第52話
天正九年 十一月 箱根
早朝に新五郎と話し合った後、俺は直ぐに師匠の部屋へ向かった。わざわざ風魔を動かしたくらいなので、武田家の一件は勿論知っているだろう。
「おししょー、しつれいします」
「……来ましたな」
部屋に入ると、そこには茶を飲んでいる師匠の姿があった。対面には未だに湯気の立つ茶が置かれていることから、俺が師匠の部屋へ向かうことはお見通しだったのだろう。
「今日は一段と冷えましょう。さぁ、お座りくださいませ」
「……では、ありがたく」
温かいお茶を一口飲み、ホッと一息つく。先程まで神経を尖らせていたせいか、身体の隅々まで行き渡る温かさに心が穏やかになっていくのを、ひしひしと感じる。
そんな俺を、師匠は穏やかな表情で見詰めていた。そんな様子に、俺はやっと自らの失態に気付き、己を恥じた。
「落ち着きましたかな? 」
「…………かたじけない」
「ほっほっほ、三法師様はまだまだ未熟ですな。精進なさいませ」
「むぅ……」
まさにぐうの音も出ない……武田家の動きは、完全に想定外のことであったが、だからと言って取り乱してはいけない。
『王たる者、常に冷静に物事を見極めよ』これは散々言われたことだった。これでは、未熟者と言われても致し方無し。
だが、それ程までに俺にとって武田家は、特別だと言うことなのかも知れない。
「三法師様がお尋ねしたいことは、私も存じております。武田家の一件でございましょう? 」
突如として切り出された本題に、無意識に身体が強ばるのを感じる。せっかく師匠から言い出してくれたのだ……これに乗るしかない。
「たけだけは、のこりますか? 」
「ほっほっほ……三法師様は、武田家を残したく無いのではありませんか? 」
「……なっ! 」
師匠の言葉に、思わず立ち上がってしまった。
頭を過ぎるのは、松や椿達白百合隊の者。なんの罪も無い彼女達に地獄を味合わせた者は、他でも無い武田家の武士だ。
彼女達は俺の仲間であり家族だ。例え、あの時は家族では無かったとしても、俺の大切な家族を傷付けたことに変わりはない。
……俺は、武田家を許せないと思っている。
だが、それは私的な感情だ……。
「じいさまがよしとするなら、がまんします」
絞り出すように呟くと、不意に師匠が頭を撫でてきた。どこまでも優しい手つきに、涙が零れそうになるのをグッと堪える。
「良くぞ、耐えましたな。王たる者、時に非情な判断を強いられる時が来ます。そういう時ほど、客観的に物事を判断なさいませ。貴方様にとって一番守らなければならないモノは、一体何かお分かりですか? 」
試すような視線、何故そんな簡単な質問を?
「たみじゃ。りふじんにさらされる、かよわきたみこそ、まもらねばならぬ」
「違いますな」
「んなっ!? 」
俺の答えは、意図も容易く一刀両断され、思わず変な声が出てしまった。
「ならば、なかまじゃ! かぞくじゃ! 」
「違いますな」
師匠は、何も分かっていないと言わんばかりに、首を横に振る。それを見て、急激に頭に血が上るのを感じたが、グッと堪える。師匠は一体何を問いたいのだ? 武田家の話しでは無かったのか!
「いったいなにがいいたい? このもんとうに、なんのいみがある? たけだけのはなしは、どこへいったというのだ」
師匠は、薄く微笑んだ。しかして、その眼はどこまでも冷たく、背筋が凍りつくようだった。
「…………武田家が生き残る道、そして策はございます。ですが、それを選ぶのは三法師様でございます。……この策を言う前に、貴方様の覚悟を問いたかった」
「良いですか三法師様……貴方様が一番守らなくてはならないモノは、国でございます。国を脅かす悪鬼は、ことごとく滅しなければなりませぬ。例えそれで、何百と言う民が死に絶えようとも。万を救う為ならば、百を犠牲にする覚悟を決めなさい」
痛いくらいの静寂が、場を支配する。師匠の言葉が、ぐるぐると頭の中を回り続け思考が追いつかない。
いや、本当は分かっていた。戦の無い世を……天下泰平を成し遂げるには、多くの血が流れると言うことを!
