第344話




 現実は、どこまでも非情だ。






 血の海に沈む兄弟子。目の前で斬り捨てられた先生。血に塗れた槍を握る怨敵。その全てを認識した瞬間、雪の思考は怒りに染まってしまった。


 当然だ。大切な人を目の前で失って、正気を保てる人はいない。自分から大切な人を奪った怨敵を前にして、理性を保てる人はいない。


「 ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッ!!! 」


 雪は、声を張り上げながら何度も斬り掛かる。躱されても、いなされて、反撃されて、為す術なく地面を転げ回って。


「――っ、はあああああああっ!!! 」


 それでも尚、雪は立ち上がる。何度でも、何度でもだ! この刀で、怨敵の首を刎ねるその時まで斬り掛かり続ける。


「私は、私は――っ!! 」


 涙が溢れる。悔しくて、悔しくて、悲しくて。たった一度で良いから、また先生の声が聞きたくて。


(未だ、何も恩返し出来ていないのに!! )


 狂おしい程の殺意と無力感、後悔に苛まれる。


「お前だけは、絶対に――っ!! 」


 絶対に、殺してやる。


 例え、相打ちになろうとも。






 雪の思考が、墨を垂らしたかのように黒く染まっていく。怒りを通り越し、殺意へと移りゆく。


(ええ、そうよ。最初から、この男を殺すつもりだったのだから問題ないわ。先生達の仇を取れるのであれば、私はどうなったって問題なぁ――)


 ――その時だった。雪の耳へ、微かに彼の声が聞こえてきた。


「…………ゆ、き」


「――っ!! 」


 真っ黒に染まっていた思考が、段々と正常に戻っていく。途切れ途切れの弱々しい声音。されど、聞き間違えるものか。恩師の声を。


「せん……せい? 」


「伊藤一刀斎であれば、死んでおらぬよ」


「!? 」


 不意にかけられる言葉に、雪は思わず背後を振り向いた。今も尚、地面に崩れ落ちる一刀斎の姿。全身傷だらけの痛々しい姿。胸当てには、凄まじい斬撃痕が刻まれている。


 確かに、一刀斎は忠勝によって斬り捨てられた筈。……しかし、そこに広がっている筈の血痕が見当たらない。






 何故。そんな疑問は、忠勝本人の口から明かされた。


「鎧は斬り捨てることが出来たが、骨を断つところまではいかなかった。単純に、届かなかったのだ」


「――ぇっ」


 声に反応し、我に返った雪は咄嗟に振り向く。戦場で、自ら敵に背を向ける。そんな、己の犯した愚行を悟ったからだ。


 しかし、忠勝はその場から一歩も動いていなかった。雪が隙を晒したにも関わらず、忠勝は何もしなかった。していたことは、無造作にぶらりと右腕を揺らしていたことだけ。自然と、雪の視線が忠勝の手元に向けられる。


 忠勝が握っていた物は、穂先が半ばで斬り落とされた一本の槍だった。当然、雪にもその正体を察することが出来る。


(本多忠勝は、名槍 蜻蛉切の担い手。であれば、あの槍は紛れもなく――)


「蜻蛉切は、既に死んでいる。伊藤一刀斎によってな」


「せ、先生が!? 」


「……あぁ、なんだ。お前、伊藤一刀斎の弟子か。道理で、剣筋が似ている訳よな」


 ならば、知る権利があるか。忠勝は、自嘲気味に蜻蛉切の柄を地面に突き刺した。途端、穂先が完全に砕け散ってしまった。


「!? 」


「当然よな。あのような状態で、全身全霊の力を込めて技を放ったのだ。穂先が、その力に耐えられず砕け散っても疑問には思わぬよ。……伊藤一刀斎と対峙した時点で、この結果は必然だったのだろう。後悔はない。それ程までに、あの一閃は素晴らしい一撃だった。蜻蛉切も、戦場で散ることが出来たのだ。本望であろう」


 淡々と語る忠勝。その声音からは、何故か一切の悪感情を感じられない。代わりのきかない物が、己が半身とも言える物が壊れてしまったというのに、寧ろ清々しい気分のようにすら思えた。






 忠勝は、本心から一刀斎のことを認めていた。彼だけが、唯一己の敵足り得る存在であると。


 故にこそ、その提案は自然と口にされた。


「女。早く、伊藤一刀斎を連れて何処ぞにでも行くが良い。今、治療すれば命だけは助かるやもしれぬ。これ程の武人が、斯様な所で死ぬのはお主とて本意ではなかろう」


「なにを……言っている――っ」


 理解出来ない。理解出来ない。理解出来ない。この男は、一体なにを言いたいんだ。


「……あぁ、案ずるな。俺とて、無抵抗な女子供を後ろから斬り捨てる趣味はない。俺の提案通りにするのであれば、後は追わぬと約束しよう」


「――お前がっ! 先生を! 兄弟子達を殺ったのは、貴様だろうがぁ!! どの面を下げて、そんな戯言を――っ!! 」


 血を吐くような叫び。あまりの傍若無人なその態度に、煮えたぎる怒りで額に青筋が浮かび上がる。


 しかし、忠勝には雪の怒りは伝わらない。


「では、戦うのか? お前が? この俺を相手に? ……止めておけ。勝敗は、目に見えているだろう」


 冷たい視線。まるで、道端に転がる石を眺めているかのような。


「……はぁ、くだらぬことに時間を取らせるな。今、退けば追わぬと言っているのだ。師を助けたいのであれば、貴様は貴様の役割を全うすれば良いのだ。分不相応な夢を見るな。貴様ひとりでは、この俺を倒すことは不可能と知れ」


