第14話 俺はヒーロー?
「じゃあまたね。取り敢えず、連絡はさっきの電話番号にお願いね。無理は言わないけど、スマホを変えたら報告してちょうだい。アプリを使った方がやりとりは簡単だから」
下へと向かうエレベーターに乗った俺のことを、西園寺さんは見送りしてくれるようだ。
「わかった。すぐに新しいスマホにするよ」
俺はカバンの中から、ほぼ未使用のせいで汚れの全くないスマホを取り出した。
見た目こそ綺麗だが、スペックはかなり低いらしく、およそ五年前の機種ということもあって、最新のスマホに使える機能が使えないようだ。
「うんうん。何かわからないことがあったら何でも聞いてね? 小説を書くなんて、普通に生きていたら経験するものじゃないから、わからないことだらけだと思うしね」
西園寺さんはクールな雰囲気を保ちながらも優しげな口調で言った。
スカートではなくパンツスーツを履いている西園寺さんは、社内だと非常に格好の良いクールな人柄らしく、すれ違う若い社員たちが憧憬を孕んだ目をしていることがわかった。
盗み聞きだが、「西園寺さんが作家さんとあそこまで仲良くなるなんて……」という声も聞こえてきたので、編集者と作家という間柄とはいえ、特定の人物と親しくなることは珍しいらしい。
俺と西園寺さんはそれほど親しくはないのだが……。
「ああ。仕上げたらすぐに連絡する。またな」
いつまでもエレベーターをここで止めたままにしているのは迷惑なので、俺は扉を閉めるボタンをワンプッシュして、西園寺さんに別れを告げた。
西園寺さんは返事こそしなかったが確かに笑っていた。
もしかすると、この後何か楽しいことでも待っているのかもしれないな。
まあ、何にせよ、俺は俺の仕事を仕上げるだけだ。
次に寝るのは約六日。
金は十分あるし、体力と忍耐力、精神力が続く限り小説を書きまくるとしよう。
あ、その前にパソコンとスマホを買いにいかないとな。
それが終わったら家に篭って本気を出すか……。
◇
「——ぁざぁっしたぁっー」
自動ドアが開く機械音が鳴ると同時に、どこか気怠げな雰囲気が漂う店員の男が、間延びした声で言った。
現在の時刻は18時。
無事に格安のノートパソコンと適当なスマホを購入した俺は、タナカ電気を後にして帰路に就いていた。
「……どんな話にしようか」
俺は人の気配がない場所を探しながら、車通りが多い交差点で信号待ちをしていた。
西園寺さん曰く、まずはなんでもいいから書いてみるのが大事らしい。
大まかな物語の流れを決めたらすぐに取り掛かりたいところだ。
「……ラブコメ……」
俺の目の前にはハンバーガーショップ——マグナルドの袋を持った一人の女子高生がいた。
それを見た俺は真っ先に”ラブコメ”という言葉が頭によぎった。
ラブコメ。それはラブコメディの略。
それは純粋な恋愛ものとは違い、恋愛の中に様々なキャラクターやコメディを織り交ぜて、テンポ良く話が進行していくものだ。
俺はアニメや漫画が好きだったので、もちろん見たことはあるし、テンプレや流れもある程度は把握している。
「無理だな」
だが、そんな考えはすぐに頭の中から消去した。
俺には恋愛経験がほとんどない。
ラブコメはいわば王道だが、俺にはそんなピンク色の人生を過ごした記憶はないので、中々難しいものがある。
もちろん、経験がなくてもスラスラと描写する事ができる人がいるのだろうが、異世界で血みどろの五年間を過ごした俺には現実的な話を作るのは少々荷が重い。
「……」
そんなことを考えていると、いつの間にか信号が青色に変わっていたので、俺は既に歩き始めていた女子高生から少し遅れて足を動かし始めた。
女子高生はスマホをいじっていて前を見ておらず、若干足元がヨタついている。
普通の歩行に支障はないが、ここは車通りの多い交差点だ。
いくら確率が低かろうと、危険は訪れるものだ。
そうたった今、この瞬間でさえ……。
「……時速100kmは軽く超えてるな」
俺は視線を右に動かして、グッと目を細めた。
その先では、かなり車高の高いSUV車が車の間を縫うようにして暴走しており、明らかにただ事ではないことが分かる。
女子高生はまだそれには気がついていないが、あと三秒で気がつくだろう。
そして、同時に一つの命が失われるだろう。
「……え?」
クラクションすら鳴らさず、ブレーキすら踏まない。
そんな巨大な車がいきなり目の前に現れたら人間はどうなるのだろうか。
答えはこうだ。
目が点になり、逃げることを忘れてその場に立ち止まる。つまり死の恐怖すら感じることなく死にゆくのだ。
目の前に巨大なSUV車が接近していることにようやく気がついた女子高生は、足を震わせてその場に立ち尽くしていた。
脱力した手からはスマホがこぼれ落ちる。
このままいけば、一秒後には肉塊に変わる。
だが、安心してほしい。俺は魔法が使える。
目の前で死なれたら寝覚が悪いので、助けるとしよう。
「ったく……減速しろ……」
俺は空気を切り裂くように声を出した。
車を止めるための限定的な魔法なんて存在しないので、今即席で考えた名もない魔法だ。
具体的に言うなら、声の波長に魔力を込めて無理やり魔法っぽくしたものだ。
「……成功か……だが……」
車は運転手の意思とは関係なく、徐々に減速していく。
しかし、ギリギリのところで魔法を発動させたため、やはり女子高生への接触は免れない。
「——キャッ!」
「悪いな。通報はしないでくれよ?」
俺は瞬時に姿勢を低くしてアスファルトを蹴った。
向かった先は女子高生が立ち尽くす、交差点の真ん中付近だ。
女子高生の足と首の辺りに腕を滑り込ませて、その場から離れる。
その間、僅か一秒足らず。
「……間に合ったか」
車の運転手は突然の減速に驚いたのか、急ハンドルをきった勢いそのままに綺麗にスリップしてから横転した。
「——ヒーローみたい……」
現場を眺めて呟いた俺の顔を、女子高生はうっとりとした視線で見上げてきた。
同時に俺の胸の辺り、真白くほぼ未使用のワイシャツをくしゃっと握ったが、女子高生の手は少し汚れていたのか、俺のワイシャツにその汚れが付着してしまった。
まあ、この程度は気にする必要はない。
鉛筆かなんかの汚れだろう。洗濯をすればすぐに落ちるレベルだ。
「そんなにいいもんじゃない。怪我はなさそうだし、俺はもう行く。気をつけてな」
俺は女子高生を慎重におろして、その場から立ち去った。
それと同時に横転した車をぐるりと囲うようにしてパトカーが到着したので、もうここに俺がいる必要はないのだ。
勝手に事態は収束するだろう。
それに……俺はヒーローなんかじゃないしな。
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