明智光秀


 天正九年二月 安土城






 その名前に、鼓動が一度大きく跳ねる。


「本日は、次の明智日向守様で最後でございます。もう暫く、お待ちくださいませ」


「……」


「ん? どうかしたか、三法師? 疲れたか? 」


「――ぁあ、いえ大丈夫ですよ」


「本当か? 無理はしなくても良いのだぞ? 」


 今日は、これで五組目。流石に疲れていると思ったのか、親父が俺の事を気遣うように声をかけてくれる。だけど、俺は生返事を返すしか出来なかった。それどころでは無かったのだ。


 明智光秀。爺さんを、本能寺で殺した男。色々な黒幕説が囁かれる中でも、やはり最も有力視されている裏切り者。それが、明智光秀だ。


(いつかは、会わなければならない事は分かっていたけれど、まさかこんなにも早く訪れるとは思わなかった)


 裾を、強く握り締める。


 正直、本能寺の変の真相は俺には分からない。レポートをまとめる際に、チラッと調べただけ。怨恨説や秀吉説、家康説などもあったけれど、当時の人間関係を完璧に把握していた訳では無い以上、その情報を参考にはしてはいけない。


 つまりは、俺の目で明智光秀という男を見極め無ければならないのだ。裏切り者か、否かを。先程まで、権六達にやっていたように。






 一度目を瞑り、感情をリセットする。不安や疲労を、即興の仮面で覆い隠す。この機会を逃せば、次いつ会えるのか分からない。本能寺の変が起きるまで時間もないのだ。無理をしてでも会わねばならない。


「大丈夫です。呼んで下さい」


 短く告げ、息を整える。大丈夫、大丈夫だ。今、この場には親父も新五郎もいる。松達も。それに、そもそも武器の類は持ち込み不可なのだ。例え、明智光秀が本当に裏切り者だとしても、この場で殺されることは限りなく低い。


 そして、数分後。小姓が、一人の男性を引き連れて帰ってきた。


「失礼致します。明智日向守様が参りました」


 来たかっ! 思わず腰が浮いてしまいそうになったが、なんとか堪えて座り直す。


「うむ、通せ」


「はっ」


 小姓が素早く捌け、控えていた男性が入ってくる。歳は、六十後半くらいだろうか。これが、明智光秀。想像していたよりも、ずっと御年寄だった。


「明智日向守光秀、只今参上致しました。某の為に御時間を割いていただき、誠に恐悦至極にございまする」


「…………ほぅ」


 感嘆する。光秀の平伏する姿は、今まで見てきた誰よりも美しく思えた。川の流れのように、無駄のない洗練された所作だった。


「うむ。よく来たのぅ、十兵衛。面をあげよ」


「はっ」


 顔を上げる。深く刻まれた皺。穏やかな眼差し。身に纏う涼やかな風。人格者。そんな言葉が脳裏を過ぎる。


(……これが、日本史上最も有名な裏切り者? )


 そんな、想像とは正反対な人物像に俺は混乱していた。






「十兵衛は、初めて見るか。昨日は、未だ安土に着いていなかったからな。……この子が、我が嫡男三法師だ。我が子ながら、幼子とは思えぬほど高い知性を宿していてな。中々、先の楽しみな子だよ」


 頭を撫でられる。そこで、ようやく俺は正気を取り戻すことが出来た。


「私が、織田三法師である。明智の噂は聞いたことがある。非常に、優れた智将であると。……安土に着いたばかりに呼び出して申し訳ない。だが、一度明智とは話を聞いてみたかったのでな」


「いやはや、お気になさらず。主君の命であれば、喜んで参上致しまするよ。……そして、お初にお目にかかります、三法師様。明智十兵衛と申します。どうか、某の事は十兵衛とお呼びくださいませ」


「三法師よ。こやつは、父上も信頼している織田家の重臣でな。坂本の地を任され、朝廷や幕府との仲介もしていた。そして、此度の馬揃を企画したのは、何を隠そうこの十兵衛よ」


 驚愕する。正直、五郎左が一番爺さんから信用されていると思っていた。しかし、もしかしたらこちらの光秀の方が……。


「それは……凄い、ですね。このような規模の見世物を執り行うとなれば、その準備だけでも莫大な労力が必要なことは明白でしょう。誠に、感服致します。……本当に凄いな、十兵衛は」


「誠に、ありがたきお言葉。そのように喜んでいただけたのであれば、これ以上ない幸せにございます。馬揃当日は、近隣諸国のみならず日ノ本中から人が京へ押し寄せることでしょう。その賑わいは、今までにない程の規模。どうぞ、三法師様もお楽しみくださいませ」


「うん。楽しみにしてるね」


「ははっ」


 俺が、楽しみにしていると告れば、光秀は心から嬉しそうに微笑んだ。自身も、その日が来ることは待ち望んでいたかのように。




 


 ――本当に、この人が爺さんを殺したの?