「――っ」


 傲慢不遜。


 右の視界を奪われ、槍を砕かれても尚、本多忠勝は最強の座に君臨している。それ故に、自然と雪のことを見下しているのだ。女の身で出しゃばるなと。悪意がないのが余計にタチが悪い。






 そんな蔑みの視線に晒されて、雪は激昂しかける。その舐め腐った顔面に拳を突き刺し、激情のままに首を刎ね飛ばしてやりたい。馬鹿にするなと。


 しかし、そうはならなかった。背後から聞こえてくる蹄の音が、雪の怒りを鎮めさせた。


「確かに、私ひとりでは貴方に勝てないでしょう。それは、認めます。……ですが、私はひとりでは無い」


「なに? 」


 ニヤリと笑う雪に、忠勝は不愉快気に眉を顰める。――その瞬間、彼らが戦場に躍り出る。


「雪ぃいいいーっ!!! 」


 馬の嘶きが響き渡り、一人の剣士が雪の前に降り立つ。高丸だ。先走る雪に、ようやく追い付いたのだ。


「馬鹿! 先走るなと言っただろうが! 」


「……ごめん、兄さん」


 渋々謝る雪を後目に、高丸は鞘に手を添えたまま視線を前に向ける。誰か、など聞く必要はない。敵だ、間違いなく。高丸は、既に臨戦態勢へ入っていた。


 新たに現れた剣士に、忠勝は視線を向ける。一部の隙もない佇まい、練り上げられた闘気、一刀斎と酷似した構え。自ずと、その正体は察せられる。


「……お前も、伊藤一刀斎の弟子か」


 呟き、忠勝もまた刀に手を伸ばす。


 相手は、明らかに臨戦態勢に入っている。であれば、退くか否か聞く必要はない。


(敵ならば、斬る。ただ、それだけ――)






 ――その瞬間、忠勝は目を見開いた。






「……よもや、貴殿がここまで出張るとは」


 信じられぬ光景を見た。最奥に居なければならない存在が、決して死んではならない存在が、僅かな手勢を率いて強大な敵の前に躍り出た。その胆力に、度量に、器の大きさに、忠勝は自然と理解した。この幼子は、紛れもなく一刀斎の主であると。


 三法師が、家臣の手を借りて下馬する。傍に控える三人、前に立つ宮本兄妹。彼らを挟んで、両雄が視線を合わさる。


「本多忠勝殿とお見受けする」


「如何にも。我こそは、徳川右近衛権少将様に仕えし者。名を、本多平八郎忠勝。貴殿は、織田近江守殿とお見受けするが相違ないか」


「左様。余が、織田家当主 織田近江守。この日ノ本を統べる者である!! 」


 一切退かぬ、堂々足る名乗りに思わず頬を緩ませる。


「日ノ本を統べる……か。随分と、大層な野望を語るものよな。流石は、第六天魔王の直孫か。……だが、如何せん状況が見えていないようだ。此処で、貴殿を殺せば全て終わりだということを」


「……ふふっ、随分と語るじゃないか。体力を回復させる為の時間稼ぎかな? 」


「……なに? 」


「饒舌が過ぎたな、本多忠勝よ。普段、このような駆け引きをしないのだろう。似合わないことをするから、簡単に見破られるのだ。……今、貴様はさほど余裕がある訳ではないのだろう? 余は、信じておるのだ。一刀斎達は、何も出来ぬまま殺られるような男達では無いと」


「…………ほう」


 溢れる覇気と闘気が衝突する。






 決着をつける時がきた。


「鈴木、一刀斎の治療を。吉田と高橋は彼らの回収を」


『はっ』


「雪、高丸。君達には、本多忠勝を任せる。……大丈夫、二人なら出来るよ。余の命を君たちに託す」


『――っ、御意ッッ!! 』


 一同、瞳に焔を宿す。


 これが、最終決戦。皆が、ここまで繋いだ。誰もが、命を懸けて戦い、神を地に叩き落とした。


 ならば、最早言葉はいらない。


 勝つ。ただ、それだけ。


「織田近江守様が直臣、宮本高丸」


「同じく、宮本雪」


『徳川家重臣、本多忠勝。度重なる我らが主君への侮辱。並びに、貴殿らの主君 徳川家康が引き起こした此度の謀反、決して許されるものではない。……故に、この場にてそのお命頂戴いたす』


「……来い、小童共っ!! 」


「――っ」


 立ち昇る闘気。何処からでもかかって来いと、そう言わんばかりに悠然と構える忠勝を前に、雪と高丸は更に一歩足を踏み込んだ。


 もう、逃げ出すことはしない。


『ウオオオオオオアアアアアアアアアアアアアーーーーーッッッッ!!!!! 』






 戦いの行く末は、この二人に託された。






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