此度の一件もそうだ。例え武田家から和議を申し立てようとも、もう止まらぬ! 一度振り上げてしまった矛は、振り落とす他道は無いっ……。
ならば、どうするかなんて……答えは決まりきっていたでは無いかっ! 俺は……罪無き民を……殺さなければならないっ……。
俺は深々と頭を下げた。覚悟を……示す為に。
「……さくを、おさずけください。わたしがころしてしまうたみのぶんまで、おおくのたみをすくうためにっ……」
「覚悟を決めましたか? 」
瞳に溜まった涙を袖で乱暴に拭うと、勢い良く顔を上げ師匠を見詰める。
師匠の瞳に映る顔は、涙と鼻水で酷い有様であったが、覚悟を決めた男の顔であった。
「せおいます。おおくのたみをころすでしょう。おおくのうらみをかいましょう。されど、けっしておれることなく、あゆみつづけます! いつかしんでいったたみたちが、りんねをめぐりげんせにてんせいしたとき、しあわせにくらせるように。わたしは、すべてせおいます! 」
俺の心の叫びは部屋中に広がり、やがて静寂が訪れた。師匠は、まるで俺の言葉を噛み締めるように何度も頷くと、優しく微笑んだ。
「その御心、決して忘れてはなりませぬよ。王は人に非ず、されど神に非ず。人生とは決断の連続です。王になれば、それは人の生死に関わります。言われもない悪名に晒され、いつか心を閉ざしてしまうかも知れません」
「そんな時は周りを見なさい。貴方様の志に惹かれた仲間達が、きっと支えようとしてくれます。辛い時は、仲間の手を取りなさい。きっと全力で応えてくれます。その手は、貴方様が培った絆そのものなのですから。」
「これから先、貴方様の言葉が届かぬ者も沢山いるでしょう。汚れを知らぬ幼子の言葉等、上辺だけの綺麗事だと切り捨てられることもあるでしょう。言葉は、その人間が歩んできた人生の分だけ重みが出ます。どうか、誇り高く慈悲深い貴方様でいてくださいませ。いつか、その御気持ちが相手の心を溶かすでしょう」
「…………っ! う……うぅぅ……」
言葉が出なかった……。俺に出来ることは、師匠の言葉を心に刻み付けることのみ。
俺は、ようやくこの険しい道の始まりに立てた気がした。
おそらく、師匠の策は多くの死を招くのだろう。今までの俺ならば、その罪悪感に潰されてしまう……だから、師匠は俺に覚悟を問いかけ、大切な家族達に頼ることを教えてくれたのだ。
武田家の全てを救うことは出来ないけど、必ず犠牲にした方々が生まれ変わった時に、幸せな日常を過ごせる世界にしてみせます。
きっと、生まれ変わってくる……だって、俺がそうなのだから。
「三法師様、それでは策を授けます。これをどう使うかは、貴方様にお任せ致します」
「わかった……」
「では――――」
翌日、俺達は箱根を出た。これから小田原に向かい、海路で岐阜へ帰る。
師匠は、残念ながら同行はしてくれなかった。高齢だと言うこともあったが、きっと全てを託したことに満足したのだろう。
代わりと言ってはなんだが、扇を形見として貰い受けた。
白と黒に塗られた二つ一組の鈴が特徴的であり、その音色は澄んだ冬の空に溶けていくような神秘的な物。
師匠が愛用していた扇を握ると、まるでそこにいるかのように思えて心が安らぐのを感じる。俺は一人ではない。師匠もまた、支えてくれる大切な家族の一人だ。
師匠、貴方の意思は確かに受け継ぎました!
「武田が織田と和睦……か」
「はっ! 間違いございませぬ」
「ふむ。それは、ちぃと面白くないな……」
光が差せば、そこに闇も生じる。陰謀犇めく武田討伐が、始まろうとしていた。
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