正体

@takahashinao

正体

はい、結婚する前から彼が秘密を抱えていることには気づいていました。


ところで、ここは煙草吸ってもいいのかしら。いえ、わたしは吸いません。最近やめたんです。

ただ、なんだか煙っぽい匂いがしたから、吸える場所なのかなって。


ああ、なるほど。確かに吸える人たちで集まると匂いうつりしますね。


彼の秘密に気づいたきっかけも匂いです。


わたし、女に囲まれて育ったんです。

父はわたしが物心つく前に事故で亡くなりました。母と3人の姉、それに祖母がわたしを育ててくれました。


そう、女っていろんな匂いがするものなんです。たぶん、あなたが想像するような香水やシャンプーの匂いだけじゃなくて、もっと生々しい生き物としての特有の獰猛な匂い。あなた方にはフェロモンとか色気で伝わるのかもしれませんね。


だから、わたし、学校とか男性がいる場所はすぐにわかるんです。全然違うから。


でも、彼には気づかなかった。

だって匂いがしないんです。

自分の身なんて構わないような顔してるのに、体臭、生活臭、制汗剤とか消臭する薬剤の匂いすらしなかった。

それで気づいたの。

彼は常に自分の存在を消そうと考えている人間なんじゃないかって。


まだ雨は降っていますか。

よかった、この時期の雨は身体を冷やしますから。予報では雪に変わるくらい冷え込むらしいですよ。


そう、傘の心配をしなくなったのもきっかけでした。

わたしの姉はみんな豪胆な人たちで、外出するときに少々雨が降っていようが傘を持っていきません。だから、本格的な雨予報が出ている時はわたしが姉たちのカバンに傘を入れていました。


けど、あの人、傘、忘れないんです。

いつもカバンの中にばっちり忍ばせてる。

情報を把握して準備を怠らない。

彼の基本姿勢ですよね。


それから、彼が出かけていく先を注意深く観察するようになりました。

ふふ、GPSではないです。

お友だちが教えてくれるんです。

今の時代、主人の写真と不和の匂いさえあれば、たくさんの善意の人たちからの情報が集まる。居場所がリアルタイムでわかるほどに。


そして、新聞やニュースとつきあわせれば、その近くでよく人が亡くなることに気づきました。

主人はよっぽど死に好かれているのでしょう。


つまり、あなた方の不安は、彼の身内であるわたしが何者であるかわからないという点ではありませんか?


わたしは普通の女ですよ。

どこにでもいる普通の。

ただ彼を深く愛しているだけ。


何を抱えているかは問題ではありません。

愛しているものは何があっても守り抜く。

危険があれば、何としてでも取り除く。

母からの教えです。


いえ、ごめんなさい。

これからは彼が1番ではなくなるかもしれません。

だって、この部屋にはもう1人いるんです。

まだ人とは言えないかもしれませんけど。


いえ、まだ彼には伝えていません。

きっと喜んでくれるはず。

もし、喜んでくれなかったら、わたしの彼への愛も揺らいでしまうかもしれません。


いえ、こちらこそ長時間ありがとうございました。

大変、もうこんな時間なんですね。スーパーが混んじゃう。


カップはこのままで?

つい片付けのことが気になってしまうの。

中途半端だときれいにしたくなっちゃう。


ねえ、最後に。

こんな雨上がりの夜は地面が凍結するみたいです。

階段から滑って転がり落ちることがないようにあなたも十分に気をつけて。

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