第118話
天正十年 十月 長宗我部元親 岡豊城
命からがら岡豊城に辿り着いた俺は、家臣達の命を懸けた忠義のおかげで大きな怪我も無く、出陣した時と変わらず五体満足であった。
その事実がまた、俺を苦しめる。
――ダンッ!!!
握り拳を思いっきり打ち付けると、部屋中に鈍い音が響く。爪が割れたのか、じわりと血が滲む。
その血を見て、脳裏にあの惨劇が映る。
「ぅ……うう…………すまぬ……すまぬっ」
噛み締めた唇。震える身体と合わさるように、畳へと涙が染みていく。己の内に渦巻く感情は憎しみや悲しみでは無く、ただただ無様な己自身を恥じるモノだけだった。
甘かった。俺の考えなんて、織田家にはお見通しだったのだ。寧ろ、仕組まれていたと言われた方が納得がいく。
伊予国攻略に兵力を費やした俺達に出来ることは、短期決戦しか無い。そうなれば、おのずと奇襲をかける場所を炙り出す事が出来るだろう。
俺が考えつくことを、敵将が思い付かぬ訳が無いだろう。全ては、俺の見通しの甘さが敗因。己の理想に酔って、守らねばならない大切な家臣達を無駄死させてしまった。
……俺は、当主失格だ。
織田軍との交戦で大敗を喫した長宗我部軍は、その殆どが織田軍に包囲殲滅された。名のある武将も、数名しか岡豊城に帰還出来ずにいる。
数日前の、伊予国攻略を祝う雰囲気は見る影も無く、ただただ重い空気が張り詰めるのみ。
その日の夜は、月の出ない夜であった。
岡豊城周辺では、真っ暗な闇が広がり、薄気味悪い静けさが広がるばかり。
その様子は、まるでこれからの長宗我部家を表しているようであった。
翌日、誰一人として笑顔を見せぬ俺達の元に、絶望を運ぶ大軍が押し寄せてきた。
「失礼致します! 羽柴秀吉率いる織田軍が、城を包囲しております! 」
「…………分かっている」
視線の先には、おびただしい数の敵勢。鼠一匹逃がすまいと敷かれた包囲網は、敵ながら天晴れと言う他無いだろう。
「な……なんだあの大軍はっ!? 」
「この城には二百も居らぬのに……」
「もう駄目だ…………みんな殺される…………」
「これ! 戦う前から諦める奴がおるか! 」
「……しかし、この戦力差は…………」
目の前に迫った死の気配に、いたるところで泣き言が漏れる。それを戒める声も上がるも、一向に治まる気配は見えない。
特に、このような大軍に攻められた経験の無い者達は、目に見えて狼狽えている。
だが、それを責めるのは酷と言うもの。寧ろ、斯様な状況を招いた事に、申し訳なく思う。俺の自分勝手な意地で、こんな事になってしまったのだから。
それに、確かに兵力差に絶望する者はいるだろう。しかし、一番の要因は間違いなくアレだ。
視線を横に向ければ、一際目立つ錦の御旗が見える。これが、家中に衝撃を与えていることは明白だ。
朝廷の……帝の信任を得た相手と戦えば、間違いなく一族郎党皆殺し。朝敵として名を穢し、未来永劫汚名が語り継がれるだろう。
武士として…………日ノ本の民として、到底受け入れられぬ沙汰。俺とて、朝敵として討たれるなど亡き父上に会わす顔が無い。
兵力差は歴然。錦の御旗という帝の御威光が、俺達の戦意を喪失させる。もう、俺達は戦える状態では無い。
最早これ迄……か。
俺の意地で、一族を滅亡させる訳にはいかない。未だ若き芽を……未来ある若者を、摘ませる訳にはいかないのだ。
不意に襲う胸の痛みに、思わず空を見上げる。
――腹を切り、家中の者達だけでも助ける。それが、長曽我部家当主としての、最後の仕事であろう。
「腹を切る。準備をせよ」
「……っ! ……ぅぅ……御意ぃ!!! 」
どうにか繕った笑顔で指示を出すも、どうやら上手くつくれなかったらしい。涙混じりに退室する新十郎を、俺は曖昧な笑みを浮かべて見送った。