「……十兵衛は、最初からお爺様に仕えてきたのか? 」


「いえ、某が織田家に仕え始めたのは、ここ十五年程でございます。美濃斎藤家を出奔してからは、各地を転々としておりました故。……あの頃は、何時野垂れ死んでもおかしくはない生活を送っておりました」


 そして、光秀は自身が若い頃の話をしてくれた。主君を毒殺され、一族郎党行き場を失ったこと。朝倉を頼り、越前へ逃げ込んだこと。家族を養う為、幕府の使いっ走りとして近隣諸国を回ったこと。そして、縁あって爺さんと繋がりを得たこと。


「……そうか。苦労、してきたのだな。……故郷は、美濃だと言っていたが、十兵衛は帰れておるのか? 毎日、忙しいと聞くが」


「そうですなぁ。某は、美濃にある明智荘で生まれ育ったのですが、正直中々帰れてはおりませんな。屋敷の管理は、もっぱら親戚に頼りきりでございますよ」


 はははっと、光秀は軽い調子で笑っているが、言葉の節々から僅かな寂しさを感じられた。そりゃそうだ。故郷を追われ、何十年かぶりに帰ってくることが出来たんだ。故郷への思い入れは人一倍あるだろう。


「寂しくはないのか? 十兵衛が望むのであれば、私がお爺様に少しでもお休みをいただけるようにお願いしよう。私の護衛という形も出来ると思う」


 思わず、そんなことを言ってしまった。出来もしないことを。堪らず、顔を伏せる俺。しかし、光秀はそんな俺に優しい眼差しを向けたままだった。


「心配は、ございませぬ。次に故郷に帰る時は、上様が天下泰平の世を築き上げる時と決めております故。そうして、某はやっと胸を張って帰れるようになるのです」


「そう、か。……すまなかったの。つまらぬことを、言ってしまった」


「いえいえ、お心遣い感謝申し上げます。……三法師様は、とてもお優しいお方なのですね。人は、情には情で返す者。人を信じられる者に、人は付き従うのでございます。どうか、いつまでもそのお心を大事になさってくださいませ」


「……うん。分かったよ」


 深い慈愛に満ちた表情を向ける光秀を見て、俺は思わず息を呑んでしまった。


 ……なんて、澄み切った眼をしているんだろう。言葉に嘘偽り無し。本心から、俺を気遣ってくれているのが伝わってくる。






 ――これが、悪名名高き謀反人の姿なの?






 ……分からない。俺には、とんと分からなくなってきてしまう。だから、そんな光秀にどうしても一つ聞きたい事がある。


「……最後に、ひとつ聞きたいことがある」


「はっ、なんなりとお聞きくださりませ」


「十兵衛にとって、お爺様とはなんじゃ? 」


 今の俺は、一体どんな顔をしているだろうか。きっと、いろんな感情がごちゃ混ぜになった酷い顔を晒しているんだろうな。


 光秀は、そんな俺の鬼気迫る様子から何かを察したのか、姿勢を正して俺を正面から見つめた。


「上様が拾ってくださらなかったら、某など道端の枯葉の様にとうの昔に朽ち果てていたでしょう。今、某があるのは、一族の生活があるのはひとえに上様あってのこと。この御恩は、某の身一つでは到底返しきれませぬ。明智家は、子々孫々に至るまで織田家に忠義を尽くす所存でございまする」


「――っ」


 その言葉からは、一切嘘は感じ取れなかった。






 ***






 その後、光秀との会談は無事に終わり、俺は部屋に戻されている。これで、俺が安土城まで来た目的は無事達成出来た。


 それなのに、光秀の最後の言葉を聞いて俺は泣きたくなった。何故、こんな良い人を疑わなくてはいけないのだろうと。なんて、なんて辛いんだろうか。俺には、どうしても光秀が謀反を起こすとは思えない。やっぱり、黒幕がいるのだろうか。


 だが、それでも――


「松」


「はっ」


「今、空いている子は居るかな? 」


「桜ならば、空いているかと」


「……では、桜を本能寺付近に潜伏させておいてくれ。期限は、来年の年末まで。京で異変が起きた時は、速やかに私の下へ戻ってくるようにと伝えて」


「御意」


 松の気配が消えた後、俺は襖を開けて夜空を見上げた。月は、未だ雲の影に隠れている。




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