜が咲く季節も迫っていた。

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