新十郎もまた、長宗我部家の将来を担う若者。決して、こんなところで死なせてはならぬ人材だ。息子達を、支えて貰わねばならぬ。
あぁ……そうだ。あの子達に会わなくては。言わねばならぬ事は沢山ある。伝えたい想いが、数え切れない程に込み上げてくる。
――最後に、もう一度だけ……。
「誰か、千雄丸を呼んで…………」
「失礼致しますっ!!! 」
小姓に指示を出す直前、慌ただしい様子で一人の若者が部屋へと入ってきた。
「報告致しますっ!!! 今し方、織田家より使者が参りました。名を、細川幽斎様。殿、いかが致しましょうか!? 」
「なっ!? 細川様が!? 」
織田家家臣の中でも、限られた国持ち大名である細川様。まさに、重臣中の重臣。先の戦で失態を冒すも、後に京都所司代に抜擢されるなど、凄まじい経歴を持つ。
俺も十兵衛様のご縁で面識があるが、何故わざわざ使者として参るか、とんと分からぬ。
「……殿? 」
「……はっ! 直ぐにお通しせよ! 決して、無礼な真似などするで無いぞっ!!! 」
「ははっ! 」
深々と平伏した後に、勢い良く外へ飛び出す様子に、どっと疲れが押し寄せる。理由は分からないが、会わなくては始まらない。
ならば、会う他無いだろう。
その後、時を待たずに、細川様が広間へ姿を表した。素朴ながらも、どこか気品溢れる正装を身にまとった姿は、いつになく厳格な雰囲気を漂わせていた。
「長宗我部殿、お久しぶりでございます。本日は、織田家当主近江守様の使いで参りました」
細川様は、そこで一旦話しを区切り、茶を口に含ませると、本題を切り出した。
「長宗我部殿には、ある疑いがかけられております。それは、天下の大罪人明智光秀に与し、日ノ本を混乱に陥れようとした罪に問われておるのです」
「な、なんだと!? 」
驚きのあまり立ち上がると、そんな俺を制するように、細川様の鋭い眼光が貫く。
「明智光秀の謀反により、織田家は混乱に陥りました。その隙を突くように、長宗我部殿は伊予国に侵攻し攻略致しました。それ即ち、明智光秀の計画に加担していたのではありませんか? 」
「なっ!? 」
「明智光秀が謀反を起こした時は、四国征伐の数日前のこと。長宗我部家存命の為に、明智光秀に協力したと思えば、実に納得のいく話し」
「ち……違う! 俺は……俺はっ」
「帝は、この事を重く受け止め、『日ノ本を乱す逆賊を討ち果たすよう』に、近江守様へ勅命を下されました。故に、こうして逆賊の疑いがある長宗我部家侵攻を踏み切ったのです」
「そ……そんな…………」
崩れ落ちるように、畳へと腰をつける。状況は、俺が思っている以上に深刻であった。帝の勅命、それがあるから錦の御旗を掲げていたのか!
焦りからか、身体は小刻みに揺れ、額には尋常ではない冷や汗で濡れている。
このままでは、逆賊として討たれることは明白。何とかして、疑いを晴らさねばならぬ!
考えがまとまった俺は、すぐさま額を畳に擦り付けて平伏する。
「長宗我部家は、織田家に降伏致します!!! 」
「ほう……」
「そして、我等に斯様な思惑は、一切ございませぬっ! 伊予国侵攻は、一重に四国の安寧を願ってのこと! どうか、どうかお許し下さいませっ!!! 」
「……………………」
耳が痛いほど静寂。
心臓の音がやけに大きく聞こえる中、氷のような冷たい声が部屋に響いた。
「では、安土城にて近江守様に御自身で弁解なさいませ。これより、長宗我部殿の身柄は細川幽斎がお預かり致します」
「……ははっ! 」
安土城……一体、どうなってしまうのだ……。
胸に渦巻く不安を抱えたまま、俺は安土城へ連れて行かれる事が決定した。